第六章 距離がない
三十一ナノ秒。
エリックは、画面の隅にぽつんと浮かんだその数字をしばらく見つめていた。
「……これ、大きいの?」
ヘレン・カーターは画面に顔を近づけたまま、目を離そうとしない。
「数字としては、極めて小さいわ」
「じゃあ問題ないってこと?」
「そういう意味ではないの」
隣ではダニエルが、エリックの上着を顔に乗せたまま高いイビキをかいていた。
ヘレンはログを一つ前まで戻す。
正常。
さらに前。
正常。
そして――ケイトとの通信が行われた、その瞬間。
『+31 ns』
「ただの測定誤差じゃ?」
「もちろん、その可能性はある」
「じゃあ――」
「だから確認するのよ」
ヘレンが勢いよく椅子を引いた。
脚が床を擦る。
「はいっ!?」
ダニエルが飛び起きた。
顔に乗っていた上着が床へ落ちる。
「……何? 攻撃!?」
「寝てたな」
「寝てない!」
「豪快に寝ていたわよ」
「……すみません」
三十分後。
ダニエルは冷たい水で顔を洗い、髪まで濡らして戻ってきた。
その間、ヘレンは観測局の時刻同期記録を調べていた。
だが、途中で手を止める。
「駄目ね」
「何がです?」
「専門外よ」
エリックが意外そうに見る。
「博士でも?」
「当たり前でしょう。理論物理学者は時計の保守技術者じゃないわ」
ヘレンは画面に並んだ大量の同期ログを見る。
「この施設の標準時計を管理しているのは誰?」
「時刻システム部門です」
「担当者は?」
「サイモン……だっけ?」
エリックが答えた。
「サイモン・グラント。前にここの精密時計の交換で来た」
ダニエルが驚く。
「お前、人の名前覚えるんだな」
「お前よりは」
「俺の名前は?」
「ダニエル」
「よかった」
ヘレンが二人を見る。
「今すぐ呼んで」
*
朝。
アルマ。
ケイトは毛布にくるまって眠っていた。
枕元の端末が鳴る。
片目だけ開く。
《起きてる?》
エリックだった。
ケイトは目を閉じた。
五秒。
もう一度開く。
《今起きた》
《ごめん》
《今何時だと思ってるの?》
《そっちのローカル時間まだよく分からない》
ケイトは壁の時計を見る。
《朝。思いっきり早朝》
《こっちも朝》
ケイトの指が止まる。
《……寝てないの?》
少し間。
《ちょっとだけ》
《寝なよ》
《博士が寝てくれない》
《エリックは博士じゃないでしょ》
返事がない。
代わりに別の文章が届いた。
《時計の補正履歴って確認できる?》
《今?》
《できれば》
ケイトは天井を見る。
毛布を見る。
端末を見る。
「……もうっ」
毛布を跳ね上げた。
*
三十分後。
ケイトはキッチンにいた。
寝起きの髪を適当にまとめ、冷たい水を飲みながら端末を操作する。
個人端末の時計。
住宅設備の同期記録。
惑星標準時から配信される補正情報。
見たところ、異常はない。
だが、言われた通り自動補正履歴を開く。
「……ん?」
小さな補正記録が一つ残っていた。
普段なら誰も気にしない。
システム自身が吸収して終わる程度の値。
ケイトはそれを確認した。
《こっちにも変なのある》
《どれくらい?》
数値を送る。
少し待つ。
《博士が黙った》
ケイトは水を飲んだ。
《それ、一番怖いやつじゃない?》
《たぶん》
*
セレスティア。
サイモン・グラントは、呼び出しから十分ほどで姿を現した。
三十九歳。
片手にシステム端末。
もう片方には使い込まれた工具ケース。
保守区画へ入る。
まず壁の時計を見る。
次に自分の端末。
最後に室内時計。
「どの時計です?」
ヘレンが答えた。
「全部」
サイモンの動きが止まる。
「……全部?」
「極微小な時刻補正を調べたいの」
「警報は?」
「出ていない」
「どの程度です?」
「三十一ナノ秒」
サイモンの表情が変わった。
「三十一?」
「そう」
「どのクロックで?」
「だから、あなたを呼んだのよ」
サイモンは工具ケースを置いた。
先ほどまでの眠そうなダニエルとは対照的に、一瞬で仕事の顔になる。
「分かりました。まず基準系から見ます」
*
そこからは、サイモンの領域だった。
惑星標準時。
観測局標準時計。
予備クロック。
独立発振器。
外部同期記録。
補正履歴。
エリックには数字の海にしか見えない。
ヘレンも余計な口を挟まなかった。
数分。
サイモンの指が止まる。
「……何だ、これ」
ヘレンが近づく。
「見つけた?」
「待ってください」
さらに過去へ遡る。
別の時計と比較。
もう一度。
「補正が入ってる」
「値は?」
表示を拡大する。
『+31 ns』
エリックとダニエルが同時に身を乗り出した。
サイモンが二人を見る。
「……この数字、知ってますね?」
ヘレンが答える。
「UNIT-2にも、同じ時間帯に同程度の値が記録されている」
「UNIT-2?」
初めて古い筐体を見る。
「これですか?」
「ええ」
サイモンが接続系統を確認する。
「でも、こいつは標準時計の同期系統に直接ぶら下がってない」
「確認済みよ」
「だったら、まず疑うべきは偶然です」
ヘレンがわずかに笑った。
「その答えを待っていたわ」
「え?」
「あなたまでいきなり宇宙の異変だと言い出したら、帰ってもらうところだった」
ダニエルが小声で言う。
「試験だったのかよ……」
ヘレンは続けた。
「ではもう一つ。アルマ側にも、同じ時間帯に微小な補正記録がある」
「アルマ?」
「惑星よ」
エリックが言った。
「ここから47.2光年」
サイモンの手が止まった。
「……もう一度お願いします」
「47.2光年」
*
数分後。
サイモンは通信ログを見ていた。
星図。
観測データ。
タイムスタンプ。
そしてUNIT-2。
「……手の込んだ冗談ですか?」
「俺も最初そう思った」
「今、この瞬間も通信できる?」
「ああ」
エリックが打つ。
《いる?》
二秒。
《いる。》
サイモンは時刻を見る。
送信。
受信。
返信。
自分が管理する基準時計。
もう一度確認する。
「……嫌ですね」
「何が?」
「綺麗すぎる」
ダニエルが首を傾げる。
「一致してるから?」
「そうじゃない」
サイモンはログを指す。
「独立しているはずの時計が、ほぼ同じ時間帯に同方向の補正を受けている」
「31ナノ秒」
「数字そのものより、相関している可能性があることが問題です」
ヘレンが小さく頷いた。
エリックには、その瞬間だけ二人が同じ言語を話しているように見えた。
「通信を止めましょう」
サイモンが言った。
エリックが振り返る。
「止める?」
「一度だけでは因果関係なんて分かりません。でも、まず比較対象が必要です」
ヘレンが頷く。
「どのくらい?」
「一時間。通信中と非通信中で時計の挙動を比較します」
*
《一時間も?》
《うん》
《また実験?》
《今度は時計》
《昨日は紙を折って、今日は時計。明日は何?》
エリックはヘレンを見る。
《さあな》
《分かった。一時間後ね》
《ああ》
《ちゃんと横になって寝なよ》
《努力する》
《信用できない》
《ダニエルよりはマシだろ》
《比較対象が低すぎるのよ》
「おい」
横からダニエル。
「絶対いま俺の悪口だろ」
エリックは画面を伏せた。
「仕事しろ」
「やっぱり俺だ!」
*
通信を止めた。
一時間。
サイモンはクロックを監視する。
ヘレンは過去ログを調べる。
ダニエルはUNIT-2の電圧変動を記録する。
エリックには、ほとんどすることがなかった。
座る。
立つ。
水を飲む。
戻る。
時計を見る。
十分。
また見る。
二十二分。
また。
三十一分。
「落ち着けって」
「落ち着いてる」
「あと半分あるぞ」
「分かってる」
サイモンが画面を見たまま言った。
「今のところ時計は非常に安定しています」
エリックが顔をしかめる。
「今それ言われると、時計そのものが怖くなるな」
*
一時間。
目立った異常はない。
サイモンが記録を区切った。
「この一時間では、有意な補正は確認できません」
ヘレンが言う。
「再開」
エリックは誰より早く椅子を引き寄せた。
「早っ」
ダニエルを無視する。
《いる?》
数秒。
《いる》
続けて届く。
《一時間三分遅れ》
《細かいな》
《待ってたんだから当然でしょ》
エリックの指が止まった。
ダニエルが覗こうとする。
顔を押し返す。
「見るな」
「はいはい」
そのとき。
「……待って」
サイモンだった。
全員が振り返る。
補正グラフが、小さく跳ねていた。
新しい値。
『+34 ns』
サイモンはすぐには何も言わなかった。
別のクロックを見る。
比較する。
時刻を確認する。
「……補正が入った」
ヘレンが立つ。
「通信再開と?」
「近い。ただし――」
サイモンはヘレンを見る。
「これだけで通信が原因とは言えません」
「もちろん」
「もう何回か必要です」
ダニエルが画面を見る。
「でも31の次が34って……増えてる?」
「そう見えるだけかもしれません」
サイモンは厳しい顔のまま答えた。
「そこに意味があると決めつけるのが一番危険です」
*
ヘレンは七年前の研究アーカイブを開いた。
『量子同期通信実験計画』
UNIT-1。
UNIT-2。
UNIT-3。
結果――失敗。
自身の研究者認証を通す。
詳細記録が開いた。
ダニエルが目を丸くする。
「閲覧権限持ってたんですか?」
「当時、基礎理論の外部検証に関わっていたの」
「じゃあUNIT-2のこと知ってたんですか?」
「存在はね。開発そのものを担当したわけではない」
エリックが画面を見る。
「失敗って書いてありますよ」
「ええ」
ヘレンの指が止まる。
「でも――ここ」
最終試験記録。
『UNIT-2:試験終了直前、原因不明の位相偏差を一時検出。再現せず。個体誤差として処理』
ヘレンの目が細くなる。
「……これね」
「何が?」
「七年前にも、UNIT-2だけがおかしな値を出してる」
サイモンがデータを受け取る。
「現在の31ナノ秒と直接比較できる種類の値ではありません」
ダニエルが聞く。
「違うの?」
「違います。位相偏差と時刻補正値をそのまま同じ数字として並べるのは危険です」
ヘレンが頷く。
「でも、調べる価値はある」
「それには同意します」
*
ダニエルが画面をスクロールしていて、突然止まった。
「……三号機」
「何?」
「三台作られてる」
管理記録を検索する。
『UNIT-1:試験中破損――廃棄』
『UNIT-2:保守区画――現存』
『UNIT-3:長期保管――』
「……まだある」
「どこ?」
さらに開く。
ダニエルが顔を上げた。
「この建物の地下」
エリックが立った。
「取ってくる」
「待ちなさい」
ヘレンが止める。
「まずUNIT-2の現在状態を全部保存して」
「なんで?」
「三号機を起動した瞬間、何かが変わったら困るからよ」
サイモンも頷く。
「賛成です。クロックも今の状態を固定します」
*
地下二階。
旧保管庫。
薄暗い棚の間を、エリックとダニエルが台車を押して進む。
「七一四……七一五……」
「あった」
棚の奥。
古いコンテナの下に灰色の筐体が眠っていた。
二人で荷物を動かす。
埃が舞う。
「ゲホッ……!」
「七年分だな」
「吸わせるなよ」
側面のラベル。
『UNIT-3』
ダニエルが筐体を叩く。
「こいつだ」
二台が並んだ。
UNIT-2。
UNIT-3。
外観はほとんど同じだった。
ダニエルが三号機を点検する。
「電源系正常。内部診断……通った」
サイモンが時計を見る。
「クロック変動なし」
ヘレンが言う。
「起動して」
UNIT-3が立ち上がる。
エリックが座る。
少し考えた。
そして打った。
《誰かいますか?》
十秒。
三十秒。
一分。
何もない。
エリックは隣のUNIT-2へ移る。
同じ文章。
《誰かいますか?》
二秒。
《いるけど。》
エリックの口元が緩む。
《今、実験中》
《また?》
《同じ型の別の機械を見つけた》
《なにそれ、浮気?》
指が止まった。
「ぶはっ!」
ダニエルが吹き出す。
「浮気は良くないな」
ダニエルはニヤつきながら
「見るな」
「浮気はよくないないな!」
*
UNIT-3の条件を変えた。
設定を合わせる。
内部状態を比較する。
同じ手順を再現する。
それでも返事はない。
UNIT-2だけが繋がる。
サイモンが言った。
「三号機の起動そのものでは、基準時計に目立った変化はありません」
ダニエルは二台を見比べた。
「ほとんど同じ機械なのに……」
ヘレンが訂正する。
「だからこそ重要なのよ」
「え?」
「UNIT-2が超光速通信装置なのだとしたら、同じ設計のUNIT-3でも同じ現象が起きる可能性が高い」
UNIT-3を見る。
「でも起きない」
次にUNIT-2。
「なら、この装置そのものが『四十七・二光年を越える能力』を持っているという考え方を、疑う必要がある」
サイモンが聞く。
「では、何が違うんです?」
「それが分からない」
ヘレンは星図を開いた。
セレスティア。
アルマ。
四十七・二光年。
「装置が道を作ったのではないとしたら――」
ヘレンの指が二つの地点の間で止まる。
「道は、最初からそこにあったのかもしれない」
「UNIT-2は?」
「道を作ったんじゃない」
古い筐体へ手を置く。
「たまたま、そこにあったものに触れた」
*
エリックはケイトに打った。
《博士がまた変なこと言ってる》
《いつも変なこと言ってるんじゃないの?》
「丸見えよ、エリック」
エリックの指が止まった。
ダニエルが顔を背けて笑っている。
《なんて言ってるの?》
少し考える。
《47.2光年離れてるけど、この通信にとっては距離そのものが存在しないのかもしれないって》
返事が来ない。
『入力中……』
消える。
また出る。
やがて。
《……じゃあ、私たちって、本当は遠いの?》
エリックは画面を見つめた。
47.2光年。
一生どころか、人間一人の時間ではどうにもならない距離。
それなのに、ケイトの返事を待つ時間は数秒しかない。
《分からない》
少しして。
《変なの》
《うん。変だな》
*
「……博士」
サイモンの声だった。
全員が振り返る。
「またです」
補正ログ。
新しい値が残っている。
『+37 ns』
ヘレンが近づく。
「時刻は?」
「UNIT-2の通信が行われた時間帯と重なっています」
「三号機は?」
「変化なし」
サイモンはすぐに別の画面を開いた。
「待ってください」
観測局だけではない。
外部の独立基準局を照会する。
一つ。
二つ。
三つ。
サイモンの表情が変わった。
「……おかしい」
「何が?」
「局内だけじゃない」
さらに範囲を広げる。
セレスティア各地の基準局。
完全に同じ値ではない。
発生時刻にも、ごく小さなばらつきがある。
しかし――。
複数の独立した時計で、通常の揺らぎでは説明しにくい補正が、同じ時間帯に集中している。
ヘレンが画面を見る。
「相関は?」
「まだ計算中です」
「偶然の可能性は?」
「あります」
サイモンは答えた。
そして数秒後。
「……でも、嫌な並び方です」
エリックが聞く。
「UNIT-2のせい?」
「分かりません」
サイモンは首を横に振った。
「むしろ、逆かもしれない」
「逆?」
サイモン自身も、その言葉の意味を考えているようだった。
「UNIT-2が時計を狂わせているんじゃなくて――」
画面に並ぶ無数のクロックを見る。
「もっと大きな何かが時計に影響していて、UNIT-2もそれに反応しているだけなのかもしれない」
ヘレンがゆっくり顔を上げた。
セレスティア。
アルマ。
四十七・二光年。
二つの惑星を隔てる巨大な空間。
ヘレンはしばらく何も言わなかった。
そして、小さく呟いた。
「……そうだとしたら」
エリックが見る。
「何です?」
ヘレンは答えなかった。
画面の中では、誰にも感じ取ることのできない時間の揺らぎが、静かに記録され続けていた。
問題はもう、古い通信機一台の中だけには収まっていなかった。
(第六章 了)




