第七章 三十一ナノ秒
サイモン・グラントは、数字の辻褄が合わないことを何よりも嫌う。
それは性格というより、彼にとっての職業倫理そのものだった。
惑星標準時。
交通管制、通信網、発電プラント、観測衛星、金融決済、医療ネットワーク。
セレスティアの社会基盤は、正確な時刻と、管理された同期誤差の上に成り立っている。
すべての時計が完全に同じ時を刻むわけではない。
だからこそ、誤差を測り、補正し、記録する。
三十一ナノ秒。
それ自体は、通常の運用で問題になるような大きさではなかった。
だが――。
理由の分からない三十一ナノ秒は、話が別だった。
*
朝。
惑星標準時管理室。
サイモンは勤務開始時刻より早く、自分のデスクに座っていた。
三台のモニター。
壁面に並ぶ六つの標準時表示。
人間の目には、すべてが同じ時刻を刻んでいるように見える。
主基準クロック、正常。
副基準、正常。
軌道同期モジュール、正常。
独立地上基準局、正常。
「……なのに」
画面の隅。
補正履歴。
『+37 ns』
サイモンは人差し指で机を二度叩いた。
隣の職員が振り返る。
「何かありました?」
「……いや」
短く答える。
だが、画面は閉じなかった。
異常警報は一つも出ていない。
それが、かえって気に入らなかった。
*
セレスティア。
惑星間通信観測局。
エリックは自席で遅い朝食を取っていた。
プラスチック容器の中には、温めた豆の煮込み。
横を通り過ぎたダニエルが、二歩戻ってきた。
「……復活した」
「何が」
「豆」
「昨日買ってきた」
「よかったな」
「うん」
ダニエルは容器を見る。
「それ、朝飯?」
「そうだけど」
「家で食ってこいよ」
「時間がなかった」
ダニエルの視線が奥の保守区画へ移る。
古い通信機。
エリックも無意識にそちらを見た。
「なるほどね」
「何が」
「早起きするようになった代わりに、朝飯を職場で食うようになったわけだ」
「関係ない」
ピピッ。
エリックはスプーンを置いた。
立ち上がる。
通信機へ向かう。
「大ありじゃねえか!」
*
《おはよう》
《おはよう》
《豆?》
エリックは思わず朝食の容器を見た。
《なんで分かる》
《昨日買ってくるって言ってたでしょ》
《覚えてたんだ》
《私、人の話はちゃんと聞くタイプだから》
少し考える。
《ダニエルとは大違いだな》
「……また俺の悪口か?」
背後から声がした。
「なんで分かる」
「お前、俺の方を見ながら打つときだけ顔が違うんだよ!」
*
アルマ。
ケイトは黄色い包装のパンを片手に、オフィス街の通路を歩いていた。
もう片方の手には個人端末。
視線は画面に向いている。
ガタガタガタ――。
大型搬送カートが近づいてきた。
ケイトは気づかない。
「危ない!」
ミアが服の袖を引っ張った。
カートがすぐ横を通り過ぎる。
「前見なさいよ!」
「あ……ありがと」
「何見てたの?」
「仕事」
「エリックでしょ」
ケイトの足が止まった。
「……なんで名前知ってるの?」
「昨日あんたが言ったの!」
「言ったっけ?」
「重症ね」
ケイトは端末をポケットにしまい、パンを一口かじった。
「違うから」
「何が?」
「……知らない」
ミアは呆れたように笑った。
環境観測部門。
ケイトは本業の解析に戻っていた。
大気組成。
地表温度。
生態圏の長期変動。
複数の観測地点から送られてくるデータを重ね合わせ、不自然な波形を拡大する。
「……あれ?」
観測点32。
湿度データが周期的に乱れている。
ケイトは周辺の風向記録を呼び出した。
さらに設置図面。
しばらくして、指が止まる。
「……ああ、そういうこと」
ミアが覗き込んだ。
「何か分かった?」
「センサーは正常。設置場所が悪い」
「場所?」
「風向きが変わると、遮蔽壁の裏側に湿気が溜まるの。センサーはそれを正しく測ってるだけ」
「じゃあ、故障じゃないのね」
「うん。測定値も嘘じゃない。ただ、私たちが知りたかった場所の湿度とは違う」
ケイトは修正レポートを送った。
そして、ふと手を止める。
機械は正常。
測定も正しい。
間違っていたのは、測定結果の解釈。
昨日、ヘレンが言っていたことを思い出した。
――私たちが信じてきた、この宇宙の距離そのもの。
「……まさかね」
「何?」
「ううん。何でもない」
*
セレスティア。
サイモンが保守区画へ現れた。
昨日と同じ工具ケース。
そして、二台の独立した精密時計。
ダニエルが目を丸くする。
「……増えてる」
「何がです?」
「時計」
「必要なので」
サイモンは一台を中央デスクへ、もう一台をUNIT-2の近くへ置いた。
設置位置を測る。
温度を確認する。
振動の影響を調べる。
エリックが呟いた。
「……神経質すぎないか?」
サイモンの手が止まった。
「仕事です」
「俺も昨日それ言ったな」
ダニエルが横から口を挟む。
「嘘だったけどな。進捗三割だったし」
「四割だ」
少し遅れてヘレンが入ってきた。
紙カップのコーヒーを持っている。
一口飲む。
止まる。
カップを見る。
もう一口。
「……昨日より酷いわね」
ダニエルが笑う。
「同じ自動販売機ですよ」
「昨日より不快だわ」
「気のせいじゃないですか?」
ヘレンが睨んだ。
「物理学者に向かって、観測結果を否定する気?」
「コーヒーの話ですよね!?」
ヘレンはカップを机の端へ置いた。
二度と口をつけなかった。
*
「始めましょう」
サイモンが時計群の測定を開始した。
ヘレンはログ収集を設定する。
ダニエルはUNIT-2の通電状態を確認した。
エリックはケイトへ打った。
《今からまた実験する》
《また? 今日は何?》
周囲を見る。
時計。
時計。
また時計。
《時計がいっぱいある》
《雑な説明ね》
《サイモンって人が並べた》
《誰それ?》
《時計の人》
隣から声がした。
「時刻システム上席技術者です」
エリックが振り返る。
「見てたの?」
「視界に入りました」
《時刻システム技術者だって》
《怒られた?》
《ちょっとだけ》
*
第一段階。
通信なし。
一時間。
時計の変動は通常の範囲内。
第二段階。
UNIT-3へのダミー送信。
応答なし。
時計にも目立った変化はない。
第三段階。
UNIT-2を使ったケイトとの通信。
《開始》
《了解》
サイモンは時計の波形を見つめていた。
三十秒。
一分。
二分。
「……変化なし」
ダニエルが肩をすくめる。
「外れか?」
「続けて」
ヘレンが言った。
エリックは適当な話題を送る。
《今日何食べた?》
《黄色》
《味は?》
《だから黄色》
エリックが笑った。
「また黄色だって」
「何の話だよ」
「パン」
「黄色いパン?」
「包装が黄色い」
ヘレンが振り返る。
「エリック。実験中よ」
「通信を続けろって言ったの博士でしょ」
「試験用のデータを送って頂戴」
「雑談じゃ駄目なんですか?」
「駄目とは言わないけれど、記録しにくいでしょう」
そのとき。
「……待ってください」
サイモンだった。
全員が動きを止める。
サイモンは一台目の時計を見る。
二台目。
そして惑星標準時の補正履歴。
「……来ました」
画面には、新たな補正記録が残っていた。
『+37 ns』
ヘレンが近づく。
「通信開始から?」
「二分十四秒」
「独立時計は?」
「同じ時間帯に、同じ方向への偏りがあります。ただし補正量は一致していません」
「保存して」
「もうしています」
ヘレンがエリックを見る。
「アルマ側も確認して」
《時計のログ見て》
《今仕事中なんだけど》
《博士が怒ってる》
二秒。
《すぐ見る》
*
アルマ。
ケイトは環境データの画面を最小化した。
時刻補正履歴を開く。
ミアが隣から覗き込む。
「またそれ?」
「また」
補正記録。
発生時刻。
変動量。
ケイトは関連する履歴をまとめて転送した。
*
セレスティア。
サイモンが受信したデータを取り込む。
それぞれの惑星で使われている時刻基準の違いを考慮し、記録の対応関係を調べる。
UNIT-2の通信ログ。
セレスティアの時計。
アルマの時計。
三つの記録を並べた。
「……近い」
エリックが覗き込む。
「一致してる?」
「完全には一致していません」
サイモンは波形を拡大した。
「ただ、補正が生じた順序と変動の方向が似ています」
ヘレンが尋ねる。
「偶然では?」
「まだ否定できません」
「なら次」
ヘレンはUNIT-2を指した。
「通信を止めましょう」
*
通信停止。
十分。
二十分。
三十分。
新たな大きな補正は記録されなかった。
四十分。
サイモンは時計を見つめたまま言った。
「この間は安定しています」
「再開」
ヘレンの指示。
エリックがキーを叩く。
《戻った》
《おかえり》
その直後。
サイモンが顔を上げた。
「……またです」
時計の波形がわずかに動いた。
ヘレンが画面を見る。
「通信再開のあと?」
「ええ。少し遅れて」
ダニエルが顔をしかめた。
「じゃあUNIT-2が時計を狂わせてるんじゃ?」
「そう見えるわね」
「原因はこの機械で決まりでしょう!」
「まだよ」
サイモンがヘレンを見る。
「ここまで再現しているのに?」
「再現しているのは、通信と時計の変動が近い時間に起きるということ」
ヘレンは続けた。
「通信が時計を狂わせたのか、別の何かが両方を変化させたのか。それはまだ分からない」
サイモンは黙った。
「……では?」
「もっと長く止める」
ヘレンはエリックを見た。
「明日の朝まで、通信を休止して」
エリックの顔がわずかに曇った。
「……明日まで?」
「ええ」
*
《今日はここまでだって》
《長い実験なの?》
《明日まで通信しない》
少し間が空く。
《了解。ちゃんと仕事しなよ》
《してる》
《進捗四割?》
エリックは思わずダニエルを見る。
「……お前、ケイトに何か言った?」
「話せるわけないだろ!」
《誰に聞いた》
《直感》
エリックは苦笑した。
《じゃあ、また明日》
《うん。また明日》
通信を休止した。
*
エリックは本来のデスクへ戻った。
観測ログの整理。
定期点検。
パーツ在庫の更新。
放置していた作業を順番に片づけていく。
一時間。
二時間。
仕事は思った以上に進んだ。
けれど、一区切りつくたびに保守区画へ目が向いてしまう。
UNIT-2の画面は暗いままだった。
*
夕方。
サイモンは時計の監視を続けていた。
ヘレンは研究論文を読んでいる。
ダニエルは交換部品のカートを押して廊下を行き来していた。
いつもの観測局に近い風景だった。
そのとき。
「……博士」
サイモンの声がした。
ヘレンが顔を上げる。
「何?」
「補正が入りました」
ヘレンが立つ。
「通信は?」
「停止したままです」
ダニエルがUNIT-2を確認する。
「送受信ログ、ゼロ。休止状態です」
サイモンが表示を拡大した。
『+41 ns』
誰も喋らなかった。
ヘレンは画面を見つめる。
「……通信していないのに」
「ええ」
サイモンが頷く。
「補正が発生しました」
ダニエルが聞く。
「じゃあ……UNIT-2は関係ない?」
「関係がないとは言えないわ」
ヘレンは首を振った。
「ただ、少なくとも『通信するたびに時計が狂う』という単純な説明では足りない」
エリックが尋ねた。
「じゃあ、何が起きてるんですか?」
ヘレンは星図を開いた。
セレスティア。
アルマ。
四十七・二光年。
「通信が成立したこと」
セレスティアの時計記録を表示する。
「そして、時刻補正に説明のつかない変動が生じていること」
二つの画面を並べた。
「この二つが、別の現象の結果だとしたら?」
ダニエルが眉をひそめる。
「別の現象?」
「私たちは今、同じ何かを、違う方法で観測しているのかもしれない」
「その何かって?」
「……まだ分からない」
*
その夜。
エリックは自室にいた。
洗濯機がゴトゴトと音を立てている。
今日は忘れずに回した。
温めた豆の煮込みを机へ置く。
個人端末を開いた。
いつもの通信ウィンドウはない。
UNIT-2を使っていないのだから、当然だった。
エリックは端末を閉じた。
豆を食べる。
数分後。
また端末を開く。
何もない。
「……何やってんだ、俺」
小さく笑った。
明日になれば、また話せる。
たった一日だ。
それなのに。
エリックは洗濯機の終了音を待ちながら、もう一度時計を見た。
*
アルマ。
ケイトも自宅のソファにいた。
キッチンから保存食のパンを持ってくる。
黄色。
青。
緑。
三つの包装を並べ、少し迷った。
黄色を選ぶ。
封を開ける。
一口。
端末を見る。
もちろん、何も届いていない。
そもそも、エリックの通信は自分の部屋の端末へ直接届くわけではない。
それでも、何となく画面を開いてしまう。
「……暇だな」
静かな部屋に、自分の声だけが響いた。
*
翌朝。
セレスティア。
エリックが出社すると、サイモンはすでに保守区画にいた。
昨日と同じ服装。
「帰ってないのか?」
「帰りましたよ」
「寝た?」
「三時間ほど」
「それを帰ったって言うのか?」
サイモンは答えず、画面を指した。
夜間の補正履歴。
通信が止まっていた時間帯にも、いくつかの小さな変動が記録されている。
ヘレンが奥から戻ってきた。
資料を机に置く。
「セレスティアの別地域からもデータが来たわ」
独立した観測施設。
地上基準局。
軌道上の時刻系統。
「すべてではないけれど、複数の場所で似た傾向が見られる」
サイモンが補足する。
「通常の誤差要因を除外する作業はまだ必要です。ただ、局内だけの問題ではなさそうです」
エリックが尋ねた。
「……アルマは?」
「確認しましょう」
ヘレンが答えた。
*
UNIT-2を再起動する。
エリックは迷わず打った。
《いる?》
二秒。
《いる》
続けて届く。
《遅い》
エリックの口元が緩んだ。
《時計調べてほしい》
《おはようくらい言いなさいよ》
《おはよう》
《おはよう。今見る》
*
アルマ。
ケイトはパンを机へ置いた。
時刻補正履歴を開く。
通信を止めていた夜間のデータ。
そこにも、微小な補正が残っていた。
ケイトは発生時刻と補正量をまとめ、エリックへ送信する。
今度は、冗談を添えなかった。
*
セレスティア。
サイモンは受け取ったデータを、自局の記録と照合した。
時刻系統は異なる。
測定環境も違う。
そのため、数字がそのまま一致するわけではない。
だが――。
「……似ています」
ダニエルが覗き込む。
「どこが?」
「補正が発生する間隔と、変動の傾向です」
サイモンは画面を拡大する。
「偶然の可能性は残ります。でも、二つの惑星で通信を止めていた間にも、関連を疑うだけの変化が続いています」
ヘレンは腕を組んだ。
「まだ二地点だけね」
「ええ」
「なら、もっと見る必要がある」
星図を広域表示へ切り替える。
セレスティア。
アルマ。
二つの光点が小さくなる。
その周囲に、無数の恒星系が現れた。
ダニエルが聞く。
「……どこまで調べるんです?」
ヘレンは星図を見つめた。
「観測できる範囲を、可能な限り広く」
サイモンが頷く。
「まずは比較可能な時刻記録を持つ観測施設からですね」
「そう。記録のある場所から順番に」
ヘレンは二つの惑星を見た。
「この現象が、二つの星だけで起きているとは限らない」
*
エリックはケイトへ打った。
《なんか大事になってきた》
《何が?》
《博士たちが他の星まで調べるって》
《相変わらずスケールが大きいね》
《まあな》
少し間が空いた。
《今日、いる?》
エリックはすぐに返した。
《いる》
《私もいる》
同じ頃。
惑星アルマ。
都市部から遠く離れた野生調査区域。
ゾーイ・ベネットは、岩陰にしゃがみ込んでいた。
二十四歳。
惑星生態調査員。
彼女の目の前には、見慣れない生き物がいた。
小型犬ほどの大きさ。
毛皮はない。
灰色がかった柔らかな皮膚には、不規則なしわが幾重にも重なっている。
頭と胴体の境目は曖昧で、顔と呼べるものも見当たらない。
既知の動物のどれにも似ていなかった。
その生き物は、岩の割れ目の奥でじっとしていた。
時折、全身を小さく震わせる。
ゾーイは手元の測定器を見た。
気温、正常。
大気組成、正常。
地表微振動、異常なし。
数値の上では、何も起きていない。
けれど、目の前の生き物は明らかに落ち着きを失っていた。
「……怖いの?」
返事はない。
ゾーイは近づかなかった。
刺激しないよう、ゆっくり測定器を地面へ置く。
そして、手袋をはめた指で岩を軽く叩いた。
トン、トン。
乾いた音が響く。
生き物は動かない。
風が低い草を揺らした。
ゾーイは少し待った。
もう一度。
トン、トン。
数秒。
岩の奥から、小さな音が返ってきた。
トン、トン。
ゾーイの目が大きくなった。
彼女は、息を止めた。
もう一度叩こうとして――手を止める。
生き物が、こちらを向いたような気がした。
顔など、どこにもないのに。
ゾーイは小さく笑った。
「……聞こえてるんだ」
岩の奥で、また小さな音がした。
トン。
(第七章 了)




