第八章 同じ数字
ゾーイ・ベネットは動かなかった。
岩陰の生き物もまた、動かなかった。
二つの静寂の間を、乾いた風だけが吹き抜けていく。
ゾーイは地面に置いた生態測定器へ、一度だけ視線を落とした。
大気組成、正常。
気温、正常。
地表微振動、異常なし。
周囲に大型肉食生物の反応もない。
危険を示す数値は、何ひとつ表示されていなかった。
それなのに、目の前の生き物は何かを警戒しているように見えた。
小さく縮めた身体。
灰色がかった、しわの多い皮膚。
その表面が、時折わずかに波打つ。
ゾーイは手を伸ばさなかった。
代わりに、指先で地面の岩を軽く叩いた。
トン、トン。
硬い音が響く。
待つ。
岩陰の奥から――。
トン、トン。
ゾーイの口元が少し緩んだ。
「……聞こえてるね」
生き物は出てこない。
「分かった。そっちには行かないよ」
ゾーイは岩場に腰を下ろした。
*
十分。
二十分。
ゾーイは調査記録を端末へ入力しながら、時折、岩を叩いた。
トン、トン。
毎回返ってくるわけではない。
けれど、何度かに一度。
トン、トン。
同じ音が返ってきた。
ゾーイは無理に近づかなかった。
食べ物で誘うこともしない。
捕獲用の道具も出さない。
ただ、そこに座っていた。
三十分ほど経った頃。
岩陰から、何かがゆっくりと現れた。
ゾーイの指が止まる。
生き物の身体の一部だった。
頭らしい部分はない。
目も、口も見当たらない。
それでも、こちらへ意識を向けているような気がした。
「こんにちは」
返事はない。
「……声じゃ駄目か」
ゾーイは岩を叩いた。
トン、トン。
生き物が応じる。
トン、トン。
「こっちね」
ゾーイは微笑んだ。
セレスティア。
惑星間通信観測局。
壁一面の大型モニターに、時刻同期データが並んでいた。
ダニエルは腕を組み、画面を見上げた。
「……さっぱり分からん」
隣のサイモンが即答する。
「分からなくて結構です」
「じゃあ、なんで俺を呼んだの?」
「呼んでいません。勝手に来たんです」
「……そうだった」
サイモンは端末を操作した。
観測地点、百十二。
セレスティア地上観測局。
軌道施設。
独立研究所。
中継基地。
発電プラント。
すべて、セレスティアとその周辺に設置された時刻基準設備だった。
画面を埋め尽くす時計の記録。
「今夜、夢に出そうだな」
「正確に時を刻んでいる夢なら問題ありません」
「夢の時計まで管理する気かよ」
「管轄外です」
「どこまでも真面目だなあ」
「仕事ですので」
ダニエルはエリックを振り返った。
「お前と同じこと言ってるぞ」
エリックはUNIT-2の前にいた。
「何か言ったか?」
「聞いてないならいいや」
*
ヘレン・カーターが保守区画に入ってきた。
今日は紙カップを持っていない。
ダニエルがすぐに気づく。
「あ、ついに食堂のコーヒー諦めました?」
ヘレンは鞄から小さな保温ボトルを取り出した。
蓋を開ける。
一口飲む。
「……これよ」
「何がです?」
「コーヒー」
「食堂のも一応コーヒーですよ?」
「あれは違うわ」
「物理学的に?」
「人道的によ」
エリックが背を向けたまま笑った。
*
「全データの抽出が終わりました」
サイモンの声が響く。
ヘレンはボトルを置いた。
「見せて」
セレスティア各地の時刻補正履歴。
微小な値が並んでいた。
『+36 ns』
『+38 ns』
『+37 ns』
『+39 ns』
地域差。
機器の個体差。
測定ノイズ。
数値にはばらつきがある。
それでも、複数の独立した基準系に、似た傾向が現れていた。
ダニエルが画面を覗き込む。
「三十一じゃなくなってる……」
「固定値ではありませんから」
「じゃあ最初の三十一は?」
「あの時点で記録された補正量です」
「増えてるってことか?」
サイモンは別のグラフを開いた。
「少なくとも、一部の基準系では変動が大きくなっています。ただし、すべてが単調に増加しているわけではありません」
「……難しいな」
「簡単なら私を呼ぶ必要はありません」
*
ヘレンが言った。
「アルマ側のデータも欲しいわ」
エリックはキーを叩く。
《データ送って》
すぐに返信。
《挨拶は?》
《おはよう》
《遅い》
《データお願いします》
《もっと遅い》
エリックは画面を見つめた。
背後からダニエルが覗く。
「朝から怒られてやんの」
「見るなよ」
アルマ。
ケイトは画面を見て笑いながら、最新の時刻ログを開いていた。
その横から、ミアの手が伸びる。
机の上に置いてあった黄色い包装のパンを一本、素早く奪った。
「あ! それ私の!」
「いっぱい買ってきたでしょ」
「黄色は最後に食べるの!」
ミアは包装を眺めた。
「昨日も黄色食べてなかった?」
「今日の黄色は昨日と違うの」
「何が?」
「色が濃い」
「味は?」
ケイトは無言で睨んだ。
ミアが両手を上げる。
「はいはい。黄色味ね」
「分かってきたじゃん」
*
ケイトは仕事用の画面へ向き直った。
環境観測網。
独立時刻ログ。
自動補正履歴。
普段なら気にする必要もない微小な記録を抽出する。
ナノ秒単位まで表示を広げる。
複数地点で、小さな補正が繰り返されていた。
ケイトは食べかけのパンを置いた。
「……ミア」
「ん?」
「昨日より変動が大きい場所がある」
ミアの手が止まった。
「どのくらい?」
「数字は小さい。でも……」
ケイトは複数の観測点の記録を重ねた。
「似た動き方をしてるの」
ミアが椅子を寄せた。
二人で画面を見る。
「……これ、同じ時刻系統を使ってるからじゃない?」
「その可能性はある」
ケイトは頷いた。
「だから、独立した基準時計を持つ観測点も調べた」
「それで?」
「そっちにも出てる」
ミアの表情が変わった。
ケイトはデータをまとめ、セレスティアへ送った。
*
セレスティア。
サイモンは受信したデータを開いた。
アルマ。
セレスティア。
二つの惑星の時刻記録。
それぞれの基準や補正方式が異なるため、数値をそのまま比較することはできない。
サイモンは記録形式を統一し、補正の発生間隔や変動の傾向を調べ始めた。
しばらくして、指が止まった。
「……似すぎている」
ヘレンが近づく。
「何が?」
「変動の形です」
サイモンは二つのグラフを並べた。
山。
谷。
小さな揺らぎ。
完全に一致するわけではない。
それでも、独立した時計の記録としては、見過ごしにくい類似性があった。
エリックが覗き込む。
「同じことが起きてる?」
「その可能性があります」
「四十七光年離れてるのに?」
サイモンは答えなかった。
それこそが、彼にも説明できない部分だった。
*
ダニエルが低く呟いた。
「同じ原因ってことですか?」
ヘレンは首を振る。
「まだ断定できないわ」
「博士、絶対そう言うと思いました」
「科学は早押しクイズじゃないのよ」
ヘレンはサイモンを見た。
「UNIT-2の通信履歴も重ねて」
サイモンが操作する。
通信のあった時間。
なかった時間。
時計の補正が生じた時間。
しばらくして、ヘレンが言った。
「……やっぱりね」
「何がです?」
「通信をしていない間も、時計は変動している」
サイモンが頷く。
「UNIT-2の送受信だけで説明できる現象ではありません」
エリックが尋ねる。
「昨日と同じ結論?」
「昨日より、根拠が増えた結論よ」
「進歩したってことですか?」
「ほんの少しね」
*
アルマ。
野生調査区域。
ゾーイはまだ岩場にいた。
太陽はすでに頭上を過ぎている。
生き物は身体の半分ほどを岩陰から出していた。
ゾーイは携帯食をかじりながら、少し考えた。
分けてあげようか。
だが、すぐに思い直す。
「……何食べるか分からないもんね」
測定器をそっと向ける。
生体反応はある。
しかし、既知の動物分類には当てはまらない。
体温の分布も独特で、測定値をどう解釈すればいいのか分からなかった。
ゾーイが少し姿勢を変えた。
その途端、生き物が身体を縮める。
ゾーイは動きを止めた。
「ごめんごめん」
少しだけ身を引く。
生き物の緊張が和らいだように見えた。
「……そこが安全な距離なんだね」
*
ピピッ。
端末が鳴った。
調査本部からの定時連絡。
『予定時間を超過している。状況を報告せよ』
ゾーイは返信する。
《未確認の野生生物を観察中》
すぐに返事。
『捕獲は可能か?』
ゾーイは生き物を見た。
《現時点では捕獲を試みていません》
『危険性は?』
測定器を見る。
周囲の環境は正常。
生き物から攻撃的な行動も見られない。
《今のところ攻撃行動なし。危険性は未評価》
少し迷って、付け加えた。
《むしろ、向こうが怯えているように見えます》
『何を恐れている?』
ゾーイは周囲を見渡した。
赤茶けた岩肌。
低い草。
静かな空。
穏やかな風。
目に見える脅威はない。
《分かりません》
*
セレスティア。
ヘレンは広域星図を開いていた。
セレスティア。アルマ。そして、周辺の恒星系に点在する観測施設。
サイモンが過去の観測記録を次々と呼び出していく。
「……該当する記録はありません」
「補正値だけで探さないで。変動の特徴も見て」
「すでに照合しています」
ヘレンがサイモンを見た。
「仕事が早いわね」
「仕事ですので」
ダニエルが小さく笑った。
「それ、便利な言葉だな」
サイモンは答えず、次の記録を開いた。
古い観測データが星図の上に重なっていく。
ヘレンは腕を組んだ。
「……少なすぎるわね」
「何がです?」
エリックが尋ねた。
「比較できる記録よ」
サイモンが頷く。
「現時点では、判断材料が足りません」
ヘレンは二つの惑星を見つめた。
「なら、今あるものを徹底的に調べましょう」
サイモンは再び端末へ向き直った。
*
昼過ぎ。
エリックは食堂にいた。
トレーを置き、端末を開く。
ケイトからメッセージ。
《そっち今昼?》
《昼》
《何食べてるの?》
エリックは皿を見る。
《豆の煮込み》
《また豆!?》
《好きなんだよ》
《初めて聞いた》
《言ってなかったっけ》
《洗濯と睡眠の話しか聞いてない》
《そんなことないだろ》
豆を一口食べる。
《ケイトは何食べてるの》
返事。
《黄色》
エリックは笑った。
《パン?》
《正解!》
《俺もだんだん分かってきた》
《素晴らしい成長ね》
エリックは食堂を見渡した。
談笑する同僚たち。
窓の外に広がる街並み。
いつもと変わらないセレスティア。
時計の異変など、誰も気にしていない。
《ケイト》
《何?》
エリックの指が止まった。
四十七・二光年。
三十一ナノ秒。
ヘレンの仮説。
何ひとつ解決していない。
それでも、聞きたいことは別にあった。
《そのパン、美味しいか?》
《普通》
《毎日食べてるのに?》
《普通だから毎日食べられるのよ》
エリックは少し考えた。
《分かる気がする》
《豆も?》
《豆も》
アルマ。
夕刻が近づいていた。
ゾーイは立ち上がった。
「今日はもう帰るね」
当然、返事はない。
荷物をまとめる。
測定器をケースに収める。
生き物は岩陰の近くにいた。
ゾーイは数歩進み、振り返った。
動かない。
さらに歩く。
振り返る。
やはり動かない。
「また来るからね」
今度こそ歩き出した。
十メートルほど進んだところで――。
シャリ……。
草を擦る音がした。
ゾーイが振り返る。
生き物が、岩陰から完全に出ていた。
小型犬ほどの身体。
不規則なしわのある皮膚。
その一部を持ち上げ、こちらへ向けている。
ゾーイはゆっくり膝を折った。
指先で地面を叩く。
トン、トン。
少しの間。
トン、トン。
ゾーイは微笑んだ。
「じゃあね」
*
数分後。
ゾーイは何度も足を止めていた。
背後から、かすかな草音がついてくる。
振り返る。
数十メートル先。
あの生き物が立ち止まっていた。
ゾーイが進む。
向こうも進む。
ゾーイが止まる。
向こうも止まる。
「……ついてきてる?」
生き物は動かない。
「あのね、調査施設には勝手に入れないんだよ?」
トン、トン。
「それ、返事のつもり?」
*
夕方。
野生調査施設のエントランス。
ゾーイは先輩職員と押し問答をしていた。
「だから、捕獲したわけじゃないんです!」
「じゃあ、なんで玄関の外にいるんだよ」
ゾーイが振り返る。
三メートルほど先。
敷地の境界付近に、生き物がぽつんと丸くなっていた。
「勝手についてきたんです!」
「それを連れてきたって言うんだよ」
「違います! 自発的な同行です!」
「屁理屈こねるな!」
ゾーイは生き物へ向き直った。
「ねえ、あなたから説明して!」
生き物は動かない。
先輩職員が呆れたように言った。
「ほら見ろ。黙秘権を行使してるぞ」
*
その頃。
アルマの環境観測部門。
ケイトの端末に、野外調査チームから報告書が届いた。
『未確認生命体の自発的接近例』
本来なら翌日処理する予定のデータだった。
ケイトは軽い気持ちで開く。
生体反応。
周辺環境。
観測地点。
目立った異常はない。
閉じようとして――。
指が止まった。
添付されていた時刻補正履歴。
その地域の観測設備にも、小さな補正が記録されていた。
『+41 ns』
ケイトは背もたれから身体を起こした。
ゾーイが生き物を観察していた時間帯。
そこにも、時計の変動があった。
もちろん、数字が同じだからといって、原因まで同じとは限らない。
だが、ケイトは報告書を閉じなかった。
*
セレスティア。
通知音が鳴る。
エリックが画面を見る。
ケイトからだった。
《エリック》
《何?》
《カーター博士、まだいる?》
エリックは振り返った。
星図の前で腕を組んでいるヘレン。
《いる》
《これ見せて》
データが届いた。
エリックには内容がよく分からない。
そのままヘレンとサイモンへ回す。
ヘレンが画面を見た。
サイモンが時刻ログを開く。
「……アルマの野生調査区域です」
補正記録。
観測時刻。
測定機器。
「四十一ナノ秒」
ダニエルが身を乗り出した。
「こっちでも出てた数字じゃないか!」
サイモンはセレスティアの記録を並べた。
『+41 ns』
同じ数字。
だが、異なる惑星。
異なる時計。
異なる観測環境。
サイモンは慎重に口を開いた。
「数値の一致だけなら偶然もあり得ます。ただ、この地域の変動も、アルマの他の観測点と比較する必要があります」
ヘレンは報告書を見つめていた。
「……この生物は?」
エリックが聞く。
「何か関係あるんですか?」
「分からないわ」
ヘレンは答えた。
「でも、この観測地点で何が起きていたのか、詳しく知りたい」
画面には、小さな生き物の観測記録が残されていた。
*
アルマ。
夜の冷気が調査施設を包み始めていた。
ゾーイはエントランス近くの廊下に座っていた。
数メートル先。
施設の明かりが届くか届かないかの場所に、あの生き物がいる。
「……そこ、寒くない?」
返事はない。
ゾーイは床を指先で叩いた。
トン、トン。
数秒。
暗がりから音が返る。
トン、トン。
その頃。
施設の標準時計には、新たな微小補正が記録されていた。
表示は変わらない。
音も鳴らない。
誰も気づかない。
ゾーイも時計を見なかった。
彼女が見つめていたのは、暗がりにいる小さな命だけだった。
生き物は、先ほどまで固く縮めていた身体を、ほんの少し緩めた。
ゾーイは笑った。
「……少し、慣れてくれた?」
トン。
小さな音が返った。
(第八章 了)




