第九章 モップ
「……入らないね」
ゾーイ・ベネットは床に座り込んだまま呟いた。
未知の生き物は、調査施設の自動ドアの敷居を越えたところで、完全に動きを止めていた。
そこから先へ進む気配はない。
後ろで腕を組んでいた先輩職員が眉をひそめる。
「警戒してるんじゃないか?」
「たぶん」
「じゃあ、外に戻したらどうだ?」
ゾーイは生き物を見つめた。
「戻る?」
生き物は動かない。
「ほら、動かない」
「いや、俺に聞かれても困るんだけど……」
ゾーイが立ち上がる。
その瞬間、生き物の身体がキュッと縮んだ。
ゾーイはすぐに座り直した。
少し待つと、身体がふわりと元の大きさに戻った。
先輩職員が呆れたように鼻を鳴らす。
「……完全にお前を目で追ってるだろ」
「目、見当たらないですけどね」
「じゃあ、なんで気配が分かるんだよ」
ゾーイは首をひねった。
「分かるから、分かります」
「それ、本部への報告書には絶対書くなよ」
*
施設内。
『未確認野生生物の接触例』
一次報告は、すでに本部の管理サーバーへ送られていた。
当然ながら、研究部門からの問い合わせが次々と届く。
《生体サンプルの採取状況は?》
《未実施》
《物理的接触試験は?》
《未実施》
《現在の捕獲管理状態は?》
ゾーイの指が止まった。
《捕獲していません》
送信。
すぐに返信。
《では、個体の現在位置は?》
ゾーイはエントランスを見た。
《入口》
《逃走防止措置は講じているか?》
ゾーイは眉を寄せた。
《していません》
少し間が空く。
《逃走の可能性について》
ゾーイは迷わず打った。
《帰りたければ、自分で帰ります》
横から覗き込んでいた先輩職員が顔を引きつらせた。
「おい……本部にそんな言い方したら怒られるぞ」
「なんでですか? 事実です」
ゾーイは送信ボタンを押した。
*
しばらくして、生き物が動いた。
ゾーイは息を呑む。
奇妙な移動方法だった。
四足で歩くわけでもない。
蛇のように這うわけでもない。
身体の接地部分が、液体のように滑らかに変形していく。
一部が硬くなって身体を支え、別の部分が柔らかく伸びる。
それを繰り返しながら、ゆっくりと前へ進んでいた。
ゾーイは追いかけなかった。
一定の距離を保つ。
三メートル。
五メートル。
生き物が止まる。
ゾーイも止まる。
生き物は、床に置かれていた金属製の工具箱へ近づいた。
身体の一部が細く伸びる。
工具箱に触れる。
しばらくして離れた。
「それ、食べ物じゃないよ」
先輩職員が振り返る。
「食べようとしてたのか?」
「知りません」
「じゃあ言うなよ」
*
生き物はさらに奥へ進んだ。
壁。
机の脚。
空調の吹き出し口。
一つずつ近づき、身体の一部で触れ、離れる。
まるで、初めて出会った世界を、自分の皮膚で確かめているようだった。
ゾーイは数メートル後ろからついていく。
生き物が止まるたび、彼女も足を止めた。
「大丈夫」
言葉が通じているかは分からない。
それでも声をかける。
「何もしないからね」
廊下の角を曲がったところで、小さな事件が起きた。
備品棚の脇。
使い古された清掃用モップの替え布が、低い棚から垂れ下がっていた。
生き物が近づく。
身体の一部が布に触れた。
繊維が、皮膚の不規則な突起に引っかかる。
生き物が進む。
布もついてくる。
生き物が止まる。
布も止まる。
もう一度進む。
やはり布は離れない。
その瞬間。
生き物の身体がギュッと縮んだ。
「あ」
生き物が慌てて前進する。
布も引きずられる。
速度が上がる。
布も勢いよくついてくる。
そして――。
生き物は清掃布を引きずったまま、廊下を猛スピードで走り出した。
「待って待って! それ敵じゃないから!」
ゾーイが追いかける。
先輩職員も走り出した。
「何やってんだ、お前たち!」
「引っかかっちゃったんです!」
「取ってやれよ!」
「今近づいたら、余計怖がります!」
「絶対、今の方が怖がってるだろ!」
*
廊下の突き当たり。
行き場を失った生き物が、壁際で丸くなっていた。
清掃布はまだ身体に絡んでいる。
ゾーイは二メートルほど手前で膝をついた。
近づかない。
指先で床を叩く。
トン、トン。
生き物は固まったままだった。
ゾーイは呼吸を整え、もう一度叩いた。
トン、トン。
沈黙。
そして――。
トン、トン。
小さな音が返ってきた。
「……よし」
ゾーイはゆっくり手を伸ばした。
少しずつ距離を詰める。
生き物は逃げない。
「取るよ。痛くしないからね」
指先で布の端をつまむ。
生き物の身体が縮んだ。
ゾーイは手を止める。
「大丈夫、大丈夫……」
しばらく待つ。
身体が少し柔らかくなった。
ゾーイは慎重に繊維を外した。
布が離れる。
「ほら。ただの布」
生き物は身体の一部を伸ばし、床に置かれた布へ向けた。
ゾーイはその姿を見て、ぽつりと言った。
「……モップみたい」
先輩職員が突っ込む。
「引きずってたのがモップの布だっただけだろ!」
「この子が、です」
「全然似てねえよ!」
ゾーイは生き物を覗き込んだ。
「モップ」
反応はない。
「モップ」
トン、トン。
ゾーイの顔が明るくなった。
「ほら!」
「いや、絶対名前に返事したんじゃないだろ!」
「返事しました!」
「たまたまだ!」
「モップ」
トン、トン。
ゾーイは得意げに先輩職員を見上げた。
先輩職員は頭を押さえた。
「……もう好きにしろ」
*
その日の夕方。
本部へ提出する正式な観測記録。
『未確認野生生物個体 A』
ゾーイは、その横に書き加えた。
『通称:モップ』
送信。
数秒後、修正要求が届く。
『非公式な通称の記載は不要です』
ゾーイは一度消した。
そして、備考欄を開く。
『備考:現地スタッフ間における呼称「モップ」』
再送信。
今度は受理された。
ゾーイは小さくガッツポーズをした。
「勝った」
*
それから、モップは調査施設に居ついた。
出入りを妨げないようにしていたが、外へ帰ろうとはしなかった。
夜になると、施設の片隅に身体を丸める。
壁と床が接する、静かな場所。
眠っているのかどうかは分からない。
ただ、動きを止めている。
ゾーイが静かに通りかかると、身体の一部がふわりと持ち上がった。
「寝てていいよ」
身体がゆっくり下がる。
ゾーイは通路の照明を一段落とした。
*
翌朝。
「モップ!」
ゾーイが施設へ入ってきた。
返事はない。
「モップー?」
奥の廊下から――。
トン、トン。
ゾーイの口元が緩む。
「おはよう」
トン、トン。
*
数日が経った。
施設のスタッフたちも、モップの存在に慣れ始めていた。
「モップ、そこ機材車が通るぞー」
反応なし。
「ゾーイ、モップどこ行った?」
「分析室の隅です」
「あいつ何してんだ?」
「分かりません」
「お前のペットだろ」
「ペットじゃありません。同居人です」
「名前つけただろうが」
「識別名は必要です」
「未知生物Aでいいだろ」
ゾーイは露骨に嫌そうな顔をした。
「かわいくないです」
*
ある日の午後。
施設に一人の少年がやってきた。
十六歳。
ノア・リード。
両手に重そうな補給資材の箱を抱えている。
「届け物でーす」
ゾーイが奥から顔を出した。
「あ、ノア」
「これ、めちゃくちゃ重いんだけど」
「そこの台に置いて」
「ちょっとは手伝ってよ」
「今、データ入力中」
「俺も配送の仕事中!」
ノアは近くの開拓居住区に住む少年だった。
学校帰りに、施設の雑用や物資運搬を手伝っている。
アルマ生まれのアルマ育ち。
この星の空が、彼にとって当たり前の空だった。
*
ノアは箱を台に置き、腰を伸ばした。
「うわ……腰抜けるかと思った」
そのとき。
動きが止まった。
廊下の奥。
薄暗い場所に、モップがいた。
「……何あれ」
「モップ」
「何それ」
「名前」
「そうじゃなくて!」
ノアは目を丸くした。
「……生き物?」
「うん」
「何の?」
「分からない」
「分からないって……」
「まだ分類できてないの」
ノアが興味津々で近づこうとする。
ゾーイが手をかざした。
「急に近づかないでね」
「なんで?」
「まだ人に慣れてないから」
ノアはその場で止まった。
モップも動かなかった。
ノアが首をひねる。
「目、どこ?」
「分からない」
「口は?」
「分からない」
「耳は?」
「分からない」
「じゃあ何なら分かるんだよ!」
ゾーイは少し考えた。
「モップって呼ぶと返事する」
「それ、生物学的に何も分かってないだろ!」
*
ノアは膝をついた。
指先で床を叩く。
トン、トン。
モップ。
トン、トン。
ノアの表情が変わった。
「うおっ!」
もう一度。
今度はリズムを変える。
トン、トン、トン。
少し間を置いて。
トン、トン、トン。
「すげえ! 返してきた!」
ノアが笑った。
その声に反応したのか、モップの身体がふわりと広がった。
ゾーイの目が動く。
「……今の」
「何?」
「もう一回やってみて」
ノアが叩く。
トン、トン、トン。
モップが返す。
トン、トン、トン。
身体がまた少し広がった。
ゾーイが近づいて、かがみ込む。
「嫌がってない……」
「喜んでるの?」
「分からない。でも、嬉しそうに見える」
ノアが笑った。
「また感覚で言ってる。報告書に書くの?」
ゾーイはノアを見た。
「みんな同じこと言うね」
*
セレスティア。
惑星間通信観測局。
ヘレン・カーターは、アルマから届いた未知生物の報告書を読んでいた。
エリックは隣で別のデータを処理している。
ダニエルが覗き込んだ。
「これ、例の生き物?」
「ええ」
「写真とかないんですか?」
「UNIT-2では画像を送れないのよ」
エリックが呟く。
「文字だけだからな」
ヘレンは画面をスクロールした。
周辺環境。
生体データ。
行動記録。
そして、数日前の時刻補正履歴。
『+41 ns』
ヘレンの指が止まった。
*
エリックが尋ねた。
「……博士、そんなに気になるんですか?」
「気になるわね」
「生き物が?」
「生き物そのものより、発見された場所と時間よ」
ヘレンは広域星図を開いた。
ゾーイが最初にモップを発見した地点を表示する。
そこへサイモンが入ってきた。
「最新の同期ログです」
端末を置く。
セレスティアの新しい補正記録。
『+46 ns』
ヘレンが言った。
「アルマ側は?」
エリックがキーを叩く。
《時計の数値送って》
二秒後。
《挨拶は?》
《おはよう》
《もう昼だけど》
《こんにちは》
《よろしい》
ダニエルがニヤニヤする。
「完全にしつけられてるな」
「うるさい」
*
ケイトからデータが届いた。
サイモンが解析する。
アルマ各地の新しい観測記録。
『+43 ns』
『+45 ns』
『+46 ns』
それぞれの数値は、各観測設備が記録した補正量だった。
サイモンは測定方式や時刻基準の違いを確認しながら、変動の傾向を比較した。
その中で、野生調査施設の周辺だけが、やや異なる挙動を示していた。
サイモンが眉をひそめる。
「……ここは揺れ幅が大きいですね」
ヘレンが星図を見る。
「モップのいる場所ね」
ダニエルが身を乗り出した。
「じゃあ、そのモップが時計を狂わせてるんですか?」
「分からないわ」
ダニエルが天井を見上げる。
「本日五回目の『分からない』いただきました」
サイモンが訂正した。
「今日は三回目です」
ヘレンが二人を睨んだ。
二人は黙った。
*
アルマ。
環境観測部門。
ケイトは野生調査施設のゾーイと通信していた。
アルマ内の通常回線による映像通話だった。
画面には、若い女性が映っている。
「環境データ解析部のウォーカーです」
『ゾーイ・ベネットです。あの……』
ゾーイは少し警戒しているようだった。
『……モップを研究施設へ連れていくんですか?』
「え? いいえ。聞きたいのは時計のこと」
『時計……?』
「その子を最初に見つけたときの、正確な場所と時刻の記録が欲しいの」
ゾーイは目を丸くした。
『あ、それだけですか?』
「今のところはね」
『なら、すぐ送れます』
*
ゾーイが端末を操作し始めた。
そのとき。
画面の隅を、何かが通り過ぎた。
ケイトの手が止まる。
「……今の、何?」
ゾーイが振り返った。
『ああ、モップです』
「モップ?」
『あの子の名前です』
ケイトは少し黙った。
「……どうしてそんな名前?」
『清掃用の布を引きずって、廊下を暴走したからです』
ケイトは吹き出した。
「……かわいい」
ゾーイの顔が明るくなった。
『ですよね! すっごくかわいいんです!』
*
データが届いた。
ケイトは最初の接触時刻と、周辺設備の補正履歴を照合した。
環境データ。
時刻記録。
そして、ゾーイの観察メモ。
『数値上の環境変化なし。ただし個体は何らかの変化を警戒しているように見えた』
ケイトは、その一文を読み返した。
ミアが覗き込む。
「どうしたの?」
「このゾーイって人」
「うん」
「測定器に異常が出ていないのに、何かを感じ取ってる」
「勘でしょ?」
「そう。勘」
ケイトは時刻補正のグラフを開いた。
「でもね、こういう直感って、あとから数字が追いかけてくることがあるのよ」
調査施設。
ノアは床に座り込み、宿題の端末を開いていた。
すぐ横には、身体をゆったりと広げたモップがいる。
戻ってきたゾーイが呆れた顔をした。
「なんでここで宿題やってるの?」
「家より静かだし。モップもいるし」
ゾーイはモップを見た。
「いつの間にそんな近くまで?」
「知らない。気づいたら隣にいた」
ノアはペンを握り直した。
しばらくして、手が止まる。
「……あー、分かんねえ」
ペンを床に置いた。
トン、トン。
偶然の音だった。
だが、モップが反応した。
トン、トン。
ノアが笑う。
トン、トン、トン。
モップも返す。
トン、トン、トン。
ゾーイが振り向いた。
「遊んでないで宿題やりなよ」
「モップが先に話しかけてきたんだって!」
「嘘つき」
*
ノアは今度、テンポを速めた。
タタタン!
モップの返答。
……トン、トン、トン。
ノアとは違い、ゆっくりした間隔だった。
ゾーイの表情が変わる。
「ノア、待って」
「え?」
「もう一回、速く叩いてみて」
ノアが叩く。
タタタン!
モップ。
……トン、トン、トン。
「……あれ?」
ノアが首をひねる。
「下手くそだなあ」
「違うかも」
ゾーイは端末を取り出した。
音声と振動の記録を開始する。
「もう一度やって」
ノアは何度も叩いた。
速く。
遅く。
不規則に。
モップは、そのすべてを同じ速さで真似するわけではなかった。
ときには応じない。
ときには、同じ数だけ叩く。
そして、何度も現れる一定の間隔があった。
トン、トン、トン。
ゾーイは記録を見つめた。
「……この子、ただ真似してるだけじゃないのかも」
「どういうこと?」
「自分のリズムを持ってる」
夜。
施設は静まり返っていた。
モップは壁際で丸くなっている。
ゾーイは非接触型の高精度センサーを手に取った。
離れた位置から、内部の微細な変動を測定する。
既知の動物に見られるような明瞭な心拍は検出できない。
呼吸に相当する動きも、はっきりしない。
だが、身体の内部には、周期的な変化があった。
ゾーイはその記録を、昼間の打撃音と比較した。
周期の長さが近い。
さらに、一部の変動のタイミングも対応していた。
「……これ」
何度も確認する。
測定器のノイズではないか。
床の振動が混ざっていないか。
記録を切り分ける。
それでも、類似した周期が残った。
ゾーイは床に膝をついた。
「……これ、君の『時計』なの?」
モップは答えなかった。
ゾーイはそのデータを、ケイトへ送った。
*
セレスティア。
深夜の観測局。
ヘレン、サイモン、エリック、ダニエル。
四人がモニターを囲んでいた。
アルマから届いたデータ。
モップの内部周期。
アルマの時刻補正履歴。
セレスティアの時刻補正履歴。
サイモンが三つのグラフを並べる。
「……周期そのものは一致しません」
エリックが尋ねた。
「一致しない?」
「ええ。比較している物理量も異なります。直接重ねて、同じ現象だとは言えません」
サイモンは解析条件を変えた。
それぞれの記録から、通常の周期成分を取り除く。
残った小さな変動を比較する。
モップの内部周期は、わずかに伸び縮みしていた。
そして、二つの惑星の時計にも、似た形の変動が見られた。
ダニエルの笑顔が消えた。
「……まさか」
ヘレンは画面から目を離さなかった。
サイモンが続ける。
「ただし、惑星間での絶対的な発生時刻の一致は確認できません。今比較できるのは、変動の特徴です」
「特徴?」
「揺らぎ方です」
サイモンはグラフを拡大した。
「完全に同じではありません。でも、偶然として片づけるには、詳しく調べる価値があります」
エリックが呟く。
「……何なんだよ、これ」
誰も答えなかった。
*
四十七・二光年先。
惑星アルマ。
調査施設の照明が落とされていた。
ノアは帰宅し、ゾーイも奥の自室で眠っている。
静かな廊下。
壁際で丸くなっていたモップが、ゆっくりと動いた。
身体をほどく。
その一部を持ち上げる。
誰もいない壁の方へ向けた。
しばらく、動かない。
そして――。
トン、トン。
待つ。
トン、トン。
壁の向こうには、誰もいない。
少なくとも、人間の目に見える範囲には。
それでもモップは、何かに呼びかけるように、静かに音を刻み続けていた。
トン、トン。
返事はなかった。
それでも、モップはやめなかった。
(第九章 了)




