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47光年の手紙  作者: たびしずく


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第九章 モップ

挿絵(By みてみん)


「……入らないね」

ゾーイ・ベネットは床に座り込んだまま呟いた。

未知の生き物は、調査施設の自動ドアの敷居を越えたところで、完全に動きを止めていた。

そこから先へ進む気配はない。

後ろで腕を組んでいた先輩職員が眉をひそめる。

「警戒してるんじゃないか?」

「たぶん」

「じゃあ、外に戻したらどうだ?」

ゾーイは生き物を見つめた。

「戻る?」

生き物は動かない。

「ほら、動かない」

「いや、俺に聞かれても困るんだけど……」

ゾーイが立ち上がる。

その瞬間、生き物の身体がキュッと縮んだ。

ゾーイはすぐに座り直した。

少し待つと、身体がふわりと元の大きさに戻った。

先輩職員が呆れたように鼻を鳴らす。

「……完全にお前を目で追ってるだろ」

「目、見当たらないですけどね」

「じゃあ、なんで気配が分かるんだよ」

ゾーイは首をひねった。

「分かるから、分かります」

「それ、本部への報告書には絶対書くなよ」

*

施設内。

『未確認野生生物の接触例』

一次報告は、すでに本部の管理サーバーへ送られていた。

当然ながら、研究部門からの問い合わせが次々と届く。

《生体サンプルの採取状況は?》

《未実施》

《物理的接触試験は?》

《未実施》

《現在の捕獲管理状態は?》

ゾーイの指が止まった。

《捕獲していません》

送信。

すぐに返信。

《では、個体の現在位置は?》

ゾーイはエントランスを見た。

《入口》

《逃走防止措置は講じているか?》

ゾーイは眉を寄せた。

《していません》

少し間が空く。

《逃走の可能性について》

ゾーイは迷わず打った。

《帰りたければ、自分で帰ります》

横から覗き込んでいた先輩職員が顔を引きつらせた。

「おい……本部にそんな言い方したら怒られるぞ」

「なんでですか? 事実です」

ゾーイは送信ボタンを押した。

*

しばらくして、生き物が動いた。

ゾーイは息を呑む。

奇妙な移動方法だった。

四足で歩くわけでもない。

蛇のように這うわけでもない。

身体の接地部分が、液体のように滑らかに変形していく。

一部が硬くなって身体を支え、別の部分が柔らかく伸びる。

それを繰り返しながら、ゆっくりと前へ進んでいた。

ゾーイは追いかけなかった。

一定の距離を保つ。

三メートル。

五メートル。

生き物が止まる。

ゾーイも止まる。

生き物は、床に置かれていた金属製の工具箱へ近づいた。

身体の一部が細く伸びる。

工具箱に触れる。

しばらくして離れた。

「それ、食べ物じゃないよ」

先輩職員が振り返る。

「食べようとしてたのか?」

「知りません」

「じゃあ言うなよ」

*

生き物はさらに奥へ進んだ。

壁。

机の脚。

空調の吹き出し口。

一つずつ近づき、身体の一部で触れ、離れる。

まるで、初めて出会った世界を、自分の皮膚で確かめているようだった。

ゾーイは数メートル後ろからついていく。

生き物が止まるたび、彼女も足を止めた。

「大丈夫」

言葉が通じているかは分からない。

それでも声をかける。

「何もしないからね」

挿絵(By みてみん)

廊下の角を曲がったところで、小さな事件が起きた。

備品棚の脇。

使い古された清掃用モップの替え布が、低い棚から垂れ下がっていた。

生き物が近づく。

身体の一部が布に触れた。

繊維が、皮膚の不規則な突起に引っかかる。

生き物が進む。

布もついてくる。

生き物が止まる。

布も止まる。

もう一度進む。

やはり布は離れない。

その瞬間。

生き物の身体がギュッと縮んだ。

「あ」

生き物が慌てて前進する。

布も引きずられる。

速度が上がる。

布も勢いよくついてくる。

そして――。

生き物は清掃布を引きずったまま、廊下を猛スピードで走り出した。

「待って待って! それ敵じゃないから!」

ゾーイが追いかける。

先輩職員も走り出した。

「何やってんだ、お前たち!」

「引っかかっちゃったんです!」

「取ってやれよ!」

「今近づいたら、余計怖がります!」

「絶対、今の方が怖がってるだろ!」

*

廊下の突き当たり。

行き場を失った生き物が、壁際で丸くなっていた。

清掃布はまだ身体に絡んでいる。

ゾーイは二メートルほど手前で膝をついた。

近づかない。

指先で床を叩く。

トン、トン。

生き物は固まったままだった。

ゾーイは呼吸を整え、もう一度叩いた。

トン、トン。

沈黙。

そして――。

トン、トン。

小さな音が返ってきた。

「……よし」

ゾーイはゆっくり手を伸ばした。

少しずつ距離を詰める。

生き物は逃げない。

「取るよ。痛くしないからね」

指先で布の端をつまむ。

生き物の身体が縮んだ。

ゾーイは手を止める。

「大丈夫、大丈夫……」

しばらく待つ。

身体が少し柔らかくなった。

ゾーイは慎重に繊維を外した。

布が離れる。

「ほら。ただの布」

生き物は身体の一部を伸ばし、床に置かれた布へ向けた。

ゾーイはその姿を見て、ぽつりと言った。

「……モップみたい」

先輩職員が突っ込む。

「引きずってたのがモップの布だっただけだろ!」

「この子が、です」

「全然似てねえよ!」

ゾーイは生き物を覗き込んだ。

「モップ」

反応はない。

「モップ」

トン、トン。

ゾーイの顔が明るくなった。

「ほら!」

「いや、絶対名前に返事したんじゃないだろ!」

「返事しました!」

「たまたまだ!」

「モップ」

トン、トン。

ゾーイは得意げに先輩職員を見上げた。

先輩職員は頭を押さえた。

「……もう好きにしろ」

*

その日の夕方。

本部へ提出する正式な観測記録。

『未確認野生生物個体 A』

ゾーイは、その横に書き加えた。

『通称:モップ』

送信。

数秒後、修正要求が届く。

『非公式な通称の記載は不要です』

ゾーイは一度消した。

そして、備考欄を開く。

『備考:現地スタッフ間における呼称「モップ」』

再送信。

今度は受理された。

ゾーイは小さくガッツポーズをした。

「勝った」

*

それから、モップは調査施設に居ついた。

出入りを妨げないようにしていたが、外へ帰ろうとはしなかった。

夜になると、施設の片隅に身体を丸める。

壁と床が接する、静かな場所。

眠っているのかどうかは分からない。

ただ、動きを止めている。

ゾーイが静かに通りかかると、身体の一部がふわりと持ち上がった。

「寝てていいよ」

身体がゆっくり下がる。

ゾーイは通路の照明を一段落とした。

*

翌朝。

「モップ!」

ゾーイが施設へ入ってきた。

返事はない。

「モップー?」

奥の廊下から――。

トン、トン。

ゾーイの口元が緩む。

「おはよう」

トン、トン。

*

数日が経った。

施設のスタッフたちも、モップの存在に慣れ始めていた。

「モップ、そこ機材車が通るぞー」

反応なし。

「ゾーイ、モップどこ行った?」

「分析室の隅です」

「あいつ何してんだ?」

「分かりません」

「お前のペットだろ」

「ペットじゃありません。同居人です」

「名前つけただろうが」

「識別名は必要です」

「未知生物Aでいいだろ」

ゾーイは露骨に嫌そうな顔をした。

「かわいくないです」

*

ある日の午後。

施設に一人の少年がやってきた。

十六歳。

ノア・リード。

両手に重そうな補給資材の箱を抱えている。

「届け物でーす」

ゾーイが奥から顔を出した。

「あ、ノア」

「これ、めちゃくちゃ重いんだけど」

「そこの台に置いて」

「ちょっとは手伝ってよ」

「今、データ入力中」

「俺も配送の仕事中!」

ノアは近くの開拓居住区に住む少年だった。

学校帰りに、施設の雑用や物資運搬を手伝っている。

アルマ生まれのアルマ育ち。

この星の空が、彼にとって当たり前の空だった。

*

ノアは箱を台に置き、腰を伸ばした。

「うわ……腰抜けるかと思った」

そのとき。

動きが止まった。

廊下の奥。

薄暗い場所に、モップがいた。

「……何あれ」

「モップ」

「何それ」

「名前」

「そうじゃなくて!」

ノアは目を丸くした。

「……生き物?」

「うん」

「何の?」

「分からない」

「分からないって……」

「まだ分類できてないの」

ノアが興味津々で近づこうとする。

ゾーイが手をかざした。

「急に近づかないでね」

「なんで?」

「まだ人に慣れてないから」

ノアはその場で止まった。

挿絵(By みてみん)

モップも動かなかった。

ノアが首をひねる。

「目、どこ?」

「分からない」

「口は?」

「分からない」

「耳は?」

「分からない」

「じゃあ何なら分かるんだよ!」

ゾーイは少し考えた。

「モップって呼ぶと返事する」

「それ、生物学的に何も分かってないだろ!」

*

ノアは膝をついた。

指先で床を叩く。

トン、トン。

モップ。

トン、トン。

ノアの表情が変わった。

「うおっ!」

もう一度。

今度はリズムを変える。

トン、トン、トン。

少し間を置いて。

トン、トン、トン。

「すげえ! 返してきた!」

ノアが笑った。

その声に反応したのか、モップの身体がふわりと広がった。

ゾーイの目が動く。

「……今の」

「何?」

「もう一回やってみて」

ノアが叩く。

トン、トン、トン。

モップが返す。

トン、トン、トン。

身体がまた少し広がった。

ゾーイが近づいて、かがみ込む。

「嫌がってない……」

「喜んでるの?」

「分からない。でも、嬉しそうに見える」

ノアが笑った。

「また感覚で言ってる。報告書に書くの?」

ゾーイはノアを見た。

「みんな同じこと言うね」

*

セレスティア。

惑星間通信観測局。

ヘレン・カーターは、アルマから届いた未知生物の報告書を読んでいた。

エリックは隣で別のデータを処理している。

ダニエルが覗き込んだ。

「これ、例の生き物?」

「ええ」

「写真とかないんですか?」

「UNIT-2では画像を送れないのよ」

エリックが呟く。

「文字だけだからな」

ヘレンは画面をスクロールした。

周辺環境。

生体データ。

行動記録。

そして、数日前の時刻補正履歴。

『+41 ns』

ヘレンの指が止まった。

*

エリックが尋ねた。

「……博士、そんなに気になるんですか?」

「気になるわね」

「生き物が?」

「生き物そのものより、発見された場所と時間よ」

ヘレンは広域星図を開いた。

ゾーイが最初にモップを発見した地点を表示する。

そこへサイモンが入ってきた。

「最新の同期ログです」

端末を置く。

セレスティアの新しい補正記録。

『+46 ns』

ヘレンが言った。

「アルマ側は?」

エリックがキーを叩く。

《時計の数値送って》

二秒後。

《挨拶は?》

《おはよう》

《もう昼だけど》

《こんにちは》

《よろしい》

ダニエルがニヤニヤする。

「完全にしつけられてるな」

「うるさい」

*

ケイトからデータが届いた。

サイモンが解析する。

アルマ各地の新しい観測記録。

『+43 ns』

『+45 ns』

『+46 ns』

それぞれの数値は、各観測設備が記録した補正量だった。

サイモンは測定方式や時刻基準の違いを確認しながら、変動の傾向を比較した。

その中で、野生調査施設の周辺だけが、やや異なる挙動を示していた。

サイモンが眉をひそめる。

「……ここは揺れ幅が大きいですね」

ヘレンが星図を見る。

「モップのいる場所ね」

ダニエルが身を乗り出した。

「じゃあ、そのモップが時計を狂わせてるんですか?」

「分からないわ」

ダニエルが天井を見上げる。

「本日五回目の『分からない』いただきました」

サイモンが訂正した。

「今日は三回目です」

ヘレンが二人を睨んだ。

二人は黙った。

*

アルマ。

環境観測部門。

ケイトは野生調査施設のゾーイと通信していた。

アルマ内の通常回線による映像通話だった。

画面には、若い女性が映っている。

「環境データ解析部のウォーカーです」

『ゾーイ・ベネットです。あの……』

ゾーイは少し警戒しているようだった。

『……モップを研究施設へ連れていくんですか?』

「え? いいえ。聞きたいのは時計のこと」

『時計……?』

「その子を最初に見つけたときの、正確な場所と時刻の記録が欲しいの」

ゾーイは目を丸くした。

『あ、それだけですか?』

「今のところはね」

『なら、すぐ送れます』

*

ゾーイが端末を操作し始めた。

そのとき。

画面の隅を、何かが通り過ぎた。

ケイトの手が止まる。

「……今の、何?」

ゾーイが振り返った。

『ああ、モップです』

「モップ?」

『あの子の名前です』

ケイトは少し黙った。

「……どうしてそんな名前?」

『清掃用の布を引きずって、廊下を暴走したからです』

ケイトは吹き出した。

「……かわいい」

ゾーイの顔が明るくなった。

『ですよね! すっごくかわいいんです!』

*

データが届いた。

ケイトは最初の接触時刻と、周辺設備の補正履歴を照合した。

環境データ。

時刻記録。

そして、ゾーイの観察メモ。

『数値上の環境変化なし。ただし個体は何らかの変化を警戒しているように見えた』

ケイトは、その一文を読み返した。

ミアが覗き込む。

「どうしたの?」

「このゾーイって人」

「うん」

「測定器に異常が出ていないのに、何かを感じ取ってる」

「勘でしょ?」

「そう。勘」

ケイトは時刻補正のグラフを開いた。

「でもね、こういう直感って、あとから数字が追いかけてくることがあるのよ」


調査施設。

ノアは床に座り込み、宿題の端末を開いていた。

すぐ横には、身体をゆったりと広げたモップがいる。

戻ってきたゾーイが呆れた顔をした。

「なんでここで宿題やってるの?」

「家より静かだし。モップもいるし」

ゾーイはモップを見た。

「いつの間にそんな近くまで?」

「知らない。気づいたら隣にいた」

ノアはペンを握り直した。

しばらくして、手が止まる。

「……あー、分かんねえ」

ペンを床に置いた。

トン、トン。

偶然の音だった。

だが、モップが反応した。

トン、トン。

ノアが笑う。

トン、トン、トン。

モップも返す。

トン、トン、トン。

ゾーイが振り向いた。

「遊んでないで宿題やりなよ」

「モップが先に話しかけてきたんだって!」

「嘘つき」

*

ノアは今度、テンポを速めた。

タタタン!

モップの返答。

……トン、トン、トン。

ノアとは違い、ゆっくりした間隔だった。

ゾーイの表情が変わる。

「ノア、待って」

「え?」

「もう一回、速く叩いてみて」

ノアが叩く。

タタタン!

モップ。

……トン、トン、トン。

「……あれ?」

ノアが首をひねる。

「下手くそだなあ」

「違うかも」

ゾーイは端末を取り出した。

音声と振動の記録を開始する。

「もう一度やって」

ノアは何度も叩いた。

速く。

遅く。

不規則に。

モップは、そのすべてを同じ速さで真似するわけではなかった。

ときには応じない。

ときには、同じ数だけ叩く。

そして、何度も現れる一定の間隔があった。

トン、トン、トン。

ゾーイは記録を見つめた。

「……この子、ただ真似してるだけじゃないのかも」

「どういうこと?」

「自分のリズムを持ってる」

挿絵(By みてみん)

夜。

施設は静まり返っていた。

モップは壁際で丸くなっている。

ゾーイは非接触型の高精度センサーを手に取った。

離れた位置から、内部の微細な変動を測定する。

既知の動物に見られるような明瞭な心拍は検出できない。

呼吸に相当する動きも、はっきりしない。

だが、身体の内部には、周期的な変化があった。

ゾーイはその記録を、昼間の打撃音と比較した。

周期の長さが近い。

さらに、一部の変動のタイミングも対応していた。

「……これ」

何度も確認する。

測定器のノイズではないか。

床の振動が混ざっていないか。

記録を切り分ける。

それでも、類似した周期が残った。

ゾーイは床に膝をついた。

「……これ、君の『時計』なの?」

モップは答えなかった。

ゾーイはそのデータを、ケイトへ送った。

*

セレスティア。

深夜の観測局。

ヘレン、サイモン、エリック、ダニエル。

四人がモニターを囲んでいた。

アルマから届いたデータ。

モップの内部周期。

アルマの時刻補正履歴。

セレスティアの時刻補正履歴。

サイモンが三つのグラフを並べる。

「……周期そのものは一致しません」

エリックが尋ねた。

「一致しない?」

「ええ。比較している物理量も異なります。直接重ねて、同じ現象だとは言えません」

サイモンは解析条件を変えた。

それぞれの記録から、通常の周期成分を取り除く。

残った小さな変動を比較する。

モップの内部周期は、わずかに伸び縮みしていた。

そして、二つの惑星の時計にも、似た形の変動が見られた。

ダニエルの笑顔が消えた。

「……まさか」

ヘレンは画面から目を離さなかった。

サイモンが続ける。

「ただし、惑星間での絶対的な発生時刻の一致は確認できません。今比較できるのは、変動の特徴です」

「特徴?」

「揺らぎ方です」

サイモンはグラフを拡大した。

「完全に同じではありません。でも、偶然として片づけるには、詳しく調べる価値があります」

エリックが呟く。

「……何なんだよ、これ」

誰も答えなかった。

*

四十七・二光年先。

惑星アルマ。

調査施設の照明が落とされていた。

ノアは帰宅し、ゾーイも奥の自室で眠っている。

静かな廊下。

壁際で丸くなっていたモップが、ゆっくりと動いた。

身体をほどく。

その一部を持ち上げる。

誰もいない壁の方へ向けた。

しばらく、動かない。

そして――。

トン、トン。

待つ。

トン、トン。

壁の向こうには、誰もいない。

少なくとも、人間の目に見える範囲には。

それでもモップは、何かに呼びかけるように、静かに音を刻み続けていた。

トン、トン。

返事はなかった。

それでも、モップはやめなかった。

(第九章 了)



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