第18章 七十二時間
朝。
セレスティアの街は、昨日と何も変わらない姿で朝を迎えた。
通勤車両が走り、店が開き、子供たちが学校へ向かう。空を横切る輸送機が、白い尾を引いていく。
誰も――空間そのものが静かに崩れ始めていることなど、知る由もなかった。
*
観測局。
サイモン・グラントは、一睡もしていなかった。
壁一面のモニターには、惑星インフラの稼働状況が並んでいる。
電力、交通、航法、通信、医療、物流、気象。
どれも今は、正常に動いていた。
だが、画面の隅には予測カウントダウンが表示されている。
『71:18:42』
ダニエルが静かに入ってきた。
「それ」
「はい」
「本当に、あと七十二時間?」
「違います」
サイモンは別の予測曲線を画面に展開した。
「七十二時間後に世界が一斉に止まるわけではありません。――場所ごとに、個別に壊れ始めるんです」
*
最初は自動運転の制御回路。
次に惑星間航法、送電網、通信網、時刻認証、金融決済、病院の分散医療システム。
機械そのものが物理的に壊れるわけではない。
ただ――互いに「同じ時間」と「同じ場所」を共有できなくなる。
サイモンが吐き捨てるように呟いた。
「今の社会システムは、すべてこれで繋がっています」
「……時計で?」
「時計と、位置です。当たり前すぎて、誰も意識していないだけで」
*
ヘレン・カーターが入ってきた。
「公的発表を行うわ」
「七十二時間を?」
ダニエルが尋ねる。
「数字は出さないわ」
「なぜです? 事実です」
サイモンが反論した。
「確定していないからよ。危険は伝える。分からないものは『分からない』と正直に言うわ」
ヘレンは画面の数字を静かに見つめた。
「七十二時間という数字を時計に出した瞬間、人はそれを真実だと思い込んでパニックになるのよ」
*
数時間後。
セレスティアとアルマの双方で、広域アナウンスが同時に流された。
『広域時刻同期障害に伴う注意喚起』
長距離航法の制限。
自動交通の一部停止。
重要インフラの局所運用への切り替え。
不要不急の惑星間移動の禁止。
優先されるのは、病院、発電、給水、食料だった。
*
アルマのスーパーマーケット。
客の数が急速に増え始めていた。
棚から保存食、ミネラルウォーター、バッテリーが次々と消えていく。
ケイトはその横を、いつもと変わらない様子で歩いていた。
手に持っているのは――黄色いパン。
隣を歩くミアが呆れ果てる。
「こういう緊急時でも、それ買うの?」
「朝ごはん」
「保存食は!?」
「家にある」
「本当に!?」
「……たぶん」
「確認して」
ケイトは手に持った黄色いパンの包装をじっと見つめた。
「これも保存できそう」
「三日もたない!!」
*
通信が入った。
エリックだ。
《何食べてる》
ケイトは返信する。
《黄色》
《世界終わりそうなのに変わらんな》
ケイトの指が止まった。
《……終わらないよ》
少し間が空いた。
《うん》
*
アルマの生態調査施設。
ゾーイは、モップの内部周期を観察していた。
モップは廊下の床を歩いている。
トン。
歩く。
止まる。
また、トン。
昨日までなら、境界線へ近づくだけで身体を縮めていた。
だが――今日は違っていた。
境界の手前で、一瞬だけ身体を縮める。
数秒。
内部周期のパルスが目まぐるしく変化し――やがて身体が元に戻った。
そのまま、何事もなかったかのように境界線を越えて進んでいく。
「……慣れてる?」
ゾーイが呟く。
「何に?」
ノアが尋ねた。
「場所のズレに……自分から合わせに行ってる」
*
モップは昨日の線を越えて進む。
一瞬、輪郭が揺れ、消えかける。
だが――今回は消えない。
内部周期を自分で変えることで、歪んだ場所の向こうへ、普通に歩いていく。
ノアが目を輝かせた。
「……自分で合わせてる?」
ゾーイはその様子をデータにまとめ、セレスティアへ送った。
*
セレスティア、観測局。
データを受け取ったサイモンが、画面を食い入るように見つめた。
「……合わせなければいいんだ」
ダニエルが首を傾げる。
「は? 時計をバラバラにするってことか?」
「違います!」
「どう違うんだよ」
サイモンは興奮した様子で画面を指した。
「『唯一の正しい時計を決める』という固定観念を捨てるんです! 電力区画Aはその場所の時間、病院区画Bはその場所の時間、交通区画Cはその場所の時間で動かす。それぞれの場所では何一つ問題なく動きます。互いに通信する時だけ、その瞬間のお互いの時間のズレを計算して、リアルタイムで変換するんです!」
ダニエルは腕を組み、怪しむように片目を細めた。
「……つまり、病院は病院の時計、電車は電車の時計で勝手に動いて、会話する時だけズレを計算すればいいってことか?」
サイモンは眼鏡の奥で目を瞬かせ、ゆっくりと頷いた。
「……概念としては、概ねその通りです」
「そんなんで、本当に街が動くのかよ?」
サイモンは腹を括ったように言い放った。
「今のプログラムでは不可能です! 完全な新プロトコルを組む必要があります!」
ヘレンが即座に言った。
「作るのよ」
「七十二時間で!?」
「もっと短いかもしれないわ」
サイモンは最新の予測クロックを見た。
『68:03:11』
「……そうですね。やるしかありません」
*
新プロトコルの仮称。
『MOP-1』
モニターに、大きな太文字で表示される。
通信画面の向こうで、ゾーイが手を上げた。
『……あの、待ってください』
「何かしら?」
ヘレンが応じる。
『なんでモップなんですか?』
サイモンが慌てて口を開いた。
「モデル・オブ・フェーズ……マトリクス・オシレーション……」
「今考えただろ」
ダニエルが突っ込む。
「……はい」
ゾーイは可笑しそうに笑った。
『いいです、モップで』
*
世界中の技術者へ、新仕様書が一斉送信された。
指示は一つ。
『全員を同じ時計に合わせようとするな』
*
最初の現場実証試験。
セレスティアの、人口十二万人の小さな都市区画。
新しい制御システムを、一から作る時間はなかった。
サイモンたちは既存の局所制御プログラムを基盤に、各区画の時刻差を相互変換する機能を組み込んでいた。
完成したのは、必要最低限の機能だけを備えた試験版。
それでも、実際の都市で動かしてみなければ、使えるかどうかは分からない。
電力、給水、病院、交通、通信。
外部の標準時から、一斉に切り離す。
サイモンの指が実行ボタンの上で止まった。
「……切ります」
「やって」
ヘレンが短く答えた。
切断。
一秒――何の変化もない。
二秒――交通制御画面に警告。
三秒――病院システムに同期警告。
四秒――電力網に周波数補正表示。
「まずいか!?」
ダニエルが叫ぶ。
「待ってください!」
MOP-1が起動した。
各システムがそれぞれの「局所時刻」を取得し、リアルタイムの相互変換を開始する。
交通、復帰。
病院、復帰。
電力、安定。
通信、復帰。
サイモンがモニターを見つめる。
画面の時計は、すべてバラバラだった。
0.3秒ずれ、0.8秒ずれ、1.1秒ずれ。
場所によって、まったく一致していない。
なのに――街は、何事もなく動いている。
窓の外。
信号機がスムーズに切り替わり、水道から水が出る。
病院の高度医療機器が正常に稼働し、列車がゆっくりと線路を滑っていく。
「……動いた」
ダニエルが呟いた。
「……はい」
「時計、バラバラなのに?」
「はい」
ダニエルがサイモンの顔をじっと見た。
「お前、大丈夫か?」
「……気持ち悪いです」
ヘレンが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「慣れなさい」
*
アルマ側でも、小規模居住区で同じ試験が成功を収めた。
ケイトは自分の端末の時計を見る。
隣の壁時計と、0.6秒ずれている。
「これ、直さなくていいの?」
ミアが尋ねる。
「直すと壊れるよ」
「嫌だなあ、何か気持ち悪い」
「サイモンには言わないでね。もっと嫌がるから」
*
その頃、セレスティア港の格納庫。
ジャック・ハリスは貨物船の下にいた。
整備員が新しい制御装置を取り付けている。
「何だ!これは?」
ジャックが尋ねる。
『MOP-1です』
通信越しにサイモンが答えた。
「モップ?」
『説明すると長いです』
「掃除?」
『違います』
「犬?」
『違います』
『モップです。』
「分からん」
ジャックは船内の新しい航法画面を開いた。
外部時間に依存しない局所航法。
絶対位置は表示されない。
「絶対位置がない」
『今は信用できません。目的地との相対関係だけ表示します』
ジャックは少し笑った。
「そっちの方が分かりやすい」
『本気ですか?』
「運ぶ仕事ってのは」
ジャックはセレスティアを指した。
「ここから」
次に目的地を指す。
「ここへ行くだけだ」
*
試験飛行。
乗り込むのはジャック一人ではない。
副操縦士のオーウェン、技術者、そして観測機器。
境界の手前。
MOP-1作動。
外部時計がずれる。
船内時計は独立したまま、目的地との関係をその都度更新していく。
MOP-1は、空間の歪みそのものを消す装置ではない。
異なる場所で生じる時間と位置のズレを、その都度計算し直す仕組みだった。
外部の基準が狂っても、船内の航法を維持する。
ただし、実際に境界を通過できるかどうかは、まだ誰にも分からない。
「外部位置、信用できません」
オーウェンが報告する。
「見るな」
「怖いこと言わないでください」
「俺も怖い」
オーウェンがジャックを見る。
「言うんですね」
「怖くないとは言ってない」
*
境界、通過。
一瞬、星がわずかにずれる。
だが、船体は正常。
船内時計も連続している。
前回の接近試験では、外部位置情報が消失し、船内時計の記録にも欠損が生じた。
今回は違った。
外部との1.8秒差をMOP-1が自動変換し、航法を維持している。
船内の時計は、一秒も途切れていなかった。
管制室のサイモンが叫んだ。
「通った!」
『船は?』
ヘレンの声。
『正常。聞こえてる』
ジャックが応じる。
エリックが息を吐いた。
*
『このまま、もう少し先まで調べていいか?』
ジャックが管制室に尋ねた。
『ダメよ。すぐに帰還しなさい』
ヘレンが即座に答える。
『せっかくここまで来たんだがな』
『ジャック。聞こえなかったの?』
『冗談だよ』
ジャックは肩をすくめた。
隣の操縦席で、オーウェンが呆れた顔をする。
「船長、半分は本気でしたよね?」
「七割だ」
「増えてるじゃないですか!」
ジャックは笑いながら、船を帰還航路へ向けた。
*
夕方。
観測データが集まっていた。
境界が増えている。
いや、動いている。
ケイトが長期波形を解析する。
「ヘレン」
『何?』
「境界の速度、出た」
『どっちへ?』
ケイトは答えなかった。
地図。
アルマを取り囲む境界線が、近づいている。
セレスティア側の別の巨大境界も、こちらへ近づいていた。
サイモンの予測。
セレスティア:56時間
アルマ:59時間
「七十二じゃなかったの?」
ダニエルが尋ねる。
「予測が変わりました。悪い方にです」
*
世界規模の導入が始まった。
MOP-1。
都市、発電所、病院、軌道施設、交通、通信。
一つずつ、惑星標準から切り離していく。
だが、問題があった。
数十億の機器。
古い設備。
対応できない地域。
人手、そして時間。
圧倒的に足りなかった。
*
ノアは施設の窓から、作業車両が何台も走っていくのを見ていた。
「ステーションに避難する人もいるって」
「うん」
ゾーイが答える。
「俺たちも?」
「まだ決まってない」
「地球、行ったことない」
「私も一回だけ」
ノアが外の空を見上げた。
「ねえ、ゾーイ」
「何?」
「アルマから地球に行くのって……『帰る』って言うの?」
「人によるんじゃない? 学校の先生は母星って言うけど」
モップが滑らかに近づき、ノアの通学スニーカーのつま先にそっと触れた。
トン。
ノアは足元のモップを見つめ、静かに言った。
「……俺、ここで生まれたし。――帰るなら、ここじゃないの?」
*
夜、セレスティア港。
ジャックは操縦席から、娘のエマと通信していた。
『ニュース見たよ』
「ああ」
『……危ないの?』
以前のジャックなら、「大丈夫だ」と誤魔化したはずだった。
今夜は違った。
「……少しな」
『少し?』
「ちょっと嘘ついた。危ない」
エマが黙り込む。
『……帰ってきてよ』
「帰る」
『三日で帰るって言ったじゃん』
「言った」
『あと二日だよ』
「分かってる」
『仕事断るって言ったのに……』
ジャックの返事が遅れる。
『……また仕事?』
「……うん。ごめん」
長い沈黙の末、エマの震える声が聞こえた。
『……何するの?』
「機材を運ぶ。それだけだ」
『危ない?』
「たぶん」
『たぶん禁止!!』
ジャックは少し笑った。
「危ないよ」
『……帰ってくる?』
今度は一秒の迷いもなかった。
「絶対」
*
エリックとケイトは、ノイズの多い動画通信で繋がっていた。
画面が激しく揺れる。
『そっち何パーセント?』
「まだ二十三」
『こっち十九』
「遅いな」
『惑星丸ごとだよ』
「分かってる」
二人とも、働きながら話していた。
ケイトがふと手を止め、画面を見つめた。
『……エリック』
「ん?」
『もし間に合わなかったら……』
エリックの手が止まる。
ケイトは別の画面を見た。
花の記録、モップ、境界。
『……いや、やっぱいい』
「言って」
ケイトは少し黙り、静かに言った。
『会いたかったなって』
エリックは画面を見つめる。
「過去形にするなよ」
『まだ会ってないし』
「会うから」
『根拠』
エリックは少し考えた。
「花」
ケイトが笑う。
『またそれ』
「花が行けた」
『うん』
「モップも」
『うん』
「だから」
『人間は?』
「そのうち絶対に」
ケイトは画面の向こうで、少しだけ笑った。
『雑』
*
深夜。
ヘレンは観測局の窓から、セレスティアの街を見つめていた。
灯り。
何も変わらない、いつもの街に見える。
サイモンがやって来た。
「博士」
「何?」
「MOP-1の導入率、上がってます」
「間に合う?」
「分かりません」
「そう」
サイモンは巨大境界の予測を見た。
「これが惑星を通過したら……どうなると思います?」
「分からない」
「最悪は?」
「惑星が消える、は考えなくていい」
サイモンが少し安心する。
「おそらく」
「・・・博士」
*
ヘレンはモップの映像を見た。
境界で止まり、内部周期を変え、通過する。
「この子は……境界を消してない。逃げてもいないわ」
「はい」
サイモンが頷く。
「通ってる」
「惑星も?」
ヘレンはセレスティアとアルマ、二つの世界を見つめた。
そこには数十億の人間がいる。
街があり、水があり、空があり、家がある。
そして、帰る場所がある。
「逃がすんじゃないわ」
ヘレンが言った。
「惑星を通す」
*
予測カウントダウン。
セレスティア:55:41:09
アルマ:58:22:31
数字は、静かに減り続けていた。
(第十八章 了)




