第三章 間違っているもの
翌朝。
アラームが鳴った瞬間、エリックは目を開けた。
反射的に腕を伸ばし、枕元の端末を止める。
電子音が消えた。
静かになった部屋で、エリックは天井を見つめたまま数秒動かなかった。
何かがおかしい。
壁の向こうからは、隣室の給水設備が低く唸る音が聞こえる。窓の外はまだ青白い薄明かりの中にあり、二つの恒星は地平線の向こう側だ。
いつもの朝。
いつもの時間。
それなのに。
「……早いな」
時計を見る。
時間はいつもと同じだった。
違う。
早いのは時計ではない。
自分のほうだった。
普段なら、ここからあと二回はアラームを止める。
エリックはしばらく時計を見つめてから、布団を押しのけた。
キッチンへ行く。
冷蔵庫を開け、何も考えずいつもの場所へ手を伸ばす。
空だった。
「……あ」
豆の煮込みがない。
そこでようやく、昨日も同じことをしたのを思い出した。
「買わないとな」
冷蔵庫を閉める。
振り返る。
壁際。
洗濯籠。
エリックの足が止まった。
昨日より確実に高くなっている。
三日分どころではない。
一番上に昨日脱いだ作業着が無造作に乗り、袖だけが床へ垂れ下がっていた。
エリックはそれを見る。
時計を見る。
もう一度、洗濯物を見る。
今日はやる。
そう思った。
昨日までと違って、口には出さなかった。
*
セレスティア、ヘイブン。
朝の乾いた風が、街の外縁を薄い赤土で霞ませていた。
まだ本格的な始業時間には早い。
高架輸送路を走る貨物車両もまばらで、普段なら絶え間なく聞こえる大型搬送機の低い振動も途切れ途切れだった。
惑星間通信観測局の内部も静かだった。
廊下の照明は半分しか点灯していない。
夜勤担当者が奥の観測室で最後の引き継ぎ作業をしている。
エリックは自分の席にボストンバッグを置いた。
上着を脱ぐ。
端末を起動する。
そして――迷うことなく地下保守区画へ向かった。
昨日までとは違った。
もう遠回りする必要はなかった。
UNIT-2の電源は入ったままだった。
青白い画面。
そこには昨夜最後に届いた文章が残っている。
《……じゃあ、なんで返事できるの?》
エリックは椅子に座った。
返信欄を開く。
《知らない》
送信。
数秒考える。
《そっちは?》
送信。
返事はすぐに来た。
《知らない》
エリックは思わず笑った。
《役に立たないな》
《そっちもね》
「朝から元気だな」
背後から声がした。
エリックの肩が跳ねる。
振り返ると、紙カップを片手にしたダニエルが立っていた。
「……早いじゃん」
「お前も」
「俺は当番」
ダニエルは壁の時計を見る。
それからエリックを見る。
「お前は?」
「起きた」
「一回で?」
エリックが振り返った。
「なんで知ってる」
「前に三回鳴らすって言ってただろ」
「よく覚えてるな」
「お前が毎朝眠そうだからな」
ダニエルの視線がUNIT-2へ移る。
「で?」
「何だよ」
「絶対、女だろ」
「違う」
「朝一番で会いに来てるじゃん」
エリックはUNIT-2を見る。
「通信機に?」
「その中に誰かいるんだろ」
エリックは答えなかった。
数秒。
「……いる」
ダニエルの笑顔が消えた。
「え?」
「たぶん」
「怖い言い方すんなよ」
四十七・二光年先。
アルマ、リーヴァ。
昨夜の雨は上がっていた。
濡れた歩道が朝の光を鈍く反射し、建物の壁面を覆う植物から、時折大きな雫が落ちる。
環境観測部門のオフィス。
ケイトは自分の席で、昨夜の計算結果を見ていた。
47.2。
再計算。
47.2。
条件を少し変える。
47.1。
別の観測値。
47.3。
数字は逃げてくれなかった。
机の端には、赤い包装のパンが置いてある。
今日はまだ開けていない。
ミアが横を通った。
二歩。
止まる。
戻ってきた。
「食べないの?」
「あとで」
「体調悪い?」
「なんで?」
「パン食べてない」
ケイトは机の上を見る。
「私、そんな人だと思われてる?」
「かなり」
ミアが画面を覗こうとする。
ケイトは素早くウィンドウを切り替えた。
ミアの眉が上がる。
「やっぱり男」
「なんでそうなるの」
「その隠し方」
「違うって」
ケイトは無言で赤い包装を開けた。
パンを一口。
ミアが聞く。
「味は?」
「赤」
「元気そうで安心した」
*
その午前中。
二人は、四十七・二光年離れた場所で同じことをしていた。
間違い探し。
ただし、もう距離そのものを一から調べているわけではなかった。
昨夜、別々の場所で出した47.2光年という結果。
それが本当に正しいのか。
そして――もし正しいのなら、何が間違っているのか。
エリックは観測局の正式な最新星図へ切り替えた。
47.2。
過去の観測記録。
47.2。
基準天体を変更。
47.3。
さらに変更。
47.1。
誤差を考えれば、すべて同じ場所を示していた。
「……違うのは、こっちじゃない」
エリックはUNIT-2を見た。
*
ケイトは別の方向から疑った。
自分たちの観測データが間違っている可能性。
環境観測部門のデータを捨て、別部門が公開している独立した天文観測記録へアクセスする。
入力。
演算。
47.2。
「……嫌だな」
隣でミアが振り向く。
「何が?」
「数字」
「どの?」
「合ってる」
「いいじゃん」
「間違ってほしい数字が合ってる」
ミアは少し考えた。
「仕事?」
ケイトは答えなかった。
ミアは数秒だけ彼女を見て、それ以上は聞かなかった。
*
昼。
UNIT-2が鳴った。
《もう一回やる》
ケイトだった。
《何回目?》
《十一回》
エリックは自分の記録を見る。
《こっちは九回》
《負けたね》
《何に》
《執念》
《暇なの?》
《仕事です》
《俺も》
《嘘》
《なんで》
《返事早すぎ》
エリックは時計を見る。
確かに早い。
《そっちも》
少し間があった。
《じゃあ二人とも仕事してない》
《それでいい》
今度はエリックがUNIT-2そのものを疑った。
距離が正しいのなら、次に疑うべきものは通信だ。
距離が数学的に正しいのだとすれば、次に疑うべきは「通信」の物理的実態だ。
《実験する》
《何を》
《今から数字を送る》
《何桁?》
《十桁》
端末の暗号化された乱数生成機能を起動する。
5831047296。
送信。
数秒もしないうちに、
《5831047296》
全く同じ数字が返ってきた。
《次、そっちだ》
《手入力で?》
《何でもいい。俺が事前に予測できない数字》
数秒の沈黙。
《2047186351》
エリックの画面にも、一字一句違わず同じ数字が表示されている。
送信時刻。
受信時刻。
完全な一致。
もう一度。
さらに、もう一度。
コインの裏表。
手元の端末に表示されたランダムなカード。
その場で水銀温度計が示した室温の小数第2位。
窓の外を不規則な間隔で通過した作業車の識別番号。
ケイトが手にしていた赤いパンの包装に微小に印字されていた製造ロット番号。
送る直前まで、お互いに絶対に知りようのない情報。
それを次々と送り合った。
すべてが、タイムラグなく届いた。
生じる遅延は、古びたUNIT-2内部の処理回路による物理的な遅延とほとんど変わらない。
エリックは記録されたデータを呆然と眺めた。
「47.2光年という距離そのものが間違っている」
そう結論づける方が、よっぽど精神的には楽だった。
だが、その可能性は今朝の検証ですでに完全に潰している。
ならば。
間違っているのは――
エリックは目の前の機械に視線を固定した。
「……お前なのか?」
*
アルマ。
ケイトは机の上で、あの赤いパンの袋を持ち上げた。
製造番号を見る。
手元の通信記録を見る。
完全に一致している。
当たり前だ。
自分がリアルタイムで送ったのだから。
けれど。
四十七・2光年という途方もない距離の向こう側にいる相手に、今この瞬間放った数字が、途切れることなく手元へ跳ね返ってくる。
その「当たり前」が、この宇宙の法則においては絶対に成立してはならないはずだった。
ケイトはパンの袋を、まるで毒物でも扱うかのようにそっと机へ戻した。
結局、その日の昼食に手をつけることはできなかった。
*
午後。
エリックは椅子を後ろへ滑らせ、腕を組んだ。
目の前にあるのは、十年以上前に放棄された実験機。
埃。
傷。
変色したキー。
今にも止まりそうな冷却ファン。
どう見ても、宇宙の物理法則をひっくり返すような代物には見えない。
「朝からずっとそれやってない?」
通りかかったダニエルが言った。
「仕事もしてる」
「三割くらい?」
「四割」
「威張るな」
ダニエルが歩いていく。
「ダニエル」
「ん?」
「47光年離れた場所へ通信を飛ばしたら、片道どれくらいかかる?」
「47年だろ。常識だろ」
「じゃあ、返事は?」
「往復だから……最短でも94年だな。」
数歩歩きかけたダニエルの足がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。
「……なんだよ、その質問」
エリックは稼働し続けるUNIT-2を見つめたまま答えない。
「お前、さっきから一体何やってるんだ?」
「まだ、完全に確信はない」
ダニエルが足音を立てて戻ってきた。
「そんな不気味な振り方しておいて、それで終わるわけないだろ」
「終わるよ」
「終わるかよ。何を確認してんだ」
「全部だ」
ダニエルはしばらくエリックの顔を覗き込み、それから複雑そうな表情で息を吐いた。
「……ぶっ壊すなよ」
「壊さないさ」
「機械じゃなくてさ」
「何をだよ」
「知らん。なんか、とんでもないものを引っ張り出してる気がして、嫌な予感がしたから言っただけだ」
エリックは乾いた笑いを漏らした。
*
その日の夕方。
ケイトから返事が来なくなった。
最初は気にしなかった。
仕事だろう。
三十分。
一時間。
エリックも通常業務へ戻った。
観測データを確認する。
保守記録を書く。
交換部品を整理する。
二時間。
UNIT-2の前を通った。
画面には何もない。
「……」
そのまま通り過ぎた。
*
退勤時間。
ダニエルがコートを羽織る。
「おい、帰らないのか?」
「もう少し残る」
「まだ仕事か?」
「ああ」
ダニエルはちらりとUNIT-2の青白い光を見て、それからエリックを見た。
これ以上は何も突っ込まなかった。
「……無理するなよ。じゃあな」
「おう」
重い自動扉が閉まる。
局内から人の気配が消え、静寂が戻った。
エリックは自分の専用端末を開く。
今日の業務の処理はすでに終わっている。
視線をUNIT-2に向ける。
通知のランプは沈黙したままだ。
壁の時計を見る。
昨日までなら、相手が何時に起きていようが、地球の裏側――いや、別の惑星のどこで何をしていようが知ったことではなかったはずだ。
エリックは自然と返信欄に指を置いた。
《いる?》
そこまで打った。
止まる。
全部消した。
「……何してんだ」
立ち上がる。
帰ることにした。
*
家に着く。
ドアを開ける。
洗濯籠が待っていた。
エリックは立ったまま、しばらくそれを見た。
今日は逃げなかった。
作業着を掴む。
洗濯機へ放り込む。
シャツ。
下着。
タオル。
全部入れる。
洗剤。
蓋。
開始。
低い回転音が始まった。
「……やった」
誰も褒めてくれない。
その勢いのまま、床に転がっていた空の保存食容器を拾う。
ゴミ箱へ。
机の上の古いカップも洗う。
冷蔵庫を開ける。
帰りに買ってきた豆の煮込みを入れ、明日の分を奥へ置く。
そこでエリックは一度止まった。
部屋を見回す。
少しだけ、片づいていた。
別に綺麗好きになったわけではない。
今夜、余計なことを残しておきたくなかった。
夕食を机へ置く。
私用端末を開く。
当然、UNIT-2の通信はここには届かない。
それでも、一度だけ時刻を見る。
豆を食べる。
*
翌朝。
一度目のアラーム。
目を開ける。
止める。
洗濯物は――
洗濯機の中だった。
「……あ」
干していない。
蓋を開ける。
一晩放置された湿った衣類から、嫌な匂いがした。
エリックは顔をしかめた。
「……もう一回か」
洗剤を入れる。
再スタート。
完璧には、ほど遠かった。
*
観測局。
UNIT-2。
何もない。
午前。
来ない。
昼。
まだ来ない。
食堂でエリックが豆を食べていると、ダニエルが向かいに座った。
今日は茶化さなかった。
しばらく二人とも黙って食べる。
やがてダニエルが言った。
「来ないの?」
エリックの手が止まる。
「何が」
「知らんけど」
「……来ない」
「昨日から?」
「うん」
「忙しいんじゃない?」
「たぶん」
ダニエルは頷いた。
それだけだった。
今度はエリックが聞いた。
「なんで分かる」
「何が」
「来てないって」
「お前が五分おきにあれ見てるから」
「そんな見てない」
「見てる」
「仕事しろ」
「昼休み」
*
午後三時を少し過ぎた頃。
ピピッ。
エリックは反射的に顔を上げた。
自分でも驚くほど速かった。
UNIT-2。
受信。
椅子を引き寄せる。
《ただいま》
その四文字を見た瞬間、肩から力が抜けた。
《どこ行ってた》
《仕事》
《昨日から?》
《調査で外》
《言えよ》
少し間。
《なんで?》
エリックの指が止まった。
《別に》
《心配した?》
眉を寄せる。
《してない》
《したんだ》
《してない》
《じゃあ何で返事こんな早いの》
エリックは画面を見つめた。
昨日、自分がケイトに言われた言葉とほとんど同じだった。
《うるさい》
すぐに返ってくる。
《ただいま》
エリックは少し考えた。
《おかえり》
*
アルマ。
外部調査用の上着を脱ぎながら、ケイトはその文字を見た。
《おかえり》
手が止まる。
昨日までなら、ただの挨拶だった。
今日は少し違って見えた。
ミアが資料を抱えて前を通る。
ケイトを見る。
通り過ぎる。
戻ってくる。
「何?」
「今の顔」
「どんな?」
「知らない」
ミアは少し笑った。
「でも、良い顔」
ケイトは画面を伏せた。
「仕事して」
「今してる」
*
その夜。
二人は初めて、宇宙の話をほとんどしなかった。
《外の調査って何してた?》
《土と空気と植物見てた》
《楽しい?》
《楽しいよ》
《土が?》
《土を馬鹿にしないで》
《してない》
《してる》
《土に謝る》
《直接言って》
《遠い》
少し間。
《47.2光年あるからね》
エリックは、その数字を見た。
昨日までは、異常を示す数字だった。
今は。
ただ、ケイトまでの距離にも見えた。
*
《エリックは何してるの》
《通信設備》
《趣味は?》
エリックの指が止まった。
《ない》
《ない?》
《ない》
《休みの日は何してるの》
《洗濯》
間。
《それ趣味じゃないよ》
《知ってる》
《他は?》
《寝る》
《人生大丈夫?》
エリックは笑った。
どこかで聞いた言葉だった。
《ダニエルと同じこと言うな》
《誰?》
《同僚》
《信用できる?》
エリックは少し考えた。
ダニエルの顔が浮かぶ。
《たぶん》
《たぶんなんだ》
《うるさい》
今度はこちらから聞く。
《ケイトは?》
《何が》
《趣味》
返事が遅い。
『入力中……』
消える。
また現れる。
《ない》
《人のこと言えないじゃん》
《私は忙しいの》
《俺も》
《嘘》
《なんで》
《洗濯が趣味の人は忙しくない》
《趣味じゃない》
《じゃあ何》
エリックは考えた。
《洗濯》
しばらく返事がなかった。
《会話にならない》
*
それから、二人は毎日通信した。
長い日もあった。
短い日もあった。
仕事。
食べ物。
天気。
同僚。
どうでもいい失敗。
ケイトがパンを床へ落とした話。
エリックが、せっかく洗った洗濯物を洗濯機に入れっぱなしにした話。
《臭くない?》
《洗い直した》
《二回洗ったの?》
《うん》
《環境に悪い》
《47光年先から怒られた》
《もっと反省して》
重大な話は、ほとんどしなかった。
それでも。
朝、仕事へ行けばUNIT-2を見る。
昼、何かあれば送る。
夜、帰る前に一言。
ヘイブンでは乾いた赤土が舞い、二つの恒星が沈む。
リーヴァでは湿った風が植物を揺らし、一つの恒星が海の向こうへ沈む。
まったく違う二つの世界で。
同じ小さな習慣だけが増えていった。
*
ある夜。
エリックはUNIT-2の前で時計を見た。
遅い。
《もう帰る》
《私も》
《明日》
《うん》
エリックは立ち上がった。
鞄を持つ。
数歩進む。
ピピッ。
戻る。
《エリック》
《何》
少し間があった。
《明日もいる?》
エリックは、その文章を見つめた。
最初の日。
誰もいないと思っていた機械へ、自分はこう送った。
《誰かいますか?》
返ってきたのは、
《いる。》
今なら、少しだけ分かる。
ケイトが聞いているのは、予定の話だけではない。
エリックは指を置いた。
《いる》
送信。
そして、もう一つ。
《ケイトは?》
返事はすぐに来た。
《私も》
*
エリックはUNIT-2の電源を落とさなかった。
暗い保守区画に、古い画面の青白い光だけが残る。
最初の日と同じだった。
けれど。
もう、そこに誰がいるのかをエリックは知っている。
四十七・二光年先。
顔も知らない。
声も知らない。
どんなふうに笑うのかも知らない。
それでも。
明日になれば、また言葉が届く。
エリックは保守区画の照明を消した。
暗闇の中。
UNIT-2だけが、小さく光っていた。
明日の返事を待つように。
(第三章 了)




