第19章 惑星を通す
朝。
アルマの野生調査施設。
モップは、冷たい床の上に静かに佇んでいた。
正確には――座っているのか、休んでいるのかすら、ゾーイ・ベネットには分からない。
ただ。
トントン。
少し待つ。
トントン。
また、待つ。
トントン。
ノアが、広げていた宿題のノートから顔を上げた。
「……今日ずっとそれだね」
「うん」
「誰か呼んでるのかな」
「分からない」
モップは答えず、また床を叩いた。
トントン。
*
ゾーイは端末で、モップの内部エネルギー周期を確認した。
異常はない。
けれど、床を叩く不定期なノッキング音の間隔が、昨日までとは明らかに異なっていた。
一定ではない。
少しずつ、ほんの僅かずつ、間隔が短くなっている。
ゾーイは手元のログに記録を書き加えていく。
ノアが首を傾げた。
「……時計みたい」
「時計?」
ゾーイが顔を上げる。
「ほら」
ノアが指先で床を叩いて見せた。
トントン。
待つ。
トントン。
「なんか……時間を測ってるみたい」
ゾーイはモップを見つめた。
「時間を測るなら……自分の中に時計があるでしょ」
「じゃあ」
ノアが真顔で言った。
「……合わせてるのかな」
*
ゾーイの手がピタリと止まった。
「……何に?」
「知らない」
ノアはあっけらかんと宿題に向き直った。
「でもモップって、普通の時計より『先』に分かるんでしょ?」
*
その一言は、十分後、アルマのケイトへ届けられた。
そしてさらに――47.2光年先のセレスティアの観測局へと届いた。
*
セレスティア。
サイモン・グラントが画面を見つめたまま呟く。
「……合わせている」
画面には、境界の手前に立ち、内部周期を自力で変化させ、無事に境界を跨いでいくモップの行動データが映し出されていた。
変える――安定する。
また次の境界で、変える――安定する。
ヘレン・カーターが言った。
「MOP-1と同じ理屈よ」
「逆ですよ、博士」
ダニエルがすかさず訂正する。
「MOP-1が、モップの真似をしてるんです」
「そうだったわね」
ヘレンは小さく笑った。
*
世界中で、新プロトコル『MOP-1』への切り替え作業が不休で続けられていた。
巨大な地熱発電所、地下水処理プラント、高度医療病院、軌道港、大気循環ドーム。
古い設備がある現場では、技術者たちが裏蓋を開け、手作業で配線を打ち直していく。
『絶対的な標準時計』への依存を断ち切るために。
*
アルマの地方病院。
古い医療管理装置の前で、技術者が汗をぬぐっていた。
「これ、何十年前の型だ……!?」
そばで見守っていた看護師が声を上げる。
「壊さないでくださいね!」
「壊れてないから困ってるんです!」
隣の若い技術者が、細い配線を一本、慎重にニッパーで切り離した。
標準時同期――オフ。
MOP-1局所制御――オン。
不規則に点滅していた心拍モニターが、ふっと安定した緑色の波形を取り戻す。
看護師が胸を撫で下ろした。
「……通った!」
*
セレスティア、観測局。
サイモンが次々と報告をまとめる。
「MOP-1導入率。セレスティア、61%。アルマ、57%。全域完了までの予測時間……31時間」
ダニエルが息を吐く。
「半分超えたな!」
「『半分しか』です」
サイモンの答えは厳しかった。
*
ヘレンは数字ではなく、両惑星の星図と境界マップを見つめていた。
MOP-1が導入された青い領域。
まだ取り残されている赤い領域。
そして、押し寄せる無数の大小の境界線。
そこへ、ケイトから緊急通知が届いた。
《博士、モップがいた施設の詳細な局所境界データを送ったよ》
画面に展開される「入れ子」構造の空間。
施設内の廊下――数十センチ。
屋外――数十メートル。
地域――数十キロ。
宇宙空間――数万キロ。
スケールはバラバラ。
だが、時空の折りたたまれ方は、すべて幾何学的に相似形を描いていた。
ヘレンが低く呟く。
「……世界が、入れ子構造になっているのね」
*
アルマ、野生調査施設。
突然、警報が鳴り響いた。
ゾーイが跳ね起きる。
モップが、施設の外へ出ようとしていた。
「モップ!?」
モップはゾーイの制止を無視し、滑らかな流体のように屋外の草地へと滑り出していく。
十秒。
ノアが後ろから叫ぶ。
「モップ! どこ行くの!?」
三十秒。
モップが草地の中央でピタリと足を止めた。
周囲には何もない。
ゾーイは屋外の局所境界線を踏み越え、駆け寄った。
自分には何の変化も起きない。
「モップ!!」
*
一分。二分。
ノアが地面にしゃがみ込んだ。
「ゾーイ、待って……!」
「何!?」
「静かに……!」
二人とも息を殺す。
乾いた風。
草の擦れる音。
遠くを走る車両の駆動音。
ノアが青ざめた顔で呟いた。
「……聞こえない」
「何が……?」
「『トントン』が……聞こえない」
*
ゾーイの表情が一変した。
手元の生体端末を見る。
『UNKNOWN ORGANISM A — SIGNAL LOST』
モップの生体信号、消失。
位置座標、不明。
内部周期パルス、受信不可。
「……施設に戻るよ!!」
「俺も行く!」
「ノアは離れないで!!」
*
セレスティア、観測局。
けたたましいアラートが鳴り響いた。
エリックが端末を見て叫ぶ。
「モップの信号が消えた!?」
ケイトから画像が飛んでくる。
モップが消え去った、誰もいない静かな草地の映像。
ヘレンが通信マイクに向かって尋ねた。
「ケイト! 前回の実験と同じ地点!?」
『ううん、違う場所! 距離も前回の三メートルどころじゃない……まだ戻ってこないの!』
サイモンが割って入る。
「時計の同期ログは!?」
『生体側の信号そのものが完全に途絶してる!』
ケイトの声にも焦りが滲んでいた。
*
アルマ、野生調査施設。
ゾーイとノアは、モップがいつも寝そべっていた物質分析装置の測定台の前にいた。
空っぽの台。
ノアは床にポツンと座り込んだ。
「……ノア、何してるの?」
ゾーイが尋ねる。
「待ってる」
「何を……」
「返事」
ノアは、指先で静かに床を叩いた。
トントン。
沈黙。
トントン。
*
返事はない。
解析担当者たちが青ざめた顔で駆け回る。
地下探査レーダー、大気音響、電磁波スペクトル、全方位センサー。
何をどう探しても、モップの存在を示す数値は「ゼロ」だった。
ノアは諦めず、指を叩き続けた。
トントン。
トントン。
*
47.2光年先、セレスティア。
古い通信機『UNIT-2』のスピーカーから、ジジッ……という微小なノイズが弾けた。
ダニエルが画面を二度見する。
「……何だこれ?」
アルマのケイトとの通常回線ではない。
文字でも、画像でも、音声でもない――極めて微弱で、不規則な周期信号。
*
トントン。
*
ダニエルが叫んだ。
「博士!!」
ヘレンとサイモンが駆け寄る。
画面に波形が表示された。
一回打たれ、間が空き、もう一回打たれる。
その間隔は、アルマでノアが床を叩くタイミングと、寸分狂わず一致していた。
だが、ノアが叩いた音そのものを受信しているわけではない。
UNIT-2が捉えているのは、別の周期信号だった。
エリックの目が大きく見開かれた。
「……モップだ!!」
ヘレンが画面に顔を近づける。
「まだ断定は……」
「これ絶対モップだろ!!」
エリックの声が観測局に響く。
ヘレンは波形を過去の生体ログと重ね合わせた。
完全一致。
モップ固有の、あの頑固でゆったりとした内部周期パルスだった。
ヘレンは、もう否定しなかった。
*
ケイト経由でゾーイへ通知が飛ぶ。
《セレスティアのUNIT-2に、モップの周期信号が直接受信されている!!》
ゾーイはその文字を震える手で見つめた。
ノアが顔を上げる。
「……いたの!?」
「分からない……でも、返事……届いてるって」
「どこに!?」
「……セレスティアに」
ノアはニッコリと笑った。
「なんだ、いるじゃん!」
ゾーイは笑えなかった。
涙が溢れそうになるのを必死で耐え、床を見つめた。
*
セレスティア、観測局。
ヘレンは腕を組み、眉間にシワを寄せていた。
「……おかしいわ」
ダニエルが振り向く。
「何がですか! 返事が届いたんだから万々歳でしょ!」
「UNIT-2は、セレスティアとアルマを繋ぐ通信機よ。モップはアルマにいたのよ? なのに――この信号は、アルマの通信基地を経由してきていないわ!」
サイモンが息をのむ。
「……じゃあ、どこから送られてきているんです!?」
ヘレンはしばらく画面を見つめ、静かに答えた。
「『場所』として表現できない領域よ」
彼女は机の上にあった紙を引き寄せ、二つに折った。
そこに『A』と『B』を書き込む。
「私たちは今まで、この紙の『表面』だけを見ていたのよ」
エリックが尋ねる。
「モップは……どこへ行ったんですか?」
ヘレンは、折られた紙の『厚み(隙間)』を指で強く叩いた。
「たぶん……この厚みの中を、歩いたのよ」
*
通信スピーカーから、アルマのノアの声が響いた。
『……じゃあさ。もう繋がってるんじゃない?』
観測局の全員が静まり返った。
ヘレンがマイクに向かう。
『……何がかしら?』
『そこだよ。モップがいなくなった場所。アルマから送ってないのにセレスティアで聞こえるんなら、そこ、もう最初から繋がってるじゃん』
ヘレンは何も言えなかった。
ただ、その言葉の真実味に背筋が震えていた。
*
アルマ、野生調査施設。
ゾーイは、モップが消えた草地に立っていた。
ノアも隣にいる。
ゾーイは地面にしゃがみ込み、指で叩いた。
トントン、トン。
短い間。
トントン。
計測用でも、実験用でもない。
一番最初の日、あの岩陰でゾーイがモップへ贈った、愛おしい呼びかけのリズム。
セレスティアのUNIT-2の画面で、波形が劇的に変化した。
エリックが叫ぶ。
「波形が変わった! ゾーイのリズムに同調し始めてる!」
*
次の瞬間――草地の上で、静かに風が舞った。
ノアが指を差す。
「ゾーイ……!」
何もない空気が、ふわりと光を屈折させる。
ゆらゆらと結ばれる馴染み深い輪郭。
モップが、そこに姿を現した。
ゾーイは走り出し、途中でハッと足を止めた。
いきなり触っていいのか分からない。
けれど、モップの方から滑らかに近づき、ゾーイの足元へ身体をすり寄せてきた。
ゾーイはしゃがみ込み、その温かい身体を抱きしめた。
「……おかえり、モップ」
ノアが施設の記録ログを確認し、叫んだ。
「消失時間、31分18秒!」
そして、帰ってきたモップの内部記録データがセレスティアへ飛ばされた。
サイモンが数値を二度見する。
「……モップの内部経過時間……『0.00秒』です」
外の世界では三十一分。
けれど、モップの内部記録には、その間の時間経過が一切残されていなかった。
時間が止まっていたのか。
それとも、そもそも時間の流れ方が違っていたのか。
今はまだ、誰にも分からない。
ゾーイが通信マイクへ向かって、誇らしそうに笑った。
「この子は……逃げたのでも、壊れたのでもありません。私たちが『壁』だと思って塞ぎ込んでいた場所を……ただ、普通に歩いただけなんです」
*
セレスティア。
ヘレンは立ち上がり、全員を見回した。
「サイモン。MOP-1の目的を書き換えるわよ」
サイモンが顔を上げる。
「……書き換える?」
「境界を避けるためでも、通過に耐えるためでもないわ。――関係を、維持するのよ」
絶対的な時間も、絶対的な位置も要らない。
街と街、病院と電力、人と人。
互いの「関係(絆)」さえ切らさなければ、世界は崩壊しない。
少なくとも、世界を支える仕組みを守り続けることはできる。
ヘレンは両惑星を映した画面に目を向けた。
「惑星を通す。そのために必要なのは、歪みを消すことじゃない。歪みの向こう側でも、すべてを繋ぎ続けることよ!」
それが実現できるかどうかは、まだ分からない。
だが、目指すべきものは見え始めていた。
*
その頃、セレスティア港の外縁宙域。
ジャック・ハリスの貨物船は、最後の中継機器を設置し終えていた。
「船長! 燃料ギリギリです! 帰れなくなりますよ!」
オーウェンが計器を見ながら叫ぶ。
「帰るさ」
ジャックは落ち着いた声で答えた。
「根拠は!?」
オーウェンが食い下がる。
ジャックは操縦桿を強く握り直した。
「帰る場所があるからだ!」
娘のエマが待っている。
ジャックは貨物船を旋回させ、帰還航路へ向けた。
だが、その前方に、激しく拡大する巨大な歪みの境界線が立ち塞がった。
しかも、境界は一つではない。
複数の歪みが周囲から迫り、帰還可能な航路を次々と塞いでいく。
以前の試験飛行で通過した、単独の境界とは状況が違っていた。
通信機からサイモンの切迫した声が響く。
『ジャック! 進路変更を! 囲まれています!』
境界到達まで、あと十一分。
ジャックは窓の外の変わらぬ星々を見つめ、不敵にニヤリと笑った。
「そうか。――じゃあ、通るぞ」
MOP-1、全系起動。
(第十九章 了)




