第二章 どこにいる?
翌朝。
エリックは二度目のアラームで目を覚ました。
いつもより一回早い。
本人は、その小さな変化に気づいていなかった。
窓の外では、まだ二つの恒星は地平線の下にある。
セレスティア特有の青白い薄明かりが、低く垂れ込めた鉱物質の雲をぼんやりと照らしていた。
遠くから地響きが近づいてくる。
居住区の外周道路を、採掘プラントへ向かう大型重機トレーラーが通過していったのだ。薄い窓ガラスが、ビリビリと小さく震える。
エリックは布団の中でしばらく天井を見つめていた。
昨日なら、ここでもう一度アラームを止めていただろう。
だが今日は、そのまま身体を起こした。
「……腹減った」
キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。
冷気が顔に当たる。
いつもの場所へ手を伸ばして――止まった。
豆の煮込みがない。
「……昨日、全部食ったか」
一度扉を閉める。
数秒考えて、なぜかもう一度開けてみる。
当然、増えてはいない。
仕方なく棚から銀色の保存食パックを一つ取り出した。味の表示を見る。
『穀物加工食・標準味』
「標準味ってなんだよ……」
包装を破りかけたところで、視界の端に壁際の洗濯籠が入った。
山だった。
作業着、シャツ、下着。昨日から一枚たりとも減っていない。
「あ」
エリックは洗濯籠を見る。
壁の時計を見る。
もう一度、洗濯籠を見る。
「……帰ったらやる」
昨日とまったく同じ台詞だった。
*
セレスティア、ヘイブン。
惑星最大級の採掘・物流拠点として発展した都市は、朝から低い機械音に包まれていた。
赤茶けた大地を削るように、灰色の居住棟と工業施設が並んでいる。その間を縫う高架輸送路では、無人貨物車両が絶え間なく行き交っていた。
華やかさとは無縁の街だった。
乾いた風が吹けば細かな赤土が舞い、建物の隙間という隙間に入り込む。住民の多くは採掘、輸送、観測、保守――この惑星を維持するための仕事に従事している。
エリックの職場である惑星間通信観測局は、その市街地から少し離れた荒野に建っていた。
保守区画に入り、照明をつける。
白い蛍光灯が一本ずつ目を覚まし、無機質な地下通路を奥へ向かって照らしていく。
そして、その先。
昨日とまったく同じ場所に、古い通信機があった。
『量子同期通信実験機 UNIT-2』
エリックは真っ直ぐ自分の作業デスクへ向かい――
途中で、わずかに進路を変えた。
UNIT-2の横を通る。
横目で画面を見る。
暗い。
何も表示されていない。
「……」
そのまま通り過ぎる。
「おはよう」
「うわっ」
思わず振り返る。
紙カップを片手にしたダニエルが立っていた。
「……おはよう」
「今、何見てた?」
「別に」
ダニエルがUNIT-2を見る。
エリックを見る。
もう一度UNIT-2を見る。
「昨日もそれ触ってたよな」
「仕事だ」
「にしては楽しそうだったけど」
「どこがだよ」
ダニエルが顔を近づける。
「何かあったか?」
「何もない」
「女か?」
「なんでそうなる」
「顔に出てる」
エリックは反射的に自分の頬を触った。
「普通だろ」
「お前の『普通』が怪しいんだよ」
「……仕事しろ」
ダニエルは壁の時計を見る。
「まだ始業三分前」
昨日より一分増えていた。
*
同じ頃。
惑星アルマ、リーヴァ。
朝の街には、セレスティアとはまったく違う空気が流れていた。
夜のあいだに降った短い雨が舗装路を濡らし、街路樹の細長い葉から大粒の雫が落ちている。
湿った風が、都市の向こうから吹いてくる。
遠くには水面が朝の光を反射していた。
居住区と研究施設の間には低層の建物が並び、その壁面を這うように植えられた植物が、湿った風にゆっくり揺れている。
その一角。
ケイト・ウォーカーは売店の棚の前で腕を組んでいた。
緑。
黄色。
青。
赤。
同じ形の包装袋が、妙に几帳面に並んでいる。
「今日は何色?」
背後からミアが覗き込んだ。
ケイトは迷わず青を取った。
「青」
「味は?」
「青味」
「もう聞かないことにするわ」
二人はオフィスへ向かって歩き出した。
ケイトが包装を破る。
横を歩くミアが、何気なく尋ねた。
「昨日、帰るの遅かったでしょ?」
「ちょっとね」
「仕事?」
「まあ、ちょっと」
「何その曖昧な答え」
「ちょっとはちょっとだよ」
パンを一口かじる。
ケイトの足が止まった。
「……どうしたの?」
ケイトは手の中のパンを見つめた。
もう一口。
「これ……甘い」
「裏の説明書き読めば?」
包装をひっくり返す。
極小の文字。
『ベリー風味』
「本当だ」
「三十三年生きてきて、ついにパッケージを読むことを覚えたのね」
ケイトは感心したように頷いた。
「私は遅咲きなの」
*
午前。
環境観測部門の巨大なオフィスには、低い機械音とキーボードを叩く音が絶え間なく流れていた。
壁面ディスプレイには、アルマ各地から集められた環境データがリアルタイムで更新されている。
気温。
気圧。
海水面変動。
大気組成。
植生指数。
ケイトは昨夜から蓄積されたデータを順番に確認していった。
一つ。
二つ。
三つ。
いつもなら、ここで周囲の音が聞こえなくなるほど没頭する。
だが今日は違った。
意識のほんの数パーセントが、画面の隅にある小さな通信アイコンへ向いている。
チラリ。
通知なし。
データへ戻る。
十数秒。
また見る。
何もない。
ケイトは青い包装のパンをかじった。
「……私、何期待してんだろ」
*
セレスティア。
午前の作業を一通り終えたエリックは、UNIT-2の前に座っていた。
昨日のログが残っている。
《誰かいますか?》
《いる。》
《誰?》
《そっちが聞いたんでしょ。》
《エリック》
《ケイト》
《どこにいる?》
《それ、こっちが聞きたい。》
最後の一文をしばらく見つめる。
エリックは返信欄へ指を置いた。
何と答えるべきか少し考える。
住所を教えるほどの相手じゃない。
かといって、観測局とだけ答えても意味がない。
短く打った。
《ヘイブン》
送信。
*
ピピッ。
アルマ。
ケイトの指が止まった。
反応が早すぎたことに自分で気づき、あえて数秒待つ。
隣を見る。
ミアは仕事中。
何でもない顔で通信ウィンドウを開いた。
《ヘイブン》
「……?」
聞いたことがない。
ケイトは少し考えてから打った。
《どこ、それ》
数秒。
《ヘイブン知らない?》
ケイトの眉が上がった。
《知らない》
そして、
《そっちは?》
ケイトは自分のいる街の名前を打った。
《リーヴァ》
*
今度はエリックが止まった。
「リーヴァ……?」
知らない。
辺境の小さな居住区だろうか。
セレスティアには採掘拠点から発展した街がいくつもある。自分が知らない地名くらいあっても不思議ではない。
だが――リーヴァ。
記憶にない。
《それ、どこ?》
すぐに返ってきた。
《知らないの?》
《知らない》
《ヘイブンも知らない》
《リーヴァも知らない》
数秒、返事が途切れた。
そして、
《お互い田舎なんじゃない?》
エリックは思わず鼻で笑った。
《ヘイブンは田舎じゃない》
《こっちも》
《じゃあどこだよ》
《だから、それを聞いてるの》
エリックは椅子にもたれた。
面倒な相手だ。
なのに、通信を閉じようとは思わなかった。
*
昼休み。
エリックは食堂の隅で、保存食のトレーを突きながら個人端末を眺めていた。
《そっち寒い?》
突然そんな質問が来た。
《寒い》
《やっぱ北の方?》
エリックの指が止まる。
《何の北?》
少し間があった。
《何のって……》
また止まる。
《リーヴァ、今日は暑いよ》
《こっちは朝かなり冷えた》
《雪?》
《降らない。乾燥してる》
《こっちは朝雨だった》
エリックは何となく窓を見る。
食堂の厚い防塵ガラスの向こうには、赤茶けた荒野が広がっている。
風に巻き上げられた砂塵が、遠くの輸送塔の根元を薄く霞ませていた。
《雨、最近見てない》
《嘘》
《本当》
《こっちは結構降るよ》
エリックは眉を寄せる。
同じ惑星でも気候が違うことくらい珍しくない。
当然だ。
だが、何かが少しだけ引っかかった。
《海は?》
《あるよ》
返事は即座だった。
《窓から見える》
エリックはもう一度、外を見る。
どこまでも続く赤土。
《こっちは遠い》
《ヘイブンって内陸?》
《そう》
会話としては、それで終わるはずだった。
ところがケイトから、もう一通届いた。
《ところで今日、夕焼け綺麗だった》
エリックは壁の時計を見る。
《夕焼け?》
《うん》
《こっちまだ昼だけど》
しばらく返事が来なかった。
《時差でしょ》
《だろうな》
まだ、おかしくはない。
*
午後。
仕事の合間に、二人のやり取りは細々と続いた。
最初は都市の話だった。
次に天気。
食べ物。
交通。
仕事。
どれも決定的におかしいわけではない。
ただ、話せば話すほど、小さな違和感だけが積み上がっていった。
《そっち、貨物軌道うるさくない?》
《何それ》
《大型貨物船のコンテナ輸送》
《そんなの街の上飛ばないよ》
《飛ぶだろ》
《危ないでしょ》
《今さらだな》
ケイトは画面を見ながら笑った。
《ヘイブン、住みたくない》
《俺もそう思う》
思わず吹き出した。
「何?」
隣からミア。
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「気のせい」
*
夕方。
ケイトは仕事を終え、オフィスを出た。
外へ出ると、雨上がりの湿った空気が頬に触れた。
リーヴァの空はすでに深い藍色へ変わり始めている。
建物の間から、一番星が見えた。
ケイトは歩きながら端末を開いた。
《星見える?》
少しして、
《見える》
《一番明るいのどっち?》
《今?》
《今》
《南西》
ケイトは足を止めた。
自分の星図を開く。
《こっちは東》
《時差》
《たぶん》
ケイトは空を見る。
何となく聞いた。
《恒星いくつ?》
返信が来る。
《何が》
《太陽》
《二つ》
ケイトの指が止まった。
空を見上げる。
もう一度、画面を見る。
《……二つ?》
《二つ》
《恒星が?》
《そうだけど》
ケイトはしばらく何も打たなかった。
《そっちは?》
ゆっくり指を動かす。
《一つ》
今度はエリックから返事が来なかった。
*
セレスティア。
UNIT-2の前。
エリックは画面を見つめていた。
《一つ》
それだけ。
何度読み返しても変わらない。
同じ惑星なら、恒星の数が違うはずがない。
エリックは背もたれから身体を起こした。
冗談。
嘘。
誰かの悪戯。
そのどれかだ。
そのはずだった。
《ケイト》
《なに》
《リーヴァって》
指が止まる。
少し考え、続きを打った。
《どこの惑星?》
今度はケイトが黙った。
数秒。
十秒。
そして、
《アルマ》
エリックは画面を見つめた。
知らない。
検索端末を開く。
惑星登録データベース。
『ALMA』
検索。
『該当なし』
綴りを確認する。
もう一度。
『該当なし』
エリックの顔から、わずかに血の気が引いた。
《そっちは?》
エリックは答えた。
《セレスティア》
*
アルマ。
ケイトは街路脇のベンチに腰を下ろした。
《セレスティア》
星間植民地データベースを開く。
入力。
検索。
『該当なし』
別表記。
該当なし。
旧植民地名。
該当なし。
ケイトは端末を膝の上に置いた。
さっきまで少し面白いだけだった。
知らない都市に住んでいる、少し変な男。
それだけだったはずなのに。
《セレスティア、ないよ》
すぐに返ってくる。
《アルマもない》
ケイトは夜空を見上げた。
《……じゃあ、どこにいるの?》
*
そこから先は、遊びではなくなった。
二人は互いの観測情報を送り始めた。
最初に照合したのは、それぞれの星図に記録された遠方天体だった。
近くの恒星は役に立たない。
見る場所が変われば位置も変わる。
だが、遥か遠方にある天体なら、二人の星図に共通の基準を作ることができる。
エリックは観測局の正式な星図解析システムを立ち上げた。
ケイトも環境観測部門から利用できる天文データへアクセスする。
一つ。
一致。
二つ。
一致。
三つ。
角度が違う。
四つ。
さらに違う。
それぞれが見ている宇宙そのものは同じだった。
だが――
見ている場所が違う。
エリックは無言で演算条件を修正した。
ケイトから届く観測角度。
自分の星図。
共通する複数の基準天体。
位置をずらす。
一光年。
五光年。
十光年。
二十光年。
一致率が少しずつ上がっていく。
「……冗談だろ」
三十光年。
四十光年。
エリックの手が止まった。
もう一度、条件を入力する。
解析。
画面に数字が現れた。
『推定観測点間距離:47.2光年』
「…………は?」
計算方法を変える。
『47.1光年』
別の基準天体を追加する。
『47.3光年』
誤差の範囲だった。
エリックは椅子から動けなくなった。
*
アルマ。
ケイトもまた、自分の画面を見つめていた。
『47.2光年』
単位を見る。
計算式を見る。
基準点を見る。
もう一度計算する。
同じ。
ケイトは間違いを探した。
探して。
探して。
どこにもなかった。
画面の向こうには、昨日知ったばかりの男がいる。
会ったこともない。
顔も知らない。
どんな声なのかも知らない。
なのに、メッセージは数秒で届く。
その男がいる場所まで、
47.2光年。
ケイトはキーボードに指を置いた。
文字を打つ。
消す。
また打つ。
消す。
最後に短く送った。
《そっち、何光年になった?》
*
セレスティア。
UNIT-2が鳴った。
エリックは画面を見る。
《そっち、何光年になった?》
ゆっくり打った。
《47.2》
ほとんど間を置かず、返事が来た。
《こっちも》
エリックは椅子に深く沈み込んだ。
47.2光年。
光ですら、届くまで47年以上かかる。
今ここから普通の通信を送ったところで、ケイトが受け取るのは47年後。
返事が戻るのは、さらに47年後。
なのに。
ピピッ。
《エリック》
《何》
《今いる?》
エリックは少しだけ画面を見つめた。
そして打つ。
《いる》
数秒。
《……いるんだ》
エリックは返事をしなかった。
何を返せばいいのか、分からなかった。
*
アルマ。
ケイトは端末を持ったまま、夜空を見上げた。
無数の星がある。
そのどれがセレスティアなのか、肉眼では分からない。
47.2光年。
昨日までなら、ただの数字だった。
環境データにも、天文データにも、もっと大きな数字はいくらでも並んでいる。
けれど今は違った。
その数字の向こうに、一人いる。
エリック。
ケイトは再び画面を見る。
《……じゃあ》
一度、指が止まった。
《なんで返事できるの?》
*
セレスティアの地下。
古い通信機の駆動音だけが、静かな保守区画に響いていた。
廃棄予定だったUNIT-2。
見知らぬ都市。
知らない惑星。
47.2光年先の、会ったこともない女。
そして、数秒で届いた彼女の言葉。
《……じゃあ、なんで返事できるの?》
エリックはしばらく画面を見つめた。
それから、誰もいない地下室でぽつりと言った。
「知るかよ……」
その答えだけは、まだ47.2光年の向こうへ送られていなかった。
(第二章 了)
第3章 間違っているもの




