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47光年の手紙  作者: たびしずく


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第八章 同じ数字

挿絵(By みてみん)


ゾーイ・ベネットは動かなかった。

岩陰の生き物もまた、動かなかった。

二つの静寂の間を、乾いた風だけが吹き抜けていく。

ゾーイは地面に置いた生態測定器へ、一度だけ視線を落とした。

大気組成、正常。

気温、正常。

地表微振動、異常なし。

周囲に大型肉食生物の反応もない。

危険を示す数値は、何ひとつ表示されていなかった。

それなのに、目の前の生き物は何かを警戒しているように見えた。

小さく縮めた身体。

灰色がかった、しわの多い皮膚。

その表面が、時折わずかに波打つ。

ゾーイは手を伸ばさなかった。

代わりに、指先で地面の岩を軽く叩いた。

トン、トン。

硬い音が響く。

待つ。

岩陰の奥から――。

トン、トン。

ゾーイの口元が少し緩んだ。

「……聞こえてるね」

生き物は出てこない。

「分かった。そっちには行かないよ」

ゾーイは岩場に腰を下ろした。

*

十分。

二十分。

ゾーイは調査記録を端末へ入力しながら、時折、岩を叩いた。

トン、トン。

毎回返ってくるわけではない。

けれど、何度かに一度。

トン、トン。

同じ音が返ってきた。

ゾーイは無理に近づかなかった。

食べ物で誘うこともしない。

捕獲用の道具も出さない。

ただ、そこに座っていた。

三十分ほど経った頃。

岩陰から、何かがゆっくりと現れた。

ゾーイの指が止まる。

生き物の身体の一部だった。

頭らしい部分はない。

目も、口も見当たらない。

それでも、こちらへ意識を向けているような気がした。

「こんにちは」

返事はない。

「……声じゃ駄目か」

ゾーイは岩を叩いた。

トン、トン。

生き物が応じる。

トン、トン。

「こっちね」

ゾーイは微笑んだ。

挿絵(By みてみん)

セレスティア。

惑星間通信観測局。

壁一面の大型モニターに、時刻同期データが並んでいた。

ダニエルは腕を組み、画面を見上げた。

「……さっぱり分からん」

隣のサイモンが即答する。

「分からなくて結構です」

「じゃあ、なんで俺を呼んだの?」

「呼んでいません。勝手に来たんです」

「……そうだった」

サイモンは端末を操作した。

観測地点、百十二。

セレスティア地上観測局。

軌道施設。

独立研究所。

中継基地。

発電プラント。

すべて、セレスティアとその周辺に設置された時刻基準設備だった。

画面を埋め尽くす時計の記録。

「今夜、夢に出そうだな」

「正確に時を刻んでいる夢なら問題ありません」

「夢の時計まで管理する気かよ」

「管轄外です」

「どこまでも真面目だなあ」

「仕事ですので」

ダニエルはエリックを振り返った。

「お前と同じこと言ってるぞ」

エリックはUNIT-2の前にいた。

「何か言ったか?」

「聞いてないならいいや」

*

ヘレン・カーターが保守区画に入ってきた。

今日は紙カップを持っていない。

ダニエルがすぐに気づく。

「あ、ついに食堂のコーヒー諦めました?」

ヘレンは鞄から小さな保温ボトルを取り出した。

蓋を開ける。

一口飲む。

「……これよ」

「何がです?」

「コーヒー」

「食堂のも一応コーヒーですよ?」

「あれは違うわ」

「物理学的に?」

「人道的によ」

エリックが背を向けたまま笑った。

*

「全データの抽出が終わりました」

サイモンの声が響く。

ヘレンはボトルを置いた。

「見せて」

セレスティア各地の時刻補正履歴。

微小な値が並んでいた。

『+36 ns』

『+38 ns』

『+37 ns』

『+39 ns』

地域差。

機器の個体差。

測定ノイズ。

数値にはばらつきがある。

それでも、複数の独立した基準系に、似た傾向が現れていた。

ダニエルが画面を覗き込む。

「三十一じゃなくなってる……」

「固定値ではありませんから」

「じゃあ最初の三十一は?」

「あの時点で記録された補正量です」

「増えてるってことか?」

サイモンは別のグラフを開いた。

「少なくとも、一部の基準系では変動が大きくなっています。ただし、すべてが単調に増加しているわけではありません」

「……難しいな」

「簡単なら私を呼ぶ必要はありません」

*

ヘレンが言った。

「アルマ側のデータも欲しいわ」

エリックはキーを叩く。

《データ送って》

すぐに返信。

《挨拶は?》

《おはよう》

《遅い》

《データお願いします》

《もっと遅い》

エリックは画面を見つめた。

背後からダニエルが覗く。

「朝から怒られてやんの」

「見るなよ」

挿絵(By みてみん)

アルマ。

ケイトは画面を見て笑いながら、最新の時刻ログを開いていた。

その横から、ミアの手が伸びる。

机の上に置いてあった黄色い包装のパンを一本、素早く奪った。

「あ! それ私の!」

「いっぱい買ってきたでしょ」

「黄色は最後に食べるの!」

ミアは包装を眺めた。

「昨日も黄色食べてなかった?」

「今日の黄色は昨日と違うの」

「何が?」

「色が濃い」

「味は?」

ケイトは無言で睨んだ。

ミアが両手を上げる。

「はいはい。黄色味ね」

「分かってきたじゃん」

*

ケイトは仕事用の画面へ向き直った。

環境観測網。

独立時刻ログ。

自動補正履歴。

普段なら気にする必要もない微小な記録を抽出する。

ナノ秒単位まで表示を広げる。

複数地点で、小さな補正が繰り返されていた。

ケイトは食べかけのパンを置いた。

「……ミア」

「ん?」

「昨日より変動が大きい場所がある」

ミアの手が止まった。

「どのくらい?」

「数字は小さい。でも……」

ケイトは複数の観測点の記録を重ねた。

「似た動き方をしてるの」

ミアが椅子を寄せた。

二人で画面を見る。

「……これ、同じ時刻系統を使ってるからじゃない?」

「その可能性はある」

ケイトは頷いた。

「だから、独立した基準時計を持つ観測点も調べた」

「それで?」

「そっちにも出てる」

ミアの表情が変わった。

ケイトはデータをまとめ、セレスティアへ送った。

*

セレスティア。

サイモンは受信したデータを開いた。

アルマ。

セレスティア。

二つの惑星の時刻記録。

それぞれの基準や補正方式が異なるため、数値をそのまま比較することはできない。

サイモンは記録形式を統一し、補正の発生間隔や変動の傾向を調べ始めた。

しばらくして、指が止まった。

「……似すぎている」

ヘレンが近づく。

「何が?」

「変動の形です」

サイモンは二つのグラフを並べた。

山。

谷。

小さな揺らぎ。

完全に一致するわけではない。

それでも、独立した時計の記録としては、見過ごしにくい類似性があった。

エリックが覗き込む。

「同じことが起きてる?」

「その可能性があります」

「四十七光年離れてるのに?」

サイモンは答えなかった。

それこそが、彼にも説明できない部分だった。

*

ダニエルが低く呟いた。

「同じ原因ってことですか?」

ヘレンは首を振る。

「まだ断定できないわ」

「博士、絶対そう言うと思いました」

「科学は早押しクイズじゃないのよ」

ヘレンはサイモンを見た。

「UNIT-2の通信履歴も重ねて」

サイモンが操作する。

通信のあった時間。

なかった時間。

時計の補正が生じた時間。

しばらくして、ヘレンが言った。

「……やっぱりね」

「何がです?」

「通信をしていない間も、時計は変動している」

サイモンが頷く。

「UNIT-2の送受信だけで説明できる現象ではありません」

エリックが尋ねる。

「昨日と同じ結論?」

「昨日より、根拠が増えた結論よ」

「進歩したってことですか?」

「ほんの少しね」

*

アルマ。

野生調査区域。

ゾーイはまだ岩場にいた。

太陽はすでに頭上を過ぎている。

生き物は身体の半分ほどを岩陰から出していた。

ゾーイは携帯食をかじりながら、少し考えた。

分けてあげようか。

だが、すぐに思い直す。

「……何食べるか分からないもんね」

測定器をそっと向ける。

生体反応はある。

しかし、既知の動物分類には当てはまらない。

体温の分布も独特で、測定値をどう解釈すればいいのか分からなかった。

ゾーイが少し姿勢を変えた。

その途端、生き物が身体を縮める。

ゾーイは動きを止めた。

「ごめんごめん」

少しだけ身を引く。

生き物の緊張が和らいだように見えた。

「……そこが安全な距離なんだね」

*

ピピッ。

端末が鳴った。

調査本部からの定時連絡。

『予定時間を超過している。状況を報告せよ』

ゾーイは返信する。

《未確認の野生生物を観察中》

すぐに返事。

『捕獲は可能か?』

ゾーイは生き物を見た。

《現時点では捕獲を試みていません》

『危険性は?』

測定器を見る。

周囲の環境は正常。

生き物から攻撃的な行動も見られない。

《今のところ攻撃行動なし。危険性は未評価》

少し迷って、付け加えた。

《むしろ、向こうが怯えているように見えます》

『何を恐れている?』

ゾーイは周囲を見渡した。

赤茶けた岩肌。

低い草。

静かな空。

穏やかな風。

目に見える脅威はない。

《分かりません》

*

セレスティア。

ヘレンは広域星図を開いていた。

セレスティア。アルマ。そして、周辺の恒星系に点在する観測施設。

サイモンが過去の観測記録を次々と呼び出していく。

「……該当する記録はありません」

「補正値だけで探さないで。変動の特徴も見て」

「すでに照合しています」

ヘレンがサイモンを見た。

「仕事が早いわね」

「仕事ですので」

ダニエルが小さく笑った。

「それ、便利な言葉だな」

サイモンは答えず、次の記録を開いた。

古い観測データが星図の上に重なっていく。

ヘレンは腕を組んだ。

「……少なすぎるわね」

「何がです?」

エリックが尋ねた。

「比較できる記録よ」

サイモンが頷く。

「現時点では、判断材料が足りません」

ヘレンは二つの惑星を見つめた。

「なら、今あるものを徹底的に調べましょう」

サイモンは再び端末へ向き直った。

*

昼過ぎ。

エリックは食堂にいた。

トレーを置き、端末を開く。

ケイトからメッセージ。

《そっち今昼?》

《昼》

《何食べてるの?》

エリックは皿を見る。

《豆の煮込み》

《また豆!?》

《好きなんだよ》

《初めて聞いた》

《言ってなかったっけ》

《洗濯と睡眠の話しか聞いてない》

《そんなことないだろ》

豆を一口食べる。

《ケイトは何食べてるの》

返事。

《黄色》

エリックは笑った。

《パン?》

《正解!》

《俺もだんだん分かってきた》

《素晴らしい成長ね》

エリックは食堂を見渡した。

談笑する同僚たち。

窓の外に広がる街並み。

いつもと変わらないセレスティア。

時計の異変など、誰も気にしていない。

《ケイト》

《何?》

エリックの指が止まった。

四十七・二光年。

三十一ナノ秒。

ヘレンの仮説。

何ひとつ解決していない。

それでも、聞きたいことは別にあった。

《そのパン、美味しいか?》

《普通》

《毎日食べてるのに?》

《普通だから毎日食べられるのよ》

エリックは少し考えた。

《分かる気がする》

《豆も?》

《豆も》

挿絵(By みてみん)

アルマ。

夕刻が近づいていた。

ゾーイは立ち上がった。

「今日はもう帰るね」

当然、返事はない。

荷物をまとめる。

測定器をケースに収める。

生き物は岩陰の近くにいた。

ゾーイは数歩進み、振り返った。

動かない。

さらに歩く。

振り返る。

やはり動かない。

「また来るからね」

今度こそ歩き出した。

十メートルほど進んだところで――。

シャリ……。

草を擦る音がした。

ゾーイが振り返る。

生き物が、岩陰から完全に出ていた。

小型犬ほどの身体。

不規則なしわのある皮膚。

その一部を持ち上げ、こちらへ向けている。

ゾーイはゆっくり膝を折った。

指先で地面を叩く。

トン、トン。

少しの間。

トン、トン。

ゾーイは微笑んだ。

「じゃあね」

*

数分後。

ゾーイは何度も足を止めていた。

背後から、かすかな草音がついてくる。

振り返る。

数十メートル先。

あの生き物が立ち止まっていた。

ゾーイが進む。

向こうも進む。

ゾーイが止まる。

向こうも止まる。

「……ついてきてる?」

生き物は動かない。

「あのね、調査施設には勝手に入れないんだよ?」

トン、トン。

「それ、返事のつもり?」

*

夕方。

野生調査施設のエントランス。

ゾーイは先輩職員と押し問答をしていた。

「だから、捕獲したわけじゃないんです!」

「じゃあ、なんで玄関の外にいるんだよ」

ゾーイが振り返る。

三メートルほど先。

敷地の境界付近に、生き物がぽつんと丸くなっていた。

「勝手についてきたんです!」

「それを連れてきたって言うんだよ」

「違います! 自発的な同行です!」

「屁理屈こねるな!」

ゾーイは生き物へ向き直った。

「ねえ、あなたから説明して!」

生き物は動かない。

先輩職員が呆れたように言った。

「ほら見ろ。黙秘権を行使してるぞ」

*

その頃。

アルマの環境観測部門。

ケイトの端末に、野外調査チームから報告書が届いた。

『未確認生命体の自発的接近例』

本来なら翌日処理する予定のデータだった。

ケイトは軽い気持ちで開く。

生体反応。

周辺環境。

観測地点。

目立った異常はない。

閉じようとして――。

指が止まった。

添付されていた時刻補正履歴。

その地域の観測設備にも、小さな補正が記録されていた。

『+41 ns』

ケイトは背もたれから身体を起こした。

ゾーイが生き物を観察していた時間帯。

そこにも、時計の変動があった。

もちろん、数字が同じだからといって、原因まで同じとは限らない。

だが、ケイトは報告書を閉じなかった。

*

セレスティア。

通知音が鳴る。

エリックが画面を見る。

ケイトからだった。

《エリック》

《何?》

《カーター博士、まだいる?》

エリックは振り返った。

星図の前で腕を組んでいるヘレン。

《いる》

《これ見せて》

データが届いた。

エリックには内容がよく分からない。

そのままヘレンとサイモンへ回す。

ヘレンが画面を見た。

サイモンが時刻ログを開く。

「……アルマの野生調査区域です」

補正記録。

観測時刻。

測定機器。

「四十一ナノ秒」

ダニエルが身を乗り出した。

「こっちでも出てた数字じゃないか!」

サイモンはセレスティアの記録を並べた。

『+41 ns』

同じ数字。

だが、異なる惑星。

異なる時計。

異なる観測環境。

サイモンは慎重に口を開いた。

「数値の一致だけなら偶然もあり得ます。ただ、この地域の変動も、アルマの他の観測点と比較する必要があります」

ヘレンは報告書を見つめていた。

「……この生物は?」

エリックが聞く。

「何か関係あるんですか?」

「分からないわ」

ヘレンは答えた。

「でも、この観測地点で何が起きていたのか、詳しく知りたい」

画面には、小さな生き物の観測記録が残されていた。

*

アルマ。

夜の冷気が調査施設を包み始めていた。

ゾーイはエントランス近くの廊下に座っていた。

数メートル先。

施設の明かりが届くか届かないかの場所に、あの生き物がいる。

「……そこ、寒くない?」

返事はない。

ゾーイは床を指先で叩いた。

トン、トン。

数秒。

暗がりから音が返る。

トン、トン。

その頃。

施設の標準時計には、新たな微小補正が記録されていた。

表示は変わらない。

音も鳴らない。

誰も気づかない。

ゾーイも時計を見なかった。

彼女が見つめていたのは、暗がりにいる小さな命だけだった。

生き物は、先ほどまで固く縮めていた身体を、ほんの少し緩めた。

ゾーイは笑った。

「……少し、慣れてくれた?」

トン。

小さな音が返った。

(第八章 了)




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