第20章 迎えに行く
ジャックの貨物船。
航法画面のカウントダウンが、容赦なく刻まれる。
『境界到達まで、10分42秒』
副操縦士のオーウェンが、汗を拭いながら画面を切り替えた。
「右、駄目です! 歪みが広がってます!」
「左は?」
「同じです!」
「上は!?」
「境界!」
「下!」
「全方位、境界です!」
ジャック・ハリスは表示を縮小した。
船を囲むように、幾重もの時空の歪みが蠢いている。逃げ道を計算するたび、コンピューターの弾き出す最適解が目まぐるしく書き換わっていく。
*
セレスティア、観測局。
サイモン・グラントが計算画面を叩いた。
「……おかしい! 境界の速度予測が合わない!」
ヘレン・カーターが画面を覗き込む。
「境界の計算が?」
「はい! 一分前の観測値にあった場所に、もう境界がありません! 予期せぬ場所へ突然跳躍している……『加速』しているんじゃない。――速度という物理概念そのものが、合わなくなっています!」
*
通信スピーカーから、ジャックの野太い声が響いた。
『それで、俺はどっちへ舵を切ればいい?』
サイモンの手がキーボードの上で止まった。
「……分かりません」
重い沈黙。
『……了解』
ダニエルが思わず呟いた。
「了解するんだ……」
「他にどう返事するんだよ」
エリックが小声で返した。
*
船内。
オーウェンがジャックを見た。
「どうします……!?」
ジャックは、操縦桿から静かに手を離した。
「止める」
「え!?」
「逃げる方向が分からんのなら、無駄にスラスターを吹かして燃料を捨てるだけだ」
推進力、完全停止。
船体は慣性飛行へと移行する。
ジャックはMOP-1の局所モニターを確認した。
船内の局所時計――正常。
セレスティアとの位相関係――激しく変動。
アルマとの位相関係――微弱。だが、確かに存在する。
ジャックの口元が、わずかに緩んだ。
「……面白いな」
「何がです!?」
オーウェンが聞き返す。
「アルマの信号まで拾ってる」
「47光年先ですよ!?」
「知ってるさ」
*
アルマ、野生調査施設。
ゾーイ・ベネットは、戻ってきたモップのそばを片時も離れなかった。
各種生体検査――異常なし。
内部エネルギー周期――極めて安定。
モップは何事もなかったかのように、施設内の床を滑らかに歩いている。
ノア・リードが首をかしげた。
「……お腹空かないのかな」
「そもそも、何を食べてるのかすら分からないんだから」
ゾーイが答える。
「今さら?」
「今さらだよ」
*
モップが測定台の上へとひらりと飛び乗った。
トントン。
ノアも台の縁を指先で叩く。
トントン。
モップが打ち返す。
トントン、トン。
「……あ、違う」
「何が?」
「さっきまで叩いてたリズムと、違う」
ゾーイは過去のパルスログを開いた。
時空の隙間に消失する前――一定の間隔。
戻ってきた後――別の周期波形。
だが、乱れているわけではない。
モップは――何か「別のもの」に、自らの波長を合わせに行っている。
*
アルマ、観測局のケイトへデータが届く。
ケイトは、アルマの惑星補正データ、時空境界マップ、UNIT-2の通信ログ、そしてジャックの貨物船のMOP-1ログを一つの画面に重ね合わせた。
一つの波形が、ぴったりと重なる。
「……船!?」
「え?」
ミアが顔を上げた。
ケイトはジャックの船のMOP-1ログを最大まで拡大した。
モップの内部周期と、ジャックの船が時空の歪みに近づいた時に記録している位相変化――酷似している。
ケイトは即座にセレスティアへ回線を繋いだ。
『ヘレン博士!』
『見ているわ』
『モップの波形、ジャックの船と同じだよ!』
サイモンが二人の会話に割って入る。
『正確には……完全一致ではありません。ですが、変化を起こすタイミングがほぼ同調しています!』
ヘレンはモップが時空の隙間から戻ってきた直前の記録を展開し、現在のジャックの船のデータと重ねた。
「……帰る時と、同じだわ」
「何がですか?」
エリックが尋ねる。
「モップが向こう側から『こちら』へ戻る直前の波形よ。ジャックの船も今、向こう側に足を踏み入れようとしている」
*
ジャックの船。
『境界到達まで、3分08秒』
操縦席の端末に、娘のエマからのメッセージが灯った。
《今どこ?》
ジャックは窓の外の星々を一瞬見つめ、返信を打った。
《仕事中》
一秒で返信。
《また?》
ジャックの口元が緩む。
《うん》
《帰ってくるんでしょ》
ジャックの指がキーボードの上で止まった。
窓の外の宇宙は、静寂に包まれている。
《帰る》
送信。
『境界到達まで、2分41秒』
オーウェンが尋ねた。
「……ご家族ですか?」
「娘だ」
「なんて?」
「帰れってさ」
「……帰りたいですね」
ジャックは、操縦席のパネルの上にどっしりと手を置いた。
「帰るよ」
*
アルマ、野生調査施設。
モップが床を叩く。
トントン、トン。
間。
トントン。
ゾーイが息をのんだ。
そのリズムを、彼女は知っていた。
一番最初の日、あの草原の岩陰で、自分がモップへと贈った呼びかけのリズム。
「……帰るの……?」
モップが応える。
トントン。
ゾーイは床にしゃがみ込み、同じリズムを指先で刻んだ。
トントン、トン。
間。
トントン。
モップが、力強く打ち返す。
*
セレスティアの観測局でその映像を見ていたヘレンが、マイクを握りしめた。
「ゾーイ!」
『はい!』
「そのリズムを続けて!」
『これをですか!?』
「ええ! 止めないで!」
ヘレンはジャックの船のモニターへ向き直った。
「エリック!」
「はい!」
「UNIT-2を使うわよ!」
「ジャックへ繋ぐんですか!?」
ダニエルが声を上げた。
「船にUNIT-2なんて積んでませんよ!?」
「MOP-1があるわ!」
サイモンが首を振る。
「プロトコルの互換性がありません!」
「今から作るのよ!」
「あと二分ですよ!?」
ダニエルの悲鳴に、ヘレンが即答した。
「なら、急ぎなさい!」
*
観測局の床に、引き出された配線がのたうつ。
MOP-1が出力する局所関係信号を、無理やりUNIT-2の通信経路へ流し込む。互換性のない信号を、既存の変換機能を総動員して力ずくで繋ごうとしていた。
動作保証などない。まともな試験をする時間もない。
繋がるかどうかは、やってみるまで分からなかった。
「こんなのシステム設計じゃない! 配線の暴力だ!」
ダニエルが叫ぶ。
「繋がれば何でもいいです!」
サイモンも負けじと叫び返した。
「サイモン……お前、言うようになったな……!」
*
『境界到達まで、1分12秒』
通信機からジャックの声が飛ぶ。
『まだか、観測局!』
「今!! 繋がった!!」
ダニエルが叫んだ。
画面に猛烈なノイズが走る。文字回線が開いた。
エリックが必死に打ち込む。
《ジャック!》
応答なし。
《見えるか!?》
画面はノイズの海。
『境界到達まで、48秒』
船内では、オーウェンが窓の外を見つめていた。
「来ます……!! 外の星が……歪んで……!」
「MOP-1、最大出力維持!」
「はいっ!!」
*
セレスティア、観測局。
エリックはもう一度打ち込んだ。
《ジャック!》
ノイズの中から、一文字だけが浮き上がった。
《い》
すぐに消える。
エリックはキーボードへ指を叩きつけた。
モップの時も、ゾーイの時も、ケイトの時も、一番最初はずっと同じだった。
《いる?》
*
ジャックの船の操縦画面。
ノイズの嵐の中、その三文字だけが異様な鮮明さで浮かび上がった。
「な、何ですかこれ……!?」
オーウェンが目を見開く。
ジャックは不敵に笑い、キーボードを力強く叩いた。
《いる。》
*
『境界到達』
船体が――消えた。
*
セレスティア、観測局。
ジャックの船体信号、完全消失。
航法ロケーター、消滅。
MOP-1データ通信、途絶。
「ジャック!? 応答しろ、ジャック!!」
ダニエルがマイクへ叫ぶ。
「船の存在が……画面から消えました……」
サイモンが呆然と呟いた。
「どこへ行った……!?」
エリックは消えた信号の跡を見つめていた。
*
セレスティア港、エマの端末。
送信済みの《帰る》の文字の下に、新しい通知。
《待ってる》
*
アルマ。
モップが唐突に立ち上がった。
その身体を、セレスティアの方向でも、ゾーイの方向でもない――何もない「空間の隙間」へと向けた。
トントン。
*
セレスティア、UNIT-2。
ジジッ……という明瞭な受信ノイズ。
「来た!!」
エリックが叫ぶ。
極めて微弱。文字データではない。規則的な脈動周期。
「呼びかけなさい!」
ヘレンが指示する。
「なんて!?」
「何でもいいわ! ジャックが絶対に理解できる言葉を!」
エリックはキーボードを見つめた。
自分はジャックのことをよく知らない。貨物船の船長で、不器用で、娘がいて――「帰る」と言った男。
《ジャック》
応答なし。
《帰れ》
「雑すぎるだろ!!」
ダニエルが横から叫ぶ。
「うるさい!!」
エリックは打ち直した。
《娘が待ってる》
*
微弱な周期信号の波形が、劇的に跳ね上がった。
「反応しました!!」
サイモンが身を乗り出す。
「そのまま続けて!!」
ヘレンの声を背に、エリックはもう一度打ち込んだ。
《帰るって言っただろ!!》
*
ジャックの視界。
暗い。いや、暗いのかどうかすら分からない。
船内照明は点いている。隣にはオーウェンもいる。計器も稼働している。
だが――窓の外に、星がない。
MOP-1の航法画面。
目的地表示――なし。
座標表示――なし。
だが――ただ一つだけ、暗闇の向こうから激しく点滅する関係信号。
崩れかけた文字。
《……娘……待……》
ジャックは鼻で笑った。
「……うるさい奴だ」
「だ、誰なんですか……!?」
オーウェンが尋ねる。
「受取人の男だよ」
ジャックはMOP-1のパネルに目的地を入力しようとした。
座標入力――不能。
「セレスティア」と打ち込む――認識不能エラー。
ジャックは手を止めた。
エマ、自分の家、セレスティア。
帰りたい場所は、はっきりしている。
だが今、その場所を示す座標はどこにも見つからない。
けれど――通信は、繋がっている。
「……これでいいんだな」
「何がです!?」
「帰る場所ってのはさ」
ジャックは座標入力を破棄し、画面に点滅する関係信号を直接選択した。
『SOURCE: CELESTIA LINK』
画面に赤字の警告。
『ABSOLUTE POSITION UNAVAILABLE(絶対座標が取得できません)』
「知ってるよ」
ジャックは実行キーを力強く押し込んだ。
航法装置が何を捉えたのか、彼自身にも分からない。
ただ、途切れかけた関係信号だけが、消えずに残っていた。
*
セレスティア、観測局。
UNIT-2の受信シグナルが、振り切れるほど跳ね上がった。
「来ます……!! 上空です!!」
サイモンが叫ぶ。
「どこに!?」
ヘレンが振り向く。
「分かりません!! 座標が出ません!!」
観測局から数百キロ上空の宙域。
何もない空間が、一瞬だけ激しく歪んだ。
――重厚な流線型の船体が、唐突に出現した。
セレスティア軌道監視システムのアラートが鳴り響く。
『未登録物体出現――機体識別:HARRIS TRANSPORT』
「来たあああああ!!」
ダニエルが両手を突き上げる。
「ジャック!!」
エリックも通信機に向かって叫んだ。
通信スピーカーから、激しいノイズの後に、聞き慣れたダミ声が届いた。
『……こちらハリス。聞こえるか』
*
ジャックの視界に、眼下に広がる青いセレスティアの街並みが飛び込んできた。
オーウェンが座席に深々と沈み込む。
「……か、帰ってきた……」
観測局では、帰還した船の記録をサイモンが確認していた。
「外部記録では、消失から六分三十七秒……!」
ヘレンが通信マイクを握る。
「乗員の状態は!?」
『二人とも正常だ。怪我もない』
「向こう側では、何が起きたの!?」
『消えてから戻るまで、ほぼ連続してる感覚だな』
そこへオーウェンの声が割り込んだ。
『ほぼじゃないです!! 俺ずっと生きた心地がしなかったですからね!!』
『それは時間に含まん』
ジャックが平然と返した。
観測局の全員が、緊張のあまり一瞬言葉を失い、それからどっと笑いが弾けた。
ダニエルが力尽きたように椅子へ座り込む。
「船ごと……帰ってきたよ……」
*
けれど、ヘレンだけは笑っていなかった。
彼女は画面に並ぶ三つのデータを見つめていた。
白い花。モップ。ジャックの貨物船。
規模も質量もまったく違う。けれど、起きた現象には共通点があった。
向こう側――歪みの隙間へ入り、通常の座標では追跡できなくなり、それでも戻ってきた。
「……座標じゃないわ」
ヘレンが呟く。
「はい」
サイモンが頷いた。
「モップはゾーイの元へ戻った。ジャックはセレスティアの私たちへ戻ってきた」
ヘレンはUNIT-2のログを指した。
《いる?》
《いる。》
「……繋がっていた『相手』へ、帰ってきたのよ」
アルマのケイトの声が届く。
『……関係そのものが、場所になる……?』
「そう……そういうことよ」
ヘレンは画面から目を離さなかった。
*
その時、けたたましい緊急警報が観測局内に響き渡った。
「博士!! 巨大境界の通過予測が、再計算されました!」
サイモンが叫ぶ。
画面の数字が猛烈な勢いで書き換わっていく。
『19時間』だった予測値が――『11時間』。
さらに数分後には――『7時間』。
「ちょっと待て!! 速すぎる!!」
ダニエルが画面に詰め寄る。
「待ってくれません!! 幾何学的な崩壊が加速しています!」
MOP-1の全自動導入率。
セレスティア:78%
アルマ:71%
残された未導入領域は大きい。今のままでは、絶対に間に合わない。
ヘレンは両惑星の星図を見つめた。
地域ごとのMOP-1による関係維持は進みつつある。
だが、巨大な時空の波が惑星全体を丸ごと呑み込んだ時――この惑星そのものは、どこへ帰ればいいのか?
通信機からケイトの声が届いた。
『……セレスティアと、アルマ』
ヘレンが弾かれたように顔を上げた。
『二つの星は、ずっと繋がってる』
エリックも画面を見つめる。
『最初から……ずっと』
UNIT-2が引き合わせたふたつの世界。
47.2光年離れていながら、距離が「ゼロ」で繋がっているふたつの星。
「互いを使うのよ……!」
ヘレンが呟いた。
「何にですか!?」
サイモンが聞き返す。
「帰還先よ!!」
セレスティアがアルマを、アルマがセレスティアを。
物理的な絶対座標ではなく、切れることのない「絆(関係)」として保持し続ける。
ダニエルが目を丸くする。
「惑星同士で……転送みたいなことをするんですか!?」
「転送じゃないわ! 通過している間も、お互いが『そこにいる』ことを確認し続けるのよ!」
エリックが顔を上げた。
「『いる?』って……?」
「そう!!」
サイモンが凄まじいスピードで打鍵する。
「世界中の全MOPノードを、UNIT-2の関係信号へ統合します!!」
「できるのか!?」
ダニエルが叫ぶ。
「やります!!」
残り時間表示。
『04:12:00』
*
セレスティア港。
ジャックは船から降り、自分の足で冷たいアスファルトを踏みしめた。
一歩、二歩。確かな踏み心地。
端末にエマからの通知。
《待ってる》
ジャックは笑い、返信した。
《帰ってきた。》
すぐ返信。
《家じゃないでしょ》
《まだな》
《じゃあ帰ってきてない》
《厳しいな》
《早く帰ってきて》
ジャックは空を見上げた。
「……はいはい」
*
アルマの夕暮れ。
ノアは自宅で、母親と夕食を囲んでいた。
テレビニュースが、時空同期障害と避難便の停止を報じている。
「他星系への避難船、また全便見合わせなんですって……」
母親がテレビを見つめながら言った。
「うん」
「……怖くない?」
ノアは少し考え、窓の外を見た。
見慣れたアルマの街並みに、ぽつぽつと温かい灯りがともっていく。
「……怖いよ」
「そう……」
「でも」
ノアはご飯を一口口に運んだ。
「……ここが、俺の家だから」
母親は何も言わず、ノアのお皿におかずを少し多めに盛った。
「食べなさい」
「多いよ」
「いいから食べなさい」
*
観測局。
セレスティアとアルマ、二つの世界のMOPノードが、UNIT-2を中心に一つの巨大な「関係網」として統合されていく。
エリックとケイトの通信画面。
『なんだか……すごいことになっちゃったね』
ケイトが笑った。
「最初、文字だけだったのにな」
『《誰かいますか?》だっけ』
「やめろって」
『恥ずかしい?』
「ちょっと」
ケイトが可笑しそうに笑う。
「……ケイト」
『何?』
「明日も、いるか?」
ケイトはほんの少しだけ沈黙し、そしていつもの輝くような笑顔を見せた。
『いるよ』
*
「統合率……81%……!」
サイモンの声が観測局に響く。
『巨大境界到達まで、03:19:00』
ヘレンは二つの惑星を一本の青い光で繋ぐモニターを見つめた。
47.2光年。
通常の宇宙では果てしない絶望の距離。
だが――いま、二つの世界の間にある距離は「ゼロ」だ。
「……始めるわよ」
ヘレンが静かに告げた。
セレスティアからアルマへ。
惑星規模の時空を超えた、たった三文字の問いかけが放たれた。
《いる?》
47.2光年先、アルマからの返信。
《いる。》
(第20章 了)




