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不毛に咲くハルジオン  作者: ユノ・サカリス


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最終話《小さな場所でも》

俺が家を出て八年が過ぎていた。

今、俺は畑の上にいる。

 

ユカと逃げ出すように東京を出た。

辿り着いた田舎町の人達は温かかった。

前科者と知りながらも、最初は住み込みでふたりを農家で働かせてくれた。

そして今は安いアパートを借りた。


ちゃんと鍵が掛かる部屋。


しばらくして、ユカのお腹に子供がいることがわかった。

ふたりで大切に育てると誓った。

まだ大丈夫というユカを俺は仕事から離れさせた。


畑に出る仕事は、嫌いじゃなかった。

朝露で濡れた土の匂いも、黙々と鍬を振るう時間も、東京で削られていた感覚を、少しずつ取り戻させてくれた。


汗をかいて、手のひらがひび割れて、それでも夜には眠れる。


それだけで、十分だった。


ここでは過去を聞かれることも、理由を問われることもなかった。


前科がある――それ以上でも、それ以下でもなく、ただ“今、働いている人間”として扱われた。


その距離感が、俺にはありがたかった。


ユカは、腹が大きくなるにつれて、よく窓辺に立つようになった。

遠くの山を見て、何を考えているのか分からないまま、ただ静かに、そこにいた。


俺は、その背中を見ながら、守るとはどういうことなのか何度も考えていた。


抱え込むことじゃない。

代わりに戦うことでもない。


ただ、殴られない場所に一緒にいること。

怯えなくていい夜を、一日ずつ積み重ねること。


それしか、俺にはできなかった。


ある日の仕事中、ユカが真剣な顔をして畑に走ってきた。


「おい、ユカ、走っちゃ――」

 

オレの言葉を遮るように、ユカはあるものを差し出してきた。


「ユウタ!これ……!」


手紙と、板チョコ二枚。


「ナツちゃん、――来たよ……」


思考が追いつかない。


「――え?ナツ……?」


「ユウタ、ごめん。ユウタのこと呼びに行くって言ったのだけど、それはいいって。会わないで帰るって。ただ……これを渡してくれって……。ごめんなさい」


受け取った俺は膝から崩れた。

そのまま急いで手紙の封を開けた。

そこには、ナツの息遣いまで伝わるような、一文字ずつ丁寧に書かれた文字が並んでいた。


――お兄ちゃんへ

突然お手紙を書いてごめんなさい。

ずっと、探していました。

ニュースで、お兄ちゃんのことを知りました。

名前を見て、すぐに分かりました。

怖くて、でも、やっと見つけられたと思いました。

私は高校生になりました。

施設から学校に通っています。

周りの人たちは優しくて、私の過去を全部知ってくれています。


「――ナツ……こんな綺麗な文字が書けるようになって……」


涙と嗚咽で手紙の文字が霞む。

 

――あの家を出てから、私はたくさん泣いて、たくさん怒って、それでも、ちゃんともう大人になりました。

お兄ちゃんがいなかったら、私はきっと、ここまで来られませんでした。

お兄ちゃん、私のことは心配しなくて大丈夫です。

私は、ちゃんと幸せです。

だから、お兄ちゃんも、どうか、自分の人生を生きてください。  

――ナツより


読み終えたあと、俺はしばらく動けなかった。


救われた、という感覚とは少し違った。

それは、赦された、に近かった。


守れなかったと思い続けていた妹が、自分の足で立ち、自分の人生を選んでいた。


それだけで、十分だった。


だから、まだ近くにいるかもしれないナツを、追いかけるのをやめた。


俺はユカに手紙を見せた。

ユカは黙って読み、そっと俺の手を握った。


「……よかったね」


それだけ言って、何も付け足さなかった。


数ヶ月後、ふたりの間に子どもが生まれた。


決して裕福ではない。

大きな家も、立派な車もない。

仕事は楽じゃないし、世の中は相変わらず理不尽だ。


それでも――

朝、誰かの寝息が聞こえて、夜、同じ食卓を囲める。


それだけで、胸の奥が、少しあたたかくなる。


畑の脇、踏み固められた土の縁に小さな花が咲いていた。


誰かが植えたわけでもなく、世話をした覚えもない。

それでも、そこに根を張り、風に揺れながら小さな白い花弁を広げている。


ハルジオン。

貧乏草とも呼ばれている花だ。


栄養のない土地でも育ち、踏まれても、刈られても、気づけばまた同じ場所に咲いている。


綺麗だと言われることもなく、誰かに守られることもない。

 

それでも、咲くことをやめない。

そして翌年にはまた芽を出す。


誰かに期待されているわけでもないのに、ただ、咲く。


俺は、その花を見ていると、不思議と胸が静かになった。

そして、その花から目を離せずにいた。


守れなかったもの。

失った時間。

奪われた過去。


それでも、ここに立っている自分。


この場所が、楽園だとは思わない。

でも、もう地獄でもなかった。


誰にも誇れなくていい。

誰にも羨まれなくていい。


ここに在って、今日を越えられれば、それでいい。


本当にそう思えるようになったのは、ナツの手紙を読んだあとからだった。


守れなかったと思い続けていた時間が、否定されなかった。

無駄じゃなかったと、誰かに言ってもらえたわけでもない。


それでも、ナツが、自分の足で立っている。


その事実が、俺の中の何かを静かに終わらせてくれた。

 

小さな場所でも生きていける。


そう思えた瞬間、風に揺れるハルジオンが、少しだけこちらを向いた気がした。

 

俺は思う。


幸せって、何かを「手に入れる」ことじゃない。


誰かと一緒に、殴られず、怯えず、そして、「何も奪われず」今日を終えられること。


それだけで、人は、生きていける。


過去は消えない。

傷も、記憶も、ずっと残る。


それでも――

人は、選び直せる。


小さな場所で、小さな幸せを、ちゃんと大切にすることを。


それが、この理不尽な世界で、生き延びるということなのだから。

 

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