第17章 外側へ
最初の無人探査機が、セレスティアの軌道基地を離れた。
機体は驚くほど小さく、人間は乗っていない。
搭載されているのは、推進器、独立高精度時計、位置計測器、そして通信ユニット。ただそれだけだった。
目的も極めて単純だった。
世界を呑み込みつつある歪みが、どこで「切れる」のか。
その境界線を探すこと。
管制室の後方で、貨物船長のジャック・ハリスが腕を組み、モニターを見つめていた。
ヘレン・カーターが振り返る。
「あなた……船の待機命令が出ているのに、帰らなくていいの?」
「船が飛ばなきゃ帰れんだろう」
「だからって、ここで管制班の邪魔をする必要はないでしょう」
「暇なんだよ」
ジャックは画面に映る探査機の軌跡を指差した。
「それに……飛ばし方が下手だ」
管制担当者がムッとして振り向く。
「全自動プログラムの標準航路です」
「だから下手だと言ってるんだ」
*
探査機が距離を伸ばしていく。
一万キロ――正常。
二万キロ――航法時計の微小補正が発生。
三万キロ――位置情報の自動計算にズレが生じ始める。
サイモン・グラントが身を乗り出した。
「来ました」
探査機自体の機能は、すべて正常だった。
だが、セレスティアの管制室から見た探査機の位置と、探査機自身が計算する位置が、じわじわと食い違い始めていた。
ジャックが低い声で命じる。
「外部基準との同期を切れ」
管制担当者が反論する。
「外部基準を切ったら位置精度が落ちます!」
「今、その外部基準と探査機が喧嘩してるんだろうが」
サイモンがヘレンを見る。
ヘレンは即座に頷いた。
「切りなさい」
外部同期、停止。
探査機は自らの慣性航法のみで進み始めた。
位置ズレの警告表示が、フッと消え去る。
ジャックが鼻で笑った。
「機械は悪くない。基準同士がケンカしてただけだ」
「……仰る通りです」
サイモンが悔しそうに認めた。
*
探査機は、さらに遠くへ進んでいく。
セレスティアの親時計と、探査機内の時計の差が開き続ける。
だが――ある距離に達した瞬間。
差の「増え方」が、ピタリと止まった。
サイモンが目を見開く。
「……待ってください!」
「どうしたの!?」
「クロックの補正変化率がゼロになりました! 差の増加が停止しました!」
ヘレンが画面へ顔を寄せる。
「その座標は!?」
画面に数字が打ち出される。
探査機を少しだけ逆方向、つまり内側へ戻すと、再び補正率が跳ね上がる。
もう一度外側へ進めると、ピタリと止まる。
サイモンが震える声で呟いた。
「……境界があります。ここに、明確な『壁(端)』が存在します!」
ダニエルが叫んだ。
「歪みの……出口か!?」
「まだそうとは言えないわ」
ヘレンは、抑えきれない興奮を隠すように言った。
「けれど……私たちが閉じ込められている『領域の端』であることは間違いないわ」
*
アルマ側でも、別の方向へ何機もの探査機が放たれた。
一機、二機、五機、十機――。
マップ上に、変化率が止まる「境界点」が次々と打ち込まれていく。
アルマの環境解析部。
ケイトは地形ホログラムの上に、探査機から届いた境界データを重ね合わせていた。
ミアが覗き込む。
「何か形が見えてきた?」
「まだ……点を繋げようとすると、変になるの」
「綺麗な丸い球体とかじゃないの?」
「全然違う……平らな壁でもない」
ケイトは三次元のホログラムをくるくると回転させた。
高さを加え、軌道データを加え、大気圏外の観測点を重ねる。
「……三次元の形として成立しないの」
*
セレスティアのヘレンも、同じ不気味な結論に行き着いていた。
「繋がらないのよ」
「測定誤差ではありませんか?」
「誤差にしては大きすぎるわ。私たちが強引に『三次元の箱』の中に、この境界線を当てはめようとしているから歪むのよ」
エリックが尋ねる。
「三次元じゃないなら……何なんですか?」
「少なくとも、私たちが描ける球体や平面ではないわね」
ジャックが腕を組んだまま言った。
「船から見たらどうなんだ?」
全員がジャックを見た。
「理論は知らん。だが、俺たちの乗る船は三次元の宇宙しか飛べないんだ。実際に行ってみれば分かるだろ」
ヘレンが即座に釘を刺す。
「有人船はまだ絶対にダメよ」
「乗るなんて言ってない」
「顔が『俺が飛ぶ』と言っているわ」
エリックが思わず吹き出した。
「何がおかしい?」
「いや、俺も前に、まったく同じことを言われたなと思って」
*
アルマの野生調査施設。
モップは静かな廊下を、滑らかに滑るように歩いていた。
ゾーイが半歩後ろを静かについていく。
ノアが退屈そうに声をかけた。
「また散歩?」
「施設内の行動観察!」
モップがピタリと足を止めた。
壁の前だった。
トントン。
ゾーイも足を止める。
昨日まで何度も通っていた、何もない普通の白い壁。
モップが右へ一歩滑る。
身体がギュッと硬く、小さく縮んだ。
左へ一歩戻る。
身体がふわりと柔らかく広がる。
右へ進む――縮む。
左へ戻る――広がる。
ノアが可笑しそうに笑った。
「何あれ、一人ダンス?」
ゾーイは笑わなかった。
端末を床へ置き、モップの内部エネルギー周期をリアルタイムで測定する。
右――パルスが激しく乱れる。
左――パルスが滑らかに安定する。
ゾーイは息をのんだ。
「……ここにある」
「え?」
ゾーイはポケットからマーカーを取り出し、床に一本の目立たない線を引いた。
線の手前――モップは普通に広がる。
線を一センチでも越える――身体が極限まで縮む。
ノアの顔から、冗談めかした色が消えた。
「……何があるの、そこに?」
「……分からない」
ゾーイはまっすぐ線を見つめた。
「分からないけど……探査機が何万キロ先で見つけてる『境目』が、ここにもある」
*
ゾーイからケイトへ、そのマイクロデータの位置が送られた。
ケイトは息をのんだ。
探査機が宇宙空間で観測している「何万キロ単位の境界」。
そして、モップが足元で感じ取っている「数センチ単位の境界」。
スケールはまったく違う。
それなのに、時空の折りたたまれ方を示す幾何学構造は、完璧な相似形を描いていた。
「モップは……この歪みの『壁』を、全身で知ってるんだ……」
*
その日の夕方。
セレスティア側で、ついに「有人の境界接近試験」が許可された。
ただし、境界を絶対に越えないこと。
手前ギリギリで踏みとどまり、データを収集すること。
パイロットに選ばれたのは、ジャック・ハリス。
副操縦士のオーウェンが、呆れ顔でシートベルトを締める。
「……結局、乗るんですね」
「仕事だからな」
「『暇だから』の間違いじゃ?」
「黙ってプリチェックしろ」
ヘレンの声が通信に入った。
『ジャック。境界手前で必ず停止しなさい。絶対に越えてはダメよ』
「聞こえてるよ。越えない」
*
発進。
大気圏を抜け、漆黒の宇宙へ踊り出る。
船内は不気味なほど静かだった。
ジャックは自動航法をすべて切り、手動の慣性航法と船内時計のみを信頼して操縦桿を握る。
境界予測地点まで、あと三千キロ。
位置情報の自動補正が発生。
二千キロ。
セレスティアの親時計との差が開き始める。
千キロ。
オーウェンの声が強張った。
「外部位置測定と、自船計算の位置が七百メートルずれました!」
「船内の数値は?」
「正常です!」
五百キロ――外部時計差、0.31秒。
二百キロ――外部時計差、0.52秒。
百キロ――外部時計差、0.84秒。
「船長!!」
「見えてる!」
五十キロ地点。
ヘレンの叫び声が響く。
『ジャック! 停止して!!』
「減速!!」
ジャックは逆噴射レバーを限界まで引いた。
激しいGが二人を襲う。
その瞬間――!
航法画面の自船プロットが、完全に消滅した。
外部通信が激しいノイズに呑み込まれる。
オーウェンが悲鳴を上げた。
「位置消失!! 外部とのリンクが完全に切れました!!」
「落ち着け! 画面を見るな! 窓の外と船内の慣性儀だけを見ろ!」
ジャックはメインモニターを叩き消した。
暗い窓の外に広がる、静寂の星々。
「船内速度、正常。姿勢、制御下。俺たちは飛んでる」
一秒、二秒――。
フッとノイズが晴れ、外部通信が復帰した。
『ジャック!! ジャック、応答しなさい!!』
ヘレンの悲痛な声。
ジャックはゆっくりとマイクを引き寄せた。
「……生きてるよ」
『今、どこにいるの!?』
「そっちの画面で教えてくれ」
管制室が静まり返った。
サイモンが青ざめた顔で画面を凝視する。
船の現在地――予測停止地点から、横へ十二キロも飛んだ場所にプロットされていた。
けれど、船内の航海日誌ログには「完全な直進」が記録されていた。
そして――サイモンの手がピタリと止まる。
「……ジャックさん。船内時計のログを見せてください」
オーウェンが船内時計のデータを開く。
連続して刻まれている数字。
だが――一箇所だけ、タイムスタンプが不自然に跳んでいた。
『欠損時間:1.02秒』
ジャックが眉をひそめる。
「……一秒、消えたのか?」
『そう見えます……あなたたち自身の時間から、一秒が消失しています……』
ヘレンの硬い声。
『……すぐに戻りなさい』
ジャックは今度は反論しなかった。
「了解。帰還する」
*
同時刻、アルマの野生調査施設。
モップが静かに廊下を進んでいた。
床に引かれた、あのマーカーの線。
ゾーイとノアが見守る。
モップは線の手前で足を止めなかった。
そのまま、ゆっくりと一歩を踏み出す。
境界を越えた。
身体がキュッと極限まで縮み――
フッと、その姿が完全に消失した。
*
ゾーイは、息をすることすら忘れて固まった。
ノアの顔から血の気が引いていく。
「……モップ……?」
何もない床。
壁も、光も、影もない。
ただの空虚な空間。
一秒。二秒。三秒――。
三メートルほど離れた廊下の奥で、空間がふわりと光を屈折させた。
ゆらりと輪郭が結ばれ――モップが、何事もなかったかのように姿を現した。
身体をふわりと広げる。
*
セレスティアの通信画面。
ケイトからのメッセージ。
《エリック》
《いる》
《……怖い?》
エリックの指がキーボードの上で固まった。
画面の向こう。
47.2光年先で、今まさに起きた「消失と出現」。
自分たちの足元で広がり続ける、未知の時空の歪み。
エリックは隠さず、素直に打ち込んだ。
《……怖い。》
すぐにケイトからの返信が届く。
《私も。》
*
アルマ。
ゾーイは、帰ってきたモップの目の前に静かに膝をついた。
「……さっき」
トントン。
「……どこ行ってたの?」
トントン。
「……怖くなかったの?」
モップの身体が、ゾーイの膝に寄り添うようにふわりと大きく膨らんだ。
ゾーイは胸を深く撫で下ろし、大粒の涙をこぼしながら笑った。
ノアは床の線をじっと見つめていた。
人間にとっては、ただの冷たい床と壁。
けれど、モップにとっては――。
「ねえ、ゾーイ」
「何……?」
「これ、俺たちが『壁』だと思ってるだけで……モップにとっては、壁じゃないんじゃない?」
モップが再び線へ近づき、その手前でピタリと止まる。
トントン。
ノアが指先で床を叩き返した。
「……ここ、別の場所へ繋がる『道』なのかも」
(第十七章 了)




