↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47光年の手紙  作者: たびしずく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/22

第10章 知らない空

挿絵(By みてみん)


朝。

ゾーイ・ベネットが調査施設のエントランスに入ると、モップは昨日とまったく同じ場所にいた。

壁際。身体を小さく丸め、不規則な皮膚の表面を静かに休ませている。

「おはよう」

当然、言葉の返事はない。

ゾーイは肩から下げていた鞄をデスクへ置いた。

「モップ?」

トン、トン。

床を伝わる、かすかな振動。

ゾーイの口元が緩んだ。

「起きてた」

丸まっていた身体の一部が、ぬっと滑らかに持ち上がる。

いつもの挨拶だった。

それを見届けてから、ゾーイは本日の観測作業を開始した。

*

モップの調査は、牛歩の歩みで進んでいた。

正確に言えば、調べれば調べるほど、分からないことだけが膨れ上がっていた。

サンプルとして採取できたのは、モップが移動の際に自然に剥がれ落とした、ごく小さな表面組織のみ。

ゾーイは、無理な生体組織の採取や、負担をかける検査を一切認めなかった。

分析端末に向かっていた職員が、頭を抱えながら振り返る。

「……ない」

「何が?」

「標準的なDNA構造。少なくとも、こっちで調べられる範囲では見つからない」

「ないの?」

「遺伝情報を担う仕組み自体が違うのかもしれない。既知の生命体と照らし合わせても、まるで当てはまらないんだ」

職員は別の分析結果を表示した。

「タンパク質に相当する構造も、どう解釈すればいいのか分からない。そもそも、こいつは何を使って身体を維持してるんだ?」

「でも、生きてるよね?」

「生きてると考えるのが自然だ。自分の意思で動いて、周囲に反応してる」

「じゃあ、いいじゃん」

「よくないよ!」

「なんで?」

「生きてるのに、俺たちの知ってる生物学がほとんど通用しないんだぞ!」

ゾーイは足元を見下ろした。

モップは資材箱の影を、滑らかな流体のようにゆっくり移動していた。

「だから『未知生物』なんじゃないの?」

職員は口を開きかけ、そのまま閉じた。

しばらくして、端末へ向き直る。

「……それを言われると困る」

*

さらに奇妙だったのは、エネルギーの取り込み方だった。

施設に居ついてから数日。

モップが何かを食べるところは、一度も観察されていない。

水を飲む様子もなかった。

ゾーイたちは、負担をかけない範囲で様々なものを用意した。

野外の草木。有機培地。高濃度栄養ゼリー。純水。鉱物や微小金属。

モップは近づき、身体の一部でそっと触れる。

それだけだった。

取り込んだ形跡はない。

それにもかかわらず、非接触センサーが捉える内部の周期的な活動は、安定して続いていた。

その活動が何を意味するのか、まだ分かっていない。

ゾーイが床にしゃがみ込み、話しかける。

「……お腹減らないの?」

モップは反応しない。

「ご飯食べなくていいなら、すごく便利だね」

分析担当者が横から叫んだ。

「そういう問題じゃないんだって!」

*

午後。

ノア・リードがやってきた。

今日も補給資材の箱を運んできたが、大きさは前回の半分ほどだった。

片手で軽々と抱えている。

「モップー」

トン、トン。

ノアが指で床を叩くと、すぐに返事があった。

トン、トン。

ノアは目を丸くした。

「……俺に対する返事、早くない?」

「何が?」

「反応だよ。前より絶対早い」

「気のせいでしょ」

「昨日、時間を測ったんだって! 感覚じゃなくて!」

ゾーイが可笑しそうに笑う。

「私みたいになってきたね、ノア」

「嫌だよ! 同類にしないで!」

*

ノアが床にどっかりと座り込む。

すると、廊下の奥からモップがぬうっと近づいてきた。

一メートル。

七十センチ。

五十センチ。

ノアは息を殺し、動かなかった。

モップの身体の一部が、触手のようにゆっくり伸びる。

そして、ノアのスニーカーのつま先に触れた。

「……さ、触られた」

ノアが引きつった声で囁く。

「急に動かないでね」

「どうすればいいの?」

「そのままじっとしてて」

「なんか、くすぐったいんだけど……」

「我慢」

モップは靴の表面を、繊維の一本一本まで確かめるように触っていた。

しばらくすると、満足したのか、すうっと身体を引いた。

ノアが大きく息を吐く。

「……俺の靴、気に入ったのかな」

「単に臭かったんじゃない?」

「ひどっ! 洗いたてだし!」

*

昼下がり。

アルマの環境観測部門。

ケイトの個人端末に、ゾーイからモップの最新解析データが届いた。

本来、環境データ解析官の業務領域ではない。

添付されたメッセージ。

《これ、何か分かりますか?》

ケイトは資料を開き、ざっと目を通した。

《専門外。》

《ですよねー》

ケイトはウィンドウを閉じようとした。

しかし、指が止まった。

内部の周期的な活動を示す波形。

その微細な揺らぎ方に、見覚えがあった。

昨日、セレスティアのヘレンたちと検討した時刻補正ログ。

直接比較できる種類のデータではない。

それでも、変動の特徴がどこか似ている。

ケイトは机の上の青い包装に包まれたパンを取り出し、一口かじった。

そして、二口目を運ぼうとしたまま画面を見つめた。

隣からミアの呆れた声が飛んでくる。

「……また始まった」

「何が?」

「集中しすぎて、食べるの忘れるやつ」

「食べてるよ」

「止まってるって」

ケイトはパンを机に置いた。

「あとで食べる」

「何見てるの?」

「モップ」

「あの名前がかわいい未知生命体?」

「うん」

「何か分かったの?」

「全然」

「じゃあ、何見てるのよ」

「分からないから見てるの」

ミアは少し笑った。

「それ、セレスティアのカーター博士と同じ言い草ね」

ケイトの顔が露骨に曇った。

「……なんか嫌だな、それ」

*

四十七・二光年先。

セレスティアの惑星間通信観測局。

エリックの端末に、ケイトからのメッセージが届いていた。

《モップって何?》

《生き物》

《犬みたいなやつ?》

《違う》

《猫?》

《違う》

《じゃあ何なんだよ》

《モップ》

エリックは通信機の画面を睨みつけた。

《説明する気ないだろ》

《私だって直接見たことないもん》

《名前しか知らんの?》

《名前とデータだけ》

《なんでモップなの》

《清掃用の布を引きずって廊下を爆走したから》

エリックはその光景を想像して、思わず吹き出した。

《……なんかかわいいな》

《でしょ?》

後ろを通ったダニエルが立ち止まる。

「何がかわいいって?」

「モップ」

「掃除道具が?」

「生き物」

ダニエルは怪訝そうに顔をしかめた。

「……お前ら最近、普通に四十七光年先の日常会話を楽しんでるよな」

エリックは保温容器から冷めた豆の煮込みをすくい、口に運んだ。

「普通だろ」

「普通じゃねえよ!」

ダニエルは何かを言いかけ、諦めたように手を振った。

「……もういいわ」

*

午後。

サイモン・グラントが保守区画に入ってきた。

今日は両手に精密時計を抱えていない。

ダニエルがすかさず声をかける。

「あれ? 時計は?」

サイモンは左腕の袖を少し持ち上げた。

腕時計が覗く。

「ありますよ」

「いや、そっちじゃなくて! いつもの大きいやつ!」

「今日はデータ解析だけですので、必要ありません」

サイモンは端末をデスクに接続した。

『+46 ns』

エリックが覗き込む。

「……増えてる?」

「昨日から大きな変動はありません。ただ、補正量が以前より大きい状態のままです」

ヘレンが奥から資料を持って現れた。

「アルマ側の最新ログは?」

「今、ケイトに聞いてます」

サイモンが端末の記録設定を確認する。

「通信中のこちらの時計も、継続して監視します」

「通信が原因だと思ってるの?」

エリックが尋ねた。

「それを調べています」

サイモンは淡々と答えた。

*

ケイトからデータが届いた。

アルマの複数地点で記録された補正量。

『+44 ns』

『+46 ns』

『+45 ns』

サイモンが眉間にしわを寄せる。

「……観測地点ごとに差がありますね」

ヘレンが画面を覗く。

「測定条件は?」

「確認済みです。補正の基準も、装置ごとの誤差も考慮しています」

「それで?」

「まだ共通の原因があるとは言い切れません。ただ、変動の特徴には気になる点があります」

ヘレンは頷いた。

「引き続き調べて」

「もちろんです」

ダニエルが小さく笑った。

「サイモンさん、数字が揃わないと気持ち悪いタイプでしょ」

「揃うべき数字が揃わないのは、誰でも気持ち悪いと思いますが」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

「どういう意味です?」

ダニエルはエリックを見た。

「……こいつ、強いな」

*

ヘレンは画面の端に、アルマから届いたモップの生体周期データを表示させた。

エリックが尋ねる。

「博士も、その生き物のデータを見るんですか?」

「ええ」

「時計と関係あるんですか?」

「それを知りたいのよ」

ヘレンは二つの記録を並べた。

モップの内部活動。

アルマの時計の補正履歴。

サイモンが解析条件を調整する。

「……前回と同じですね」

「ええ」

「似た変動は見られます。ただ、記録期間が短すぎます」

「分かってるわ」

ヘレンはモップの波形を拡大した。

「だから、まだ結論は出さない」

サイモンは頷き、新しい記録を保存した。

ダニエルがエリックに囁く。

「……今日は平和だな」

「何が?」

「博士とサイモンさん。意見が一致してる」

「いつも一致してるだろ」

「そうなんだけどさ。なんか緊張するんだよ、あの二人」

*

アルマ。

野生調査施設。

ゾーイはモップの行動観察ログを記録していた。

移動。

停止。

接触。

休止。

そして、床を叩く不定期な音。

トン、トン。

ノアが宿題の端末を開いたまま、モップを見つめている。

「またやってる」

「うん」

「あいつ、何に向かって音鳴らしてんだろ」

「さあね」

「誰か呼んでるのかな」

ゾーイは入力を止めた。

「誰を?」

「知らないけど」

「ここには誰もいないよ」

ノアは周囲の壁を見回した。

「壁の向こうは?」

「機材倉庫」

「その向こうは?」

「外の岩場」

「そのずっと先は?」

「未探査の山並み」

「その向こうは?」

「海」

「そのもっと向こうは?」

ゾーイはノアを不審そうに見つめた。

「……何が言いたいの?」

「別に」

ノアは指先を床につけ、モップのリズムに合わせて叩いた。

トン、トン。

モップも返す。

トン、トン。

「どこまで行っても、誰もいないのかなって」

ゾーイはしばらくノアを見つめていた。

そして、何も言わずに記録入力を再開した。

*

そのときだった。

モップの身体が、突然ぎゅっと縮んだ。

ゾーイの手が止まる。

「……モップ?」

ノアも床を叩くのをやめた。

モップは壁でも、ゾーイでもなく、真上へ身体の一部を伸ばしていた。

顔も目もない。

それでも、何かを見上げているようだった。

二人は思わず天井を見た。

白い天井板。

照明。

配管。

何も変わっていない。

「何……?」

ノアが声をひそめる。

「音、聞こえる?」

ゾーイは耳を澄ませた。

空調のかすかな駆動音。

それ以外、何も聞こえない。

手元の測定器を確認する。

気圧、正常。

振動、異常なし。

放射線量、正常範囲。

磁場、変化なし。

ゾーイは立ち上がった。

「……外かも」

*

ゾーイとノアは、モップと一緒に施設の外へ出た。

モップはゾーイの足元に寄り添うように、ゆっくりついてきた。

見上げる空。

澄み渡る青。

遠くに連なるアルマの山並み。

乾いた風が、二人の頬を撫でる。

ノアが目を細めた。

「何もないよ?」

「うん……」

モップは空へ身体の一部を向けたまま、動かなかった。

いつもより小さく縮んでいる。

ゾーイは膝をついた。

「怖いの……?」

触れはしない。

ただ、近くに寄り添う。

「何がいるの?」

モップは答えない。

「……何が見えてるの?」

*

ゾーイは端末を取り出した。

防災警報。

軌道衛星の警戒情報。

気象観測ログ。

宇宙線量。

次々と確認する。

何も出てこない。

「全部、正常……」

ノアは空を見上げたまま呟いた。

「でも、モップは変だよ」

「……うん」

「昨日は、こんなふうじゃなかった」

ゾーイはモップを見た。

身体が縮んだまま、戻らない。

いつもなら、少し待てば柔らかく広がるはずだった。

ゾーイの表情から、笑みが消えた。

*

施設へ戻り、非接触の高精度スキャンを開始する。

波形が表示された瞬間、ゾーイは息を呑んだ。

モップの内部周期が乱れていた。

規則的だった変動が、速くなり、遅くなり、ときには途切れそうになる。

「……いつから?」

ゾーイは記録を遡った。

一時間前。

三時間前。

今朝。

昨夜。

昨日。

指が止まった。

昨日の記録に、すでに小さな乱れがあった。

「……昨日からだ」

ノアが不安そうに覗き込む。

「これって、病気なの?」

ゾーイは答えられなかった。

「悪いことなの?」

「……分からない」

モップは床の上で、身体を固く縮めたままだった。

*

ゾーイからケイトへ、緊急のデータ転送が入った。

ケイトは本来の環境解析作業を中断した。

モップの内部周期。

周辺の気圧。

大気成分。

地殻変動。

地磁気。

宇宙線量。

観測項目を次々と画面に展開する。

「……何も出てこない」

隣のミアが顔を上げた。

「本当に?」

「観測網で確認できる範囲には異常がない。環境は安定してる」

ケイトは複数の記録を重ね合わせた。

環境データには目立った変化がない。

それなのに、モップの内部周期だけが崩れていく。

ケイトは急いでキーを叩いた。

《博士を呼んで》

返事はすぐに届いた。

《目の前にいる》

《モップが変なの》

*

セレスティア。

ヘレン・カーターが画面を開いた。

サイモン、エリック、ダニエルが集まる。

モップの乱れた周期波形。

ヘレンが尋ねた。

「現地の環境変化は?」

「確認できません。ケイトから届いた観測データには、目立った異常がありません」

エリックが答える。

「時計は?」

サイモンが記録を確認した。

「こちらの最新の補正量は、まだ+46ナノ秒付近です。アルマ側も、直近の報告では大きな変化はありません」

「モップの記録と比べて」

ヘレンが言った。

サイモンは慎重に画面を操作する。

モップの内部周期。

アルマの各観測設備の補正履歴。

そして、セレスティア側の記録。

三つの波形が並ぶ。

しばらくして、サイモンが口を開いた。

「……妙ですね」

「何が?」

ヘレンが尋ねる。

「モップの周期には、昨日から変化が現れています。ですが、時計の方はまだ大きく動いていません」

エリックが画面を覗き込む。

「じゃあ、モップの方が先に……?」

「そう見える部分はあります。ただし、惑星間の記録を同じ時刻として直接比較することはできません」

サイモンはアルマ側の記録だけを拡大した。

「それに、現地の時計の変化が、このあと起きるとも限りません」

ヘレンは黙って波形を見つめていた。

「……もし、時計の方が後から変わったら?」

ダニエルが尋ねる。

ヘレンは答えた。

「そのときは、もう一度調べ直す必要があるわ」

「それだけですか?」

「今は、それだけよ」

ヘレンはモップの波形に視線を戻した。

「でも、この子の記録は絶対に途切れさせないで」

サイモンが頷く。

「現地に依頼します」

*

アルマの夜。

ゾーイは帰らなかった。

照明を落とした施設の床に毛布を敷き、モップのすぐ横に座り込んでいた。

ノアも壁にもたれたまま、帰ろうとしない。

「……帰りなよ、ノア。お母さん心配するよ」

「連絡したもん。施設で泊まりの手伝いするって」

「学校は?」

「明日、午後から」

「午前中もあるでしょ」

ノアは答えず、膝を抱えてモップを見つめた。

「……こいつを一人にできるわけないじゃん」

ゾーイは何も言い返せなかった。

*

モップは、ほとんど動かなくなっていた。

ゾーイが床を叩く。

トン、トン。

返答はない。

もう一度。

トン、トン。

長い沈黙。

そして、消え入りそうな小さな振動。

トン、トン。

ノアが顔を上げた。

「……返した!」

「うん……」

ゾーイは頷いた。

だが、いつものように笑うことはできなかった。

あまりにも弱々しい音だった。

*

深夜。

分析担当者が青ざめた顔で新しいレポートを持ってきた。

「ゾーイ……」

「何?」

「モップの内部活動が、どんどん弱くなってる」

「どれくらい?」

「分からない。正常な状態の基準すら、まだ十分に取れてないんだ」

職員は端末を握りしめた。

「何を与えればいいのか、何が必要なのか……そもそも、どこが生命維持に関わっているのかも分からない」

ゾーイは床に丸まったモップを見つめた。

言葉が出てこない。

ノアがモップのすぐ前に屈み込む。

指先を床に当て、優しく叩いた。

トン、トン。

返事はない。

トン、トン。

静寂。

「……モップ」

もう一度。

トン、トン。

長い沈黙の末に、かすかな振動が返ってきた。

トン、トン。

ノアは笑わなかった。

ただ、必死な目でモップを見つめていた。

「……頑張れよ」

指先が震える。

「なあ、頑張れよ……!」

*

アルマ。

環境観測部門。

ケイトは自席で、アルマ全域の生物データベースを検索し続けていた。

極限環境生物。

特殊なエネルギー代謝。

鉱物と共生する微生物。

条件を少しずつ変え、何度も検索を繰り返す。

『該当なし』

『該当なし』

ミアが静かに温かい飲み物を置いた。

「少し休みなよ、ケイト」

「まだ……」

「もう何時間も画面見てるよ」

「分かってる……!」

「ケイトの専門外でしょ?」

「分かってるよ……!」

ケイトは指を止めず、キーを叩き続けた。

「分かってるけど……似た構造のデータ一つくらい、見つけてあげたいじゃん……!」

ミアはそれ以上、何も言わなかった。

*

セレスティア。

エリックもまた、保守区画の古い通信機の前に座り続けていた。

自分にできることなど、何もない。

モップを見たことも、触れたこともない。

四十七・二光年先で何が起きているのか、画面に届く文字でしか知ることができない。

それでも、彼は席を離れなかった。

《まだいる?》

少しして、ケイトから返事が届いた。

《いる》

《モップは?》

《よくない》

エリックの指が止まる。

《何か手伝えることあるか?》

長い沈黙。

《……必死でデータ探してる》

エリックはしばらく画面を見つめた。

そして、打ち込んだ。

《分かった。俺もここにいる》

それしか言えなかった。

*

アルマ。

午前三時。

ゾーイは冷えた床の上で目を覚ました。

いつ眠ってしまったのか、覚えていない。

ノアは壁にもたれたまま眠っていた。

毛布が肩から落ちかけている。

ゾーイは身体を起こし、真っ先にモップを見た。

「……モップ?」

動きはない。

膝立ちになって近づく。

いつもなら、彼女が近づくだけでふわりと持ち上がる身体の一部が、静止していた。

「モップ……?」

ゾーイはかがみ込んだ。

触れる寸前で、手を止める。

そして、指先を床につけた。

トン、トン。

静寂。

空調の低い音だけが響いている。

ゾーイはもう一度、叩いた。

トン、トン。

返事はない。

「……モップ?」

声が震えた。

ノアが目を覚ます。

「……ゾーイ? どうしたの?」

ゾーイは答えられなかった。

もう一度、床を叩く。

トン、トン。

いつもなら、少し待てば返ってくる。

あの、ぎこちない音。

トン、トン。

ノアが身体を起こした。

「……モップ?」

二人は待った。

十秒。

二十秒。

一分。

何も聞こえない。

ゾーイは唇を噛み、もう一度指先を床に落とした。

トン、トン。

返事はなかった。

ゾーイはその場から動けなかった。

ノアも、何も言わなかった。

静まり返った施設の中で、モップは小さく丸まったままだった。

(第十章 了)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。