第15章 同じものに触れる
アルマ。
白い花は、翌朝も変わらず咲いていた。
ケイト・ウォーカーは出勤すると、自分のデスクの端末を開くより先に、まずその花へと視線を向けた。
葉の緑。茎のしなやかさ。可憐な白い花びら。
昨日と何一つ変わらない。
――少なくとも、人間の目には。
後ろからミアが入ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「……まず花なんだ」
ケイトが振り返る。
「何が?」
「端末より先に花見たでしょ」
「生体移動の経過観察中だから!」
「ふーん……」
「何よ」
「別に?」
ミアはニヤニヤしながら自分の席へ向かい、途中でくるりと振り返った。
「エリックが朝一番で触ったお花だもんねー」
「ミア、仕事して!」
*
だが、生体モニターを細かく解析していくと、わずかな違和感が浮かび上がった。
細胞の生命活動自体に異常はない。
しかし、昨夜から続いている極小の代謝変化。
細胞活動の周期が、移動前とごくわずかにずれている。
ケイトはゾーイから共有されていた、モップの初期行動ログを呼び出した。
モップが衰弱して倒れる直前。
あの内部周期がゆっくりと崩れていったときの波形。
二つのデータを横並びにする。
完全な一致ではない。
だが――不気味なほど、波形の揺れ方が似ていた。
ケイトの口元から、ゆっくりと笑みが消えていった。
*
47.2光年先、セレスティア。
エリック。
《花、どう?》
ケイト。
《生きてる》
《よかった》
少しの間のあと、ケイト。
《でも、ちょっと変》
エリックの手が止まる。
《何が?》
《まだ分からない。でも周期が少しだけ……》
エリックはすぐに顔を上げ、ヘレンを見た。
ヘレンはちょうど、マグカップのコーヒーを口へ運ぼうとしていたところだった。
「博士」
カップがピタリと止まる。
「何?」
「花が変です」
ヘレンは一口も飲まずに、カップを静かに机へ戻した。
*
午前中。
アルマとセレスティアによる合同解析が始まった。
白い花の細胞周期、モップの内部エネルギー周期、そして両惑星で観測された標準時補正ログ。
ヘレンはその三つのデータを画面上に展開した。
サイモンが眉間を押さえる。
「……似ていますね」
「ええ」
「ですが、この花はセレスティア原産です。モップとは生物学的にも進化系統的にも、何一つ共通点はありません」
「ええ」
サイモンがヘレンを直視した。
「……なら、生物そのものの問題ではないのかもしれません」
ヘレンは冷めかけたコーヒーを一口だけ含み、眉をひそめた。
「……まずい」
「今それ言いますか!?」
ダニエルが声を上げ、ヘレンはカップを遠くへ追いやった。
「花を戻しなさい」
エリックが身を乗り出す。
「セレスティアにですか?」
「ええ。元の環境へ戻すのよ」
「大丈夫なんですか?」
「分からない。けれど、このままアルマに置いておく危険も分からないわ」
ヘレンは花の代謝記録を見つめた。
「少なくとも、元の環境へ戻したあとに何が変わるか、確認する必要がある」
*
今度は、花のカプセルに超小型の多機能記録装置が取り付けられた。
温度、加速度、放射線、電磁場環境。
そして――高精度の超小型原子時計。
サイモンは、その時計をアルマ側の標準時系に合わせ、時刻と内部の経過時間を別々に記録するよう設定した。
一度、二度、三度。
ダニエルが待ちきれずに声をかける。
「サイモンさん、まだ?」
「まだです」
「昨日よりめちゃくちゃ慎重だな」
「昨日は時計を積んでいませんでしたから」
「あ、悔しかったんだ?」
サイモンは返事をせず、無言で確認キーを強く叩いた。
「……完了しました。これでいい」
*
アルマ。
ケイトは、返送用のケースへ手を伸ばしかけ――指を止めた。
《戻すね》
エリック。
《うん》
ケイトは透明なケースの中の白い花を見つめた。
昨日、47.2光年を超えて届き、初めて二人で「同じもの」として触れ合った花。
たった一日。
それだけなのに、手放すのが少しだけ惜しかった。
《……ちゃんと返してね》
エリック。
《俺のじゃないよ》
《じゃあ私の?》
《研究所の備品だろ》
《夢がないなあ》
エリック。
《返ってきたら、ちゃんと水やるから》
ケイトは画面の前で、ふわりと笑った。
《お願いね》
*
移動実験開始。
アルマ側のケース内で、白い花の輪郭がゆらゆらと光を屈折させる。
次の瞬間――フッと消え去った。
ケースの中は、空っぽになる。
*
セレスティア、地下実験室。
何も現れない。
一分、二分、三分――。
ダニエルがチラチラと時計を見る。
四分。
エリックは胸の前で強く腕を組み、微動だにせず画面を見つめている。
四分三十秒。
ピピッ!
サイモンのセンサーが反応を捉えた。
「……来ます!」
四分四十三秒。
受信用ケースの中に、空間を割り込むようにして白い花が姿を現した。
エリックが一歩前へ踏み出す。
ヘレン。
「待ちなさい!」
生体スキャンが走る。
細胞活動、正常。
生存確認。
花は――無事に帰ってきた。
しかし、詳細な代謝周期の解析結果は、まだ出ていなかった。
*
エリック。
《届いた》
アルマのケイトは、画面上のその一言を見て、ようやく肩の力を抜いた。
《よかった……!》
エリック。
《水やる》
《今すぐ?》
《約束だから》
ケイトは画面越しに、エリックが小さな水差しを持ち上げるのを見ていた。
今日は画像ではない。
UNIT-2の通信帯域を拡張した、試験的な動画通信だ。
画質は粗く、時折フレームが飛んでコマ送りになり、色味も崩れる。
それでも――47.2光年先のエリックが「動いて」いた。
エリックが慎重に水を注ぐ。
ケイト。
「……多くない?」
スピーカーから、ノイズ混じりの声が返ってくる。
『……普通だろ』
「絶対多いって! 根腐れするよ!」
『植物詳しいのか?』
「私、環境データ解析官だよ?」
『植物学者じゃないだろ』
「そっちこそ整備士でしょ!」
*
二人は、ふっと言葉を途切れさせた。
粗い映像の中で、エリックが頭をかきながら苦笑している。
静止画とは違う。
考え込むときに少しだけ目線が下を向く癖や、キーを打つ直前の指の動き。
テキストだけでは分からなかった「エリックの空気」が、そこにあった。
ケイトは画面から目を離せず、ふと自分の癖で髪をそっと耳へかけた。
「……動画って、画像より嫌だね」
『何が?』
「誤魔化しが効かない」
エリックは少し間を置いて、画面を覗き込むように言った。
『何を誤魔化すんだよ?』
「……そういうところ」
*
ダニエル。
「おーい、二人ともー」
エリックが慌てて振り返る。
離れた場所で、ダニエルがニヤニヤしながら手を振っていた。
「いちゃつくのは後にしてくれー」
「してない!!」
アルマのケイトも叫ぶ。
「してません!!」
二人の声が、通信遅延を感じさせない見事なタイミングで重なった。
ダニエルが手を叩いて笑う。
「めちゃくちゃ息合ってるじゃん!」
ケイトが顔を真っ赤にして通信を切ろうとする。
エリック。
『切るな!』
「……切らないよ」
*
サイモン。
「記録装置を取り外します」
一瞬で、場の空気が緊張感へと引き戻された。
全員が、帰ってきた白い花と付属装置に目を向ける。
サイモンが慎重にケースを開け、データ線を解析端末へ接続した。
データ展開。
温度変化、なし。
加速度、ほぼゼロ。
放射線量、異常なし。
電磁環境、一部記録欠損あり。
そして――内部原子時計のログ。
サイモンの手が、キーボードの上でピタリと止まった。
「……止まっています」
ヘレンが覗き込む。
「故障?」
「いいえ。到着後の動作試験では正常です。転送直前までの発振記録も、到着直後からの記録も正常でした」
サイモンは画面を拡大した。
アルマ側で花が消える直前まで、時計は一定の周期で時を刻んでいる。
そして、次の記録。
セレスティア側に花が現れた直後から、再び同じ周期で時を刻み始めていた。
その間に記録された内部経過時間――。
『0.00秒』
サイモンは別の表示を開いた。
時計の現在時刻は、セレスティア側の受信時刻に換算した基準よりも、四分四十三秒遅れていた。
*
ダニエルが叫んだ。
「待てよ! 外の時計では四分四十三秒かかったんだぞ!?」
「外部の記録ではそうです」
「じゃあ、花と一緒に移動した時計の時間は!?」
「進んでいません」
「故障だろ! 壊れてんだよ!」
サイモンは画面を指差した。
「故障の可能性は検証します。ですが、時計は到着後、正常に動き続けています。遅れも、転送中に外部で経過した四分四十三秒と一致している」
「……つまり?」
「花と一緒に移動した時計は、出発時の時刻を保ったまま現れたんです」
ダニエルが言葉を詰まらせる。
サイモンは静かに言った。
「少なくとも、この時計が刻んだ時間に限れば――移動中の『途中』は存在しなかった」
*
ヘレンが即座に命じた。
「もう一度やるわよ」
エリックが花を庇うように立つ。
「また花ですか!?」
「生体は使わないわ。同型の無機試料と記録装置だけよ」
*
無機試料による連続移動実験。
一回目、アルマへ。
外部観測『六分十二秒』。
内部時計『0.00秒』。
二回目、セレスティアへ戻す。
外部観測『四分〇八秒』。
内部時計『0.00秒』。
三回目、アルマへ。
外部観測『八分二十一秒』。
内部時計『0.00秒』。
各回の到着後、内部時計には、それぞれ外部で経過した時間に対応する遅れが生じていた。
サイモンが数字を並べ、頭を振った。
「外部の経過時間は毎回ばらばらです。ですが……内部の時間は、例外なくすべてゼロです」
ヘレンは深く椅子に腰掛けたまま、長い間、沈黙の中で画面を見つめ続けた。
*
その後、白い花の代謝解析結果も届いた。
エリックが真っ先に画面へ顔を寄せる。
「……どうなんです?」
サイモンがデータを確認する。
「細胞活動は正常です。ただ、問題の周期異常は……」
「消えた?」
「いいえ。残っています」
エリックの表情が曇る。
ヘレンが尋ねた。
「悪化は?」
「帰還後の観測範囲では、進行していません。ですが、元に戻ったわけでもありません」
ヘレンはしばらく考え、静かに言った。
「これ以上、生体を使うのは中止しましょう」
「……はい」
エリックは小さな白い花を見つめた。
昨日は、ただ届いたことが嬉しかった。
けれど今は、同じ花が無事に戻ってきたことさえ、奇跡のように思えた。
*
エリックが尋ねる。
「……博士」
「何?」
「これ……物質が空間を飛んでるわけじゃないんですか?」
「分からないわ」
「でも、『途中』の時間がないんですよ?」
「記録上はね」
エリックは一歩を踏み出し、ヘレンをまっすぐ見つめた。
「だったら……!」
ヘレンが顔を上げた。
その声には、今までになく強い毅然とした響きがあった。
「エリック。――『途中で時間が進まないこと』と、『人間が安全にそこを通れること』は、まったく別の問題よ」
エリックは息をのみ、口をつぐんだ。
「生きた花が一度往復に成功した。でも、その花には説明できない変化が残っている」
「……はい」
「私たちはまだ、何が起きているのかさえ分かっていないのよ」
ヘレンはエリックの目をじっと見つめ、彼が真意を理解したことを確かめるように、静かに頷いた。
*
アルマ。
モップは、再び外へ出ていた。
ゾーイとノアが半歩後ろをついていく。
今日のモップは、空を怖がる素振りを見せない。
地面に触れ、施設の壁に触れ、野外の植物の根元で立ち止まる。
ノアが目を細める。
「……すっかり元気になったね」
「うん」
そのとき、モップがピタリと足を止めた。
身体がキュッとわずかに縮む。
ゾーイも足を止めた。
「モップ……?」
モップは一瞬だけ空を見上げたが――今日はすぐに身体の向きを戻した。
そして、地面へ向かって身体を打ち付けた。
トン、トン。
トン、トン。
ゾーイは即座に端末へ記録する。
「……昨日と違う」
「何が?」
「警戒しているようには見えるけど……逃げてない」
モップは逃げるのではなく、大地をしっかりと確かめるように静かに佇んでいた。
*
その頃、セレスティア。
サイモンが数値を読み上げる。
「……+168 ns」
ヘレンの表情が険しくなる。
「速すぎるわ」
ほんの数時間前まで+101 nsだったセレスティア側の補正値が、一気に+168 nsまで跳ね上がっていた。
アルマ側の時計系にも、同じ方向へ補正量が増大する傾向が現れている。
サイモンが別の広域航法モニターを開いた。
「標準時系だけではありません。周回衛星、軌道航法、長距離天体観測……複数のシステムで微小な同期異常が記録され始めています」
*
その頃、セレスティア観測局の搬入口。
緊急医療貨物輸送を終えた船長ジャック・ハリスが、大型機材の搬入書類を手に立っていた。
エリックが受け取りのサインをする。
ジャックがフッと息を吐いた。
「最近、どこの現場に行っても時間の話ばかりだな」
「え?」
「時計や航法装置が理由なくずれるって、航行士たちが愚痴ってたよ」
ジャックは少し遠い目をした。
「……まあ、そういう職場もあるさ」
*
搬入作業中、エリックの端末に動画通信が入った。
ケイトだ。
『届いた?』
「今、搬入中」
ジャックは、47.2光年先とほぼリアルタイムにつながる画面をまだ知らない。
ただ、作業員の青年が見知らぬ女性と親しそうに話しているようにしか見えなかった。
ケイト。
『運送屋さん?』
「たぶん」
ジャックが振り向く。
「たぶん?」
「すみません、お名前聞いてなくて」
「ジャックだ」
「エリックです」
「書類で見たよ」
画面の向こうでケイトが可笑しそうに笑う。
*
搬入を終え、ジャックが去りかけたとき、エリックが呼び止めた。
「あの……船で航法エラーが出たって本当ですか?」
ジャックが足を止めた。
「……誰から聞いた?」
「機材のログに付いてたんです。最近、時計や座標のずれを調べてて」
ジャックの表情から、わずかに軽さが消えた。
「一瞬だけな。船の『実際の場所』と、航法コンピューターが主張する『場所』が噛み合わなくなった」
「どれくらいですか?」
「ほんのわずかだ」
ジャックは端末を閉じ、エリックをまっすぐ見つめた。
「だが宇宙じゃ、その『ほんのわずか』で人が死ぬ」
*
夜。
ケイトとエリックは、再び動画通信でつながっていた。
画質は相変わらず粗く、時折顔がブロックノイズで崩れる。
ケイト。
『さっきの船長さん、渋かったね』
「ジャックさん?」
『うん』
「運送の人だよ」
『それしか知らないくせに』
「今日会ったんだからいいだろ」
ふっと、小さな沈黙が訪れた。
ケイトは、自分の机の上から白い花が消えた場所を見つめた。
エリック側の画面の端。
そこには、元の場所にちょこんと置かれた白い花が映っている。
『……そっちに戻っちゃったね』
「うん」
『……ちょっと寂しいかも』
エリックは花を見つめ、静かに言った。
「……また送るか?」
『花を?』
「うん」
ケイトは少し考え、ゆっくり首を振った。
『……ううん。今度はいい』
「なんで?」
ケイトは、画面の中のエリックをまっすぐ見つめた。
『次は、自分で見に行くから』
エリックは言葉を失い、黙り込んだ。
ケイトが少しおどけるように笑う。
『……ふふ、冗談だよ』
エリックは誤魔化さず、まっすぐ画面を見つめ返した。
「……俺は、冗談じゃないけど」
ケイトの表情が、ピタリと止まった。
*
エリック。
「……もし会えたら、何する?」
『……アルマで?』
「うん」
ケイトは椅子を少し回し、窓の外の街並みと空を見上げた。
『……ご飯』
「最初に?」
『普通でいいじゃん』
「黄色いパンか?」
『絶対食べさせない!』
「なんでだよ」
『腹立つから!』
エリックが声を上げて笑う。
「じゃあ、街を歩こう」
『案内してあげる』
「モップにも会いたいな」
『それはゾーイに許可取らないとね』
「触れるかな」
『たぶんね。嫌われなければ』
「俺、嫌われるか?」
ケイトは優しく笑った。
『普通だから、大丈夫だよ』
「……また普通か」
*
また、静かな沈黙が流れた。
二人とも、通信を切ろうとはしなかった。
ケイトが低く尋ねる。
『……本当に、できると思う?』
「何が?」
『直接……会うの』
エリックはすぐには答えなかった。
デスクの端に置かれた、一輪の白い花を見つめる。
47.2光年を越えて、一度ケイトの手に触れ、帰ってきた花。
その花がどんな経路を通ったのか、まだ誰にも分からない。
それでも、花は確かにここにあった。
エリックは言った。
「できると思う」
『根拠は?』
「その花」
『たった一輪だよ?』
「一輪できたんだ。なら、できる」
ケイトは視線を落とし、愛おしそうに呟いた。
『……そっか。……そうだね』
*
地下実験室。
ヘレンとサイモンが、新しく導入された超高精度解析システムを起動させていた。
精度は、これまでの数十倍。
サイモン。
「……出ました」
惑星標準時、軌道観測、恒星視差、局所重力波、航法同期信号。
すべてのデータがヘレンの画面へ集約される。
セレスティア側の現在の補正値。
『+204 ns』
サイモンの声が震える。
「……補正量だけではありません。増加する速さ自体が、大きくなっています」
「観測地点ごとの『差』は?」
「あります!」
サイモンが全域の補正マップを展開した。
同じ惑星であるにもかかわらず、地域によって補正値の量が明確に異なっていた。
ヘレンがゆっくりと立ち上がった。
「……『場所』よ」
「はい」
「歪んでいるのは――時間だけではないわ」
*
アルマ。
ゾーイがモップを連れて、調査施設から離れていく。
十メートル、二十メートル、三十メートル。
モップは元気に進んでいる。
四十メートル。
五十メートルを超えたとき――。
モップの動きが、急激に重く遅くなった。
ゾーイも足を止める。
「……モップ? ここ……?」
モップは地面へ向き、トン、トンと軽く音を立てた。
それから、身体を一度空へ向け――そして。
今までとはまったく違う方向へ、ゆっくりと身体の向きを変えた。
そこには何もない。
ただ、遠く続く地平線。
モップは、その遥か先にある「何か」を、じっと見つめ続けていた。
(第十五章 了)




