第10章 知らない空
朝。
ゾーイ・ベネットが調査施設のエントランスに入ると、モップは昨日とまったく同じ場所にいた。
壁際。身体を小さく丸め、不規則な皮膚の表面を静かに休ませている。
「おはよう」
当然、言葉の返事はない。
ゾーイは肩から下げていた鞄をデスクへ置いた。
「モップ?」
トン、トン。
床を伝わる、かすかな振動。
ゾーイの口元が緩んだ。
「起きてた」
丸まっていた身体の一部が、ぬっと滑らかに持ち上がる。
いつもの挨拶だった。
それを見届けてから、ゾーイは本日の観測作業を開始した。
*
モップの調査は、牛歩の歩みで進んでいた。
正確に言えば、調べれば調べるほど、分からないことだけが膨れ上がっていた。
サンプルとして採取できたのは、モップが移動の際に自然に剥がれ落とした、ごく小さな表面組織のみ。
ゾーイは、無理な生体組織の採取や、負担をかける検査を一切認めなかった。
分析端末に向かっていた職員が、頭を抱えながら振り返る。
「……ない」
「何が?」
「標準的なDNA構造。少なくとも、こっちで調べられる範囲では見つからない」
「ないの?」
「遺伝情報を担う仕組み自体が違うのかもしれない。既知の生命体と照らし合わせても、まるで当てはまらないんだ」
職員は別の分析結果を表示した。
「タンパク質に相当する構造も、どう解釈すればいいのか分からない。そもそも、こいつは何を使って身体を維持してるんだ?」
「でも、生きてるよね?」
「生きてると考えるのが自然だ。自分の意思で動いて、周囲に反応してる」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないよ!」
「なんで?」
「生きてるのに、俺たちの知ってる生物学がほとんど通用しないんだぞ!」
ゾーイは足元を見下ろした。
モップは資材箱の影を、滑らかな流体のようにゆっくり移動していた。
「だから『未知生物』なんじゃないの?」
職員は口を開きかけ、そのまま閉じた。
しばらくして、端末へ向き直る。
「……それを言われると困る」
*
さらに奇妙だったのは、エネルギーの取り込み方だった。
施設に居ついてから数日。
モップが何かを食べるところは、一度も観察されていない。
水を飲む様子もなかった。
ゾーイたちは、負担をかけない範囲で様々なものを用意した。
野外の草木。有機培地。高濃度栄養ゼリー。純水。鉱物や微小金属。
モップは近づき、身体の一部でそっと触れる。
それだけだった。
取り込んだ形跡はない。
それにもかかわらず、非接触センサーが捉える内部の周期的な活動は、安定して続いていた。
その活動が何を意味するのか、まだ分かっていない。
ゾーイが床にしゃがみ込み、話しかける。
「……お腹減らないの?」
モップは反応しない。
「ご飯食べなくていいなら、すごく便利だね」
分析担当者が横から叫んだ。
「そういう問題じゃないんだって!」
*
午後。
ノア・リードがやってきた。
今日も補給資材の箱を運んできたが、大きさは前回の半分ほどだった。
片手で軽々と抱えている。
「モップー」
トン、トン。
ノアが指で床を叩くと、すぐに返事があった。
トン、トン。
ノアは目を丸くした。
「……俺に対する返事、早くない?」
「何が?」
「反応だよ。前より絶対早い」
「気のせいでしょ」
「昨日、時間を測ったんだって! 感覚じゃなくて!」
ゾーイが可笑しそうに笑う。
「私みたいになってきたね、ノア」
「嫌だよ! 同類にしないで!」
*
ノアが床にどっかりと座り込む。
すると、廊下の奥からモップがぬうっと近づいてきた。
一メートル。
七十センチ。
五十センチ。
ノアは息を殺し、動かなかった。
モップの身体の一部が、触手のようにゆっくり伸びる。
そして、ノアのスニーカーのつま先に触れた。
「……さ、触られた」
ノアが引きつった声で囁く。
「急に動かないでね」
「どうすればいいの?」
「そのままじっとしてて」
「なんか、くすぐったいんだけど……」
「我慢」
モップは靴の表面を、繊維の一本一本まで確かめるように触っていた。
しばらくすると、満足したのか、すうっと身体を引いた。
ノアが大きく息を吐く。
「……俺の靴、気に入ったのかな」
「単に臭かったんじゃない?」
「ひどっ! 洗いたてだし!」
*
昼下がり。
アルマの環境観測部門。
ケイトの個人端末に、ゾーイからモップの最新解析データが届いた。
本来、環境データ解析官の業務領域ではない。
添付されたメッセージ。
《これ、何か分かりますか?》
ケイトは資料を開き、ざっと目を通した。
《専門外。》
《ですよねー》
ケイトはウィンドウを閉じようとした。
しかし、指が止まった。
内部の周期的な活動を示す波形。
その微細な揺らぎ方に、見覚えがあった。
昨日、セレスティアのヘレンたちと検討した時刻補正ログ。
直接比較できる種類のデータではない。
それでも、変動の特徴がどこか似ている。
ケイトは机の上の青い包装に包まれたパンを取り出し、一口かじった。
そして、二口目を運ぼうとしたまま画面を見つめた。
隣からミアの呆れた声が飛んでくる。
「……また始まった」
「何が?」
「集中しすぎて、食べるの忘れるやつ」
「食べてるよ」
「止まってるって」
ケイトはパンを机に置いた。
「あとで食べる」
「何見てるの?」
「モップ」
「あの名前がかわいい未知生命体?」
「うん」
「何か分かったの?」
「全然」
「じゃあ、何見てるのよ」
「分からないから見てるの」
ミアは少し笑った。
「それ、セレスティアのカーター博士と同じ言い草ね」
ケイトの顔が露骨に曇った。
「……なんか嫌だな、それ」
*
四十七・二光年先。
セレスティアの惑星間通信観測局。
エリックの端末に、ケイトからのメッセージが届いていた。
《モップって何?》
《生き物》
《犬みたいなやつ?》
《違う》
《猫?》
《違う》
《じゃあ何なんだよ》
《モップ》
エリックは通信機の画面を睨みつけた。
《説明する気ないだろ》
《私だって直接見たことないもん》
《名前しか知らんの?》
《名前とデータだけ》
《なんでモップなの》
《清掃用の布を引きずって廊下を爆走したから》
エリックはその光景を想像して、思わず吹き出した。
《……なんかかわいいな》
《でしょ?》
後ろを通ったダニエルが立ち止まる。
「何がかわいいって?」
「モップ」
「掃除道具が?」
「生き物」
ダニエルは怪訝そうに顔をしかめた。
「……お前ら最近、普通に四十七光年先の日常会話を楽しんでるよな」
エリックは保温容器から冷めた豆の煮込みをすくい、口に運んだ。
「普通だろ」
「普通じゃねえよ!」
ダニエルは何かを言いかけ、諦めたように手を振った。
「……もういいわ」
*
午後。
サイモン・グラントが保守区画に入ってきた。
今日は両手に精密時計を抱えていない。
ダニエルがすかさず声をかける。
「あれ? 時計は?」
サイモンは左腕の袖を少し持ち上げた。
腕時計が覗く。
「ありますよ」
「いや、そっちじゃなくて! いつもの大きいやつ!」
「今日はデータ解析だけですので、必要ありません」
サイモンは端末をデスクに接続した。
『+46 ns』
エリックが覗き込む。
「……増えてる?」
「昨日から大きな変動はありません。ただ、補正量が以前より大きい状態のままです」
ヘレンが奥から資料を持って現れた。
「アルマ側の最新ログは?」
「今、ケイトに聞いてます」
サイモンが端末の記録設定を確認する。
「通信中のこちらの時計も、継続して監視します」
「通信が原因だと思ってるの?」
エリックが尋ねた。
「それを調べています」
サイモンは淡々と答えた。
*
ケイトからデータが届いた。
アルマの複数地点で記録された補正量。
『+44 ns』
『+46 ns』
『+45 ns』
サイモンが眉間にしわを寄せる。
「……観測地点ごとに差がありますね」
ヘレンが画面を覗く。
「測定条件は?」
「確認済みです。補正の基準も、装置ごとの誤差も考慮しています」
「それで?」
「まだ共通の原因があるとは言い切れません。ただ、変動の特徴には気になる点があります」
ヘレンは頷いた。
「引き続き調べて」
「もちろんです」
ダニエルが小さく笑った。
「サイモンさん、数字が揃わないと気持ち悪いタイプでしょ」
「揃うべき数字が揃わないのは、誰でも気持ち悪いと思いますが」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「どういう意味です?」
ダニエルはエリックを見た。
「……こいつ、強いな」
*
ヘレンは画面の端に、アルマから届いたモップの生体周期データを表示させた。
エリックが尋ねる。
「博士も、その生き物のデータを見るんですか?」
「ええ」
「時計と関係あるんですか?」
「それを知りたいのよ」
ヘレンは二つの記録を並べた。
モップの内部活動。
アルマの時計の補正履歴。
サイモンが解析条件を調整する。
「……前回と同じですね」
「ええ」
「似た変動は見られます。ただ、記録期間が短すぎます」
「分かってるわ」
ヘレンはモップの波形を拡大した。
「だから、まだ結論は出さない」
サイモンは頷き、新しい記録を保存した。
ダニエルがエリックに囁く。
「……今日は平和だな」
「何が?」
「博士とサイモンさん。意見が一致してる」
「いつも一致してるだろ」
「そうなんだけどさ。なんか緊張するんだよ、あの二人」
*
アルマ。
野生調査施設。
ゾーイはモップの行動観察ログを記録していた。
移動。
停止。
接触。
休止。
そして、床を叩く不定期な音。
トン、トン。
ノアが宿題の端末を開いたまま、モップを見つめている。
「またやってる」
「うん」
「あいつ、何に向かって音鳴らしてんだろ」
「さあね」
「誰か呼んでるのかな」
ゾーイは入力を止めた。
「誰を?」
「知らないけど」
「ここには誰もいないよ」
ノアは周囲の壁を見回した。
「壁の向こうは?」
「機材倉庫」
「その向こうは?」
「外の岩場」
「そのずっと先は?」
「未探査の山並み」
「その向こうは?」
「海」
「そのもっと向こうは?」
ゾーイはノアを不審そうに見つめた。
「……何が言いたいの?」
「別に」
ノアは指先を床につけ、モップのリズムに合わせて叩いた。
トン、トン。
モップも返す。
トン、トン。
「どこまで行っても、誰もいないのかなって」
ゾーイはしばらくノアを見つめていた。
そして、何も言わずに記録入力を再開した。
*
そのときだった。
モップの身体が、突然ぎゅっと縮んだ。
ゾーイの手が止まる。
「……モップ?」
ノアも床を叩くのをやめた。
モップは壁でも、ゾーイでもなく、真上へ身体の一部を伸ばしていた。
顔も目もない。
それでも、何かを見上げているようだった。
二人は思わず天井を見た。
白い天井板。
照明。
配管。
何も変わっていない。
「何……?」
ノアが声をひそめる。
「音、聞こえる?」
ゾーイは耳を澄ませた。
空調のかすかな駆動音。
それ以外、何も聞こえない。
手元の測定器を確認する。
気圧、正常。
振動、異常なし。
放射線量、正常範囲。
磁場、変化なし。
ゾーイは立ち上がった。
「……外かも」
*
ゾーイとノアは、モップと一緒に施設の外へ出た。
モップはゾーイの足元に寄り添うように、ゆっくりついてきた。
見上げる空。
澄み渡る青。
遠くに連なるアルマの山並み。
乾いた風が、二人の頬を撫でる。
ノアが目を細めた。
「何もないよ?」
「うん……」
モップは空へ身体の一部を向けたまま、動かなかった。
いつもより小さく縮んでいる。
ゾーイは膝をついた。
「怖いの……?」
触れはしない。
ただ、近くに寄り添う。
「何がいるの?」
モップは答えない。
「……何が見えてるの?」
*
ゾーイは端末を取り出した。
防災警報。
軌道衛星の警戒情報。
気象観測ログ。
宇宙線量。
次々と確認する。
何も出てこない。
「全部、正常……」
ノアは空を見上げたまま呟いた。
「でも、モップは変だよ」
「……うん」
「昨日は、こんなふうじゃなかった」
ゾーイはモップを見た。
身体が縮んだまま、戻らない。
いつもなら、少し待てば柔らかく広がるはずだった。
ゾーイの表情から、笑みが消えた。
*
施設へ戻り、非接触の高精度スキャンを開始する。
波形が表示された瞬間、ゾーイは息を呑んだ。
モップの内部周期が乱れていた。
規則的だった変動が、速くなり、遅くなり、ときには途切れそうになる。
「……いつから?」
ゾーイは記録を遡った。
一時間前。
三時間前。
今朝。
昨夜。
昨日。
指が止まった。
昨日の記録に、すでに小さな乱れがあった。
「……昨日からだ」
ノアが不安そうに覗き込む。
「これって、病気なの?」
ゾーイは答えられなかった。
「悪いことなの?」
「……分からない」
モップは床の上で、身体を固く縮めたままだった。
*
ゾーイからケイトへ、緊急のデータ転送が入った。
ケイトは本来の環境解析作業を中断した。
モップの内部周期。
周辺の気圧。
大気成分。
地殻変動。
地磁気。
宇宙線量。
観測項目を次々と画面に展開する。
「……何も出てこない」
隣のミアが顔を上げた。
「本当に?」
「観測網で確認できる範囲には異常がない。環境は安定してる」
ケイトは複数の記録を重ね合わせた。
環境データには目立った変化がない。
それなのに、モップの内部周期だけが崩れていく。
ケイトは急いでキーを叩いた。
《博士を呼んで》
返事はすぐに届いた。
《目の前にいる》
《モップが変なの》
*
セレスティア。
ヘレン・カーターが画面を開いた。
サイモン、エリック、ダニエルが集まる。
モップの乱れた周期波形。
ヘレンが尋ねた。
「現地の環境変化は?」
「確認できません。ケイトから届いた観測データには、目立った異常がありません」
エリックが答える。
「時計は?」
サイモンが記録を確認した。
「こちらの最新の補正量は、まだ+46ナノ秒付近です。アルマ側も、直近の報告では大きな変化はありません」
「モップの記録と比べて」
ヘレンが言った。
サイモンは慎重に画面を操作する。
モップの内部周期。
アルマの各観測設備の補正履歴。
そして、セレスティア側の記録。
三つの波形が並ぶ。
しばらくして、サイモンが口を開いた。
「……妙ですね」
「何が?」
ヘレンが尋ねる。
「モップの周期には、昨日から変化が現れています。ですが、時計の方はまだ大きく動いていません」
エリックが画面を覗き込む。
「じゃあ、モップの方が先に……?」
「そう見える部分はあります。ただし、惑星間の記録を同じ時刻として直接比較することはできません」
サイモンはアルマ側の記録だけを拡大した。
「それに、現地の時計の変化が、このあと起きるとも限りません」
ヘレンは黙って波形を見つめていた。
「……もし、時計の方が後から変わったら?」
ダニエルが尋ねる。
ヘレンは答えた。
「そのときは、もう一度調べ直す必要があるわ」
「それだけですか?」
「今は、それだけよ」
ヘレンはモップの波形に視線を戻した。
「でも、この子の記録は絶対に途切れさせないで」
サイモンが頷く。
「現地に依頼します」
*
アルマの夜。
ゾーイは帰らなかった。
照明を落とした施設の床に毛布を敷き、モップのすぐ横に座り込んでいた。
ノアも壁にもたれたまま、帰ろうとしない。
「……帰りなよ、ノア。お母さん心配するよ」
「連絡したもん。施設で泊まりの手伝いするって」
「学校は?」
「明日、午後から」
「午前中もあるでしょ」
ノアは答えず、膝を抱えてモップを見つめた。
「……こいつを一人にできるわけないじゃん」
ゾーイは何も言い返せなかった。
*
モップは、ほとんど動かなくなっていた。
ゾーイが床を叩く。
トン、トン。
返答はない。
もう一度。
トン、トン。
長い沈黙。
そして、消え入りそうな小さな振動。
トン、トン。
ノアが顔を上げた。
「……返した!」
「うん……」
ゾーイは頷いた。
だが、いつものように笑うことはできなかった。
あまりにも弱々しい音だった。
*
深夜。
分析担当者が青ざめた顔で新しいレポートを持ってきた。
「ゾーイ……」
「何?」
「モップの内部活動が、どんどん弱くなってる」
「どれくらい?」
「分からない。正常な状態の基準すら、まだ十分に取れてないんだ」
職員は端末を握りしめた。
「何を与えればいいのか、何が必要なのか……そもそも、どこが生命維持に関わっているのかも分からない」
ゾーイは床に丸まったモップを見つめた。
言葉が出てこない。
ノアがモップのすぐ前に屈み込む。
指先を床に当て、優しく叩いた。
トン、トン。
返事はない。
トン、トン。
静寂。
「……モップ」
もう一度。
トン、トン。
長い沈黙の末に、かすかな振動が返ってきた。
トン、トン。
ノアは笑わなかった。
ただ、必死な目でモップを見つめていた。
「……頑張れよ」
指先が震える。
「なあ、頑張れよ……!」
*
アルマ。
環境観測部門。
ケイトは自席で、アルマ全域の生物データベースを検索し続けていた。
極限環境生物。
特殊なエネルギー代謝。
鉱物と共生する微生物。
条件を少しずつ変え、何度も検索を繰り返す。
『該当なし』
『該当なし』
ミアが静かに温かい飲み物を置いた。
「少し休みなよ、ケイト」
「まだ……」
「もう何時間も画面見てるよ」
「分かってる……!」
「ケイトの専門外でしょ?」
「分かってるよ……!」
ケイトは指を止めず、キーを叩き続けた。
「分かってるけど……似た構造のデータ一つくらい、見つけてあげたいじゃん……!」
ミアはそれ以上、何も言わなかった。
*
セレスティア。
エリックもまた、保守区画の古い通信機の前に座り続けていた。
自分にできることなど、何もない。
モップを見たことも、触れたこともない。
四十七・二光年先で何が起きているのか、画面に届く文字でしか知ることができない。
それでも、彼は席を離れなかった。
《まだいる?》
少しして、ケイトから返事が届いた。
《いる》
《モップは?》
《よくない》
エリックの指が止まる。
《何か手伝えることあるか?》
長い沈黙。
《……必死でデータ探してる》
エリックはしばらく画面を見つめた。
そして、打ち込んだ。
《分かった。俺もここにいる》
それしか言えなかった。
*
アルマ。
午前三時。
ゾーイは冷えた床の上で目を覚ました。
いつ眠ってしまったのか、覚えていない。
ノアは壁にもたれたまま眠っていた。
毛布が肩から落ちかけている。
ゾーイは身体を起こし、真っ先にモップを見た。
「……モップ?」
動きはない。
膝立ちになって近づく。
いつもなら、彼女が近づくだけでふわりと持ち上がる身体の一部が、静止していた。
「モップ……?」
ゾーイはかがみ込んだ。
触れる寸前で、手を止める。
そして、指先を床につけた。
トン、トン。
静寂。
空調の低い音だけが響いている。
ゾーイはもう一度、叩いた。
トン、トン。
返事はない。
「……モップ?」
声が震えた。
ノアが目を覚ます。
「……ゾーイ? どうしたの?」
ゾーイは答えられなかった。
もう一度、床を叩く。
トン、トン。
いつもなら、少し待てば返ってくる。
あの、ぎこちない音。
トン、トン。
ノアが身体を起こした。
「……モップ?」
二人は待った。
十秒。
二十秒。
一分。
何も聞こえない。
ゾーイは唇を噛み、もう一度指先を床に落とした。
トン、トン。
返事はなかった。
ゾーイはその場から動けなかった。
ノアも、何も言わなかった。
静まり返った施設の中で、モップは小さく丸まったままだった。
(第十章 了)




