第五章 越えていない
「距離の方……?」
エリックは思わず聞き返した。
ヘレン・カーターは答えず、机の上に置かれていた保守記録の裏紙を一枚手に取った。
ポケットからペンを取り出し、紙の左端に『A』、右端に『B』と書く。
横から覗き込んだダニエルが低く囁いた。
「始まったぞ、説明が」
「聞こえてるわよ」
「はい」
ヘレンは『A』を指した。
「ここがセレスティア」
次に『B』。
「ここがアルマ」
「47.2光年ですね」
「通常の空間ではね」
エリックが眉をひそめた。
「通常じゃない空間があるんですか?」
ヘレンは老眼鏡の奥からエリックを見た。
「私はまだ何も言っていません」
「言いそうな雰囲気だったんで」
ダニエルが吹き出した。
ヘレンが見る。
「……すみません」
*
「あなたたちは、最初からこう考えていた」
ヘレンはペン先を『A』から『B』へ滑らせた。
「情報が、セレスティアからアルマまで移動した、と」
「違うんですか?」
「わからないわ」
即答だった。
「ただし、それを証明するデータは一つもない」
「でも、届いてます」
「ええ」
「だったら移動したんじゃ?」
「そこが思い込みなのよ」
ヘレンは紙を持ち上げた。
「私たちは『Aで送った情報がBに現れた』ことを確認している。それは事実」
ペン先でAとBを順番に叩く。
「でも、その情報がこの四十七・二光年を通過したところは、誰も観測していない」
エリックは紙を見つめた。
「……途中がない?」
「そう」
ヘレンは紙の両端を持ち、ゆっくり折り曲げた。
AとBが近づく。
「この紙の表面だけを進むなら、AとBには距離がある」
さらに折る。
二つの文字が重なる。
「でも、別の方向から見れば?」
「……近い」
「概念上はね」
ダニエルが腕を組んだ。
「それ、SFでよく見るワームホールの説明ですよね」
「似ているだけよ」
「じゃあUNIT-2がワームホールを?」
「飛躍しない」
「違うんだ」
「既知の時空洞を形成したと考えるだけの証拠は、今のところ何もない」
ヘレンは紙を元に戻した。
「これは説明じゃない。考え方を変えるための模型よ」
ピピッ。
UNIT-2が鳴った。
三人が同時に見る。
《私も解説聞いてるんだけど。》
ケイトだった。
エリックがキーを叩く。
《今、紙を曲げて説明されてる》
《なにそれ》
《俺にもよく分からん》
「私の説明を勝手に要約しないで頂戴」
「あ、もう送りました」
ヘレンが静かに目を閉じる。
ダニエルが小声で言った。
「……博士、顔が怖いです」
「あなたも静かに」
「はい」
*
アルマ。
ケイトは画面に流れてくるエリックの文字を眺めていた。
周囲には、いつもの日常がある。
環境データを処理する端末音。
同僚たちの会話。
遠くで動く自動販売機。
その中で、彼女の画面だけが四十七・二光年先の小さな保守区画と繋がっている。
ミアが椅子を滑らせて戻ってきた。
「なんて?」
「紙を曲げてるんだって」
「誰が?」
「向こうに来た博士」
「……あなた、本当に怪しい宗教とかに騙されてない?」
「私も今、自分の正気を疑ってるところ」
*
セレスティア。
ヘレンは通信ログを表示した。
「さて」
声が変わった。
説明する人間の声ではない。
検証する人間の声だった。
「仮説はどうでもいい。実験しましょう」
ダニエルが姿勢を正す。
「何をするんです?」
「まず、私たちが当然だと思っているものを一つずつ消す」
ヘレンはUNIT-2を指した。
「この装置が、本当に既存の通信経路を使っていないのか確認する」
*
ダニエルは筐体の背後へ潜り込んだ。
「観測局の基幹ネットワーク、切ります」
「どうぞ」
接続を一つずつ遮断する。
外部ネットワーク。
局内ネットワーク。
観測データ回線。
最後に、UNIT-2と観測局設備を結んでいた通信系統を物理的に抜いた。
アクセスランプが消える。
「これでUNIT-2は局の通信設備から完全に孤立しました」
「電源は?」
「独立電源だけ生きてます」
ヘレンがエリックを見る。
「送って」
「本当に?」
「そのために切ったのよ」
エリックは入力した。
《テスト》
送信。
一秒。
二秒。
ピピッ。
《見えてるよ》
エリックの手が止まった。
「……」
ダニエルは抜いたケーブルを見る。
UNIT-2を見る。
またケーブルを見る。
「いやいやいや」
床へしゃがみ込み、端子を確認する。
「抜けてるぞ」
「見れば分かる」
「回線ないぞ!」
「だから今、それを確認したんでしょう」
ヘレンだけが冷静だった。
「もう一度」
《数字送って》
二秒。
《72914》
ダニエルが頭を抱えた。
「何を通ってるんだよ……」
ヘレンが即座に言った。
「その聞き方をやめなさい」
「え?」
「今、あなたはまた『何かを通ってきた』と決めつけた」
ダニエルが口を閉じる。
エリックがヘレンを見る。
ヘレンはUNIT-2を見ていた。
「まだ、それすら分からないのよ」
*
アルマ。
ケイトも指示を受け、自分の端末が利用している通常の外部通信を停止させた。
「切った」
ミアが表示を確認する。
「本当に?」
「ほら」
『外部接続なし』
警告表示が出ている。
それでもUNIT-2由来の通信ウィンドウだけは消えなかった。
《こっちも切った》
《見えてる》
ミアは腕をさすった。
「……気味悪い」
「うん」
「なんでちょっと嬉しそうなのよ」
「嬉しくないよ」
「嘘」
ケイトは否定しなかった。
普通の回線がなくなっても、エリックの文字だけは消えなかった。
理由は分からない。
それでも、少し安心した。
*
「次」
ヘレンが言った。
「電源を落とす」
エリックが反応した。
「UNIT-2の?」
「そう」
「通信切れますよ」
「切れるでしょうね」
「……ですよね」
「だから切るの」
エリックはケイトへ打った。
《今度は本体の電源落とす》
《何分?》
「何分です?」
「三十秒でいい」
《三十秒》
すぐに返ってきた。
《分かった。ちゃんと戻ってきてね》
エリックの指が止まった。
横からダニエルが画面を見る。
口元がニヤつく。
エリックは無言でその脇腹へ肘を入れた。
「痛っ」
《戻る》
*
主電源を落とす。
ブウン――。
低い駆動音が消えた。
画面が暗くなる。
今度こそ、何もない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
「入れて」
電源を戻す。
起動音。
診断プログラム。
内部チェック。
画面が立ち上がる。
ピピッ。
《おかえり》
エリックは思わず笑った。
ヘレンが見る。
ダニエルも見る。
「……なんですか」
「別に」
「何も言ってないわ」
「絶対何か思ってますよね」
*
アルマ。
《ただいま》
ケイトの口元も緩んだ。
ミアが鼻を鳴らす。
「近所の挨拶じゃないんだから」
「47.2光年離れた近所だけどね」
「もう距離なんて関係ないんじゃない?」
ケイトが顔を上げた。
「何?」
「なんとなく」
ミアは自分の端末へ戻った。
ケイトだけが、その言葉をしばらく考えていた。
――距離なんて関係ない。
今までなら、ただの言葉だった。
今は少し違って聞こえた。
*
検証は続いた。
電源系統。
内部クロック。
別端末からの干渉。
周辺電磁場。
通信周波数。
何か一つくらい、普通の説明に引っかかるはずだった。
何も引っかからなかった。
夕方。
ダニエルが机へ突っ伏した。
「……腹減った」
「食堂行けば」
「おごって」
「嫌だ」
顔だけ上げてヘレンを見る。
「博士は……ご飯とか食べないタイプですか?」
「聞こえてるわよ」
「すみません」
数秒後。
ヘレンは老眼鏡を外し、目元を押さえた。
「……食事にしましょう」
「あ、食べるんだ」
「あなた、私を何だと思っているの?」
「雲の上の理論物理学者」
「ただの人間よ」
*
観測局の食堂。
ヘレンは紙カップのコーヒーを一口飲んだ。
止まった。
カップを見る。
念のため、もう一口。
「……まずいわね、これ」
「そこ、ずっとまずいんですよ」
「なぜ改善しないの?」
「壊れてないからです」
ヘレンがエリックを見る。
「これを正常と呼ぶの?」
「機械的には」
「味覚的には故障してるわ」
ダニエルが笑う。
「47光年通信より怒ってません?」
ヘレンは本気で不満そうにカップを置いた。
食事をしながら、エリックが尋ねた。
「……博士」
「何?」
「結局、どういうことなんですか」
ヘレンはパンをちぎる手を止めた。
「わからないわ」
「わからない?」
「ええ」
「そんなこと言っていいんですか。博士なのに」
ヘレンは小さく笑った。
「博士というのは、『何でも知っている人』ではないのよ」
少し考える。
「何が分かっていないのかを、他の人より少し詳しく知っている人」
ダニエルが頷いた。
「なんか名言っぽい」
「静かに食べなさい」
*
ヘレンは紙ナプキンを一枚取った。
また『A』と『B』を書く。
「確かなことだけ整理しましょう」
Aを指す。
「セレスティア」
B。
「アルマ」
「通常の時空で測れば、両者は47.2光年離れている。これは、今日までに確認した観測データから見ても、ほぼ間違いない」
「じゃあ距離は正しい」
「私たちが測っている距離としてはね」
ヘレンはナプキンを折った。
AとBが重なる。
「問題は、UNIT-2がその距離をどう扱っているのか」
エリックが重なった文字を見る。
「……同じ場所?」
「可能性の一つ」
「そんなことあり得るんですか?」
「知らない」
ダニエルが苦笑する。
「今日それ何回目です?」
「科学者が『知らない』と言わなくなったら、その人の話を疑いなさい」
ダニエルが黙った。
ヘレンは続ける。
「高次元的な空間構造なのか。私たちが知らない時空の接続なのか。あるいは、まったく別の原理なのか」
折り目を指で押さえる。
「今は名前を付ける段階ですらない」
エリックが聞いた。
「でも、もしこれが近いなら……」
Aを指す。
「俺がここ」
Bを指す。
「ケイトがここ」
そして重なった部分。
「普段は47.2光年。でも、この通信にとっては……離れてない?」
ヘレンはしばらく黙っていた。
「それを確かめる方法を、今から考えるのよ」
*
深夜。
誰も帰らなかった。
セレスティアでは、ヘレン、エリック、ダニエル。
アルマでは、ケイトとミア。
二つの惑星で、それぞれの夜が進んでいく。
四十七・二光年離れているはずの二つの場所で、一つの問題だけを見つめ続けていた。
*
《まだ起きてる?》
《起きてる》
《眠くないの?》
《眠いよ》
《寝なよ》
《そっちこそ》
《博士が帰らせてくれない》
少し間が空く。
《怖い人?》
エリックは横を見る。
大量のデータに囲まれ、眉間にしわを寄せたヘレン。
その横には、完全に冷めた食堂のコーヒー。
《食堂のコーヒーがまずくて機嫌が悪い》
《何それ》
《本気で怒ってる》
《そこ重要?》
《今日一番の激怒ポイント》
「何をコソコソ打っているの?」
エリックは画面を伏せた。
「何でもないです」
ダニエルが吹き出した。
午前二時。
ダニエルは椅子の上で完全に眠っていた。
腕を組み、首が妙な角度に傾いている。
エリックは自分の上着を丸めて投げた。
バシッ。
顔面に命中。
「ん……」
起きない。
「……すごいな、あいつ」
*
ヘレンだけは、まだUNIT-2の前にいた。
波形。
ログ。
内部クロック。
電圧。
何度も同じ場所を拡大する。
エリックが隣へ立った。
「……何か分かりました?」
「一つだけ」
「何がです?」
ヘレンは画面を見たまま言った。
「私たちは、ずっと間違ったものを探していた」
エリックが画面を見る。
「何を?」
「速度よ」
ヘレンは送信と受信の記録を並べた。
「四十七・二光年という距離が正しい。通信も数秒以内に成立する。だから私たちは、『どれほど速く情報が移動したのか』を調べ続けた」
「そうですね」
「でも――」
ヘレンがエリックを見る。
「移動したという証拠は、最初から一つもない」
エリックは黙った。
「だったら、考え方を逆にする」
「逆?」
「信号は――」
一拍。
「移動なんてしていない」
「でも、言葉は届いてます」
「ええ」
「どうやって?」
「それをこれから調べる」
ヘレンは机の上のナプキンを見る。
AとB。
「ただ、一つだけ言える」
ナプキンを折る。
「もし、情報が距離を越えていないのなら――」
AとBが重なった。
「最初から、その距離が存在しない場所を通っているのかもしれない」
*
そのときだった。
ヘレンの目が画面の隅で止まった。
「……待って」
「何です?」
「今、何か変わった」
画面を戻す。
拡大。
さらに拡大。
UNIT-2内部の同期補正ログ。
通常ならノイズとして処理される、ごく小さな時間差。
そこに一つだけ、それまでとは異なる値が残っていた。
『+31 ns』
三十一ナノ秒。
エリックが覗き込む。
「……それが?」
ヘレンは答えない。
ログを保存。
タイムスタンプ。
電源電圧。
内部クロック。
周辺磁場。
その瞬間のデータを片っ端から固定していく。
「博士?」
「……分からない」
疲労で鈍っていたはずのヘレンの目が、完全に覚めていた。
「でも――」
画面を見つめる。
「この値は、さっきまでなかった」
*
四十七・二光年先。
惑星アルマ。
静まり返ったオフィス。
ケイトの端末の片隅で。
誰にも気づかれることなく、同じ瞬間。
小さな時刻補正ログが記録されていた。
『+31 ns』
ほんの、三十一ナノ秒だけ。
(第五章 了)




