第14章 向こう側
朝。
ダニエル・ヴァンスは地下実験室に入るなり、わずか三十秒で足を止めた。
片手に持っていた冷めた飲み物の容器をデスクへ置き、画面へ顔を寄せる。
「……何だこれ」
夜間の自動実験ログ。
状態同期、正常。通信、正常。
そして、異常なクロック補正値。……それはもう見慣れた数値だった。
ダニエルが目を見張っていたのは、まったく別の項目だった。
『質量変動検出 継続時間:0.73秒』
値は測定機器の限界に近い、ごくわずかなものだった。
「……ノイズか?」
別の独立センサーを見る。同じ時間帯に微小な変位。
三台目のセンサーにも、対応する変化が記録されていた。
ダニエルは飲み物を引き寄せるのも忘れ、即座に通信端末を引っ掴んだ。
「博士! すぐ来てください!」
*
二十分後。
ヘレン・カーター、サイモン・グラント、エリック・コールの三人が、ダニエルと同じ画面を凝視していた。
ヘレンが低く尋ねる。
「アルマ側のログは?」
「今、ケイトに確認してもらってます」
エリックが端末を叩く。
《昨日の実験ログ出せる?》
すぐに返信。
《おはよう》
《おはよう》
《挨拶できてよろしい》
《ログ見せて》
《今ミアが出してる》
ダニエルが横目でエリックを睨む。
「……お前、完全に教育されてんな」
「昨日も同じこと言ったろ」
*
アルマ、環境解析部。
ミアが地下実験のログを片っ端から呼び出していた。
「これ?」
「その時刻のやつ」
「何を探してるの?」
「物質反応」
「物質……?」
「私も意味が分からないの」
検索結果:該当一件。
ミアの指がピタリと止まる。
「……ある」
「何が!?」
「反応」
セレスティア側で異常が起きたと推定される時間帯。
アルマの受信用容器を監視していたセンサーにも、0.71秒間の微小な反応が記録されていた。
本来、空であるはずの容器の内部で。
二人は言葉を失い、顔を見合わせた。
*
データがセレスティアへ送られる。
サイモンは両惑星の時刻記録を、これまで使用してきた暫定的な換算基準に従って補正し、波形を重ね合わせた。
セレスティア:0.73秒。
アルマ:0.71秒。
反応の継続時間は近い。波形にも奇妙な対応があった。
ただし、二つの現象が厳密に同時だったと証明できたわけではない。
ダニエルが息をのむ。
「……向こうに、出たんですか?」
「まだそう断定はしないわ」
「じゃあ何て言えばいいんです!?」
「『未定義の物理現象』よ」
「都合のいい言葉ですねぇ」
「今日は一回目です」
サイモンが静かに添え、ヘレンは二人をまとめて睨みつけた。
「数えなくていいわ」
*
再実験は即座に開始された。
今度は自動計測ではなく、完全な手動管理。
試料の密閉、質量、分子組成、結晶構造。さらに送信側と受信側の環境を独立した装置で監視し、すべての記録を残す。
ヘレンは確認項目を一つずつ潰していった。
ダニエルが尋ねる。
「慎重すぎません?」
「まだ足りないくらいよ。昨日までは、ただの『状態の同期』だった。けれど――」
ヘレンは透明なアクリル容器の中の試料を見つめた。
「――状態が変わることと、物質そのものが『消失』することは、まったく次元の違う話よ」
エリックが口を挟む。
「もし、向こうに届いてたら?」
「なおさらよ」
「でも博士、そもそも何をどうしたら物質が動くんです?」
ヘレンは少し考えた。
「これまでの実験で確認した現象では、離れた二つの物質の状態が連動した。でも、昨夜の記録には、それだけでは説明できない質量の変化があった」
彼女は二つの容器を示す模式図を画面に映した。
「私たちは今まで、離れた場所同士で状態を結びつけようとしていた。今日は、その結びつきの条件を変えて、物質そのものに何が起こるかを調べる」
「つまり?」
「もし二つの場所が、私たちの知らない形で直接つながっているなら……物質がその境界を越える可能性がある」
ダニエルが腕を組む。
「47.2光年の境界を?」
「そう。でも、まだ仮説よ。何も起こらないかもしれないし、測定器の間違いかもしれない」
ヘレンは操作盤に手を置いた。
「だから確かめるの」
*
実験開始。
セレスティア側の試料に微小な状態変化を与えながら、UNIT-3の接続条件を少しずつ変えていく。
アルマ側では、空の受信用アクリルケースを独立したセンサー群が監視していた。
一回目――反応なし。
二回目――反応なし。
三回目――状態反応のみ検出。質量変化なし。
四回、五回、六回――。
サイモンが時計ログを見る。
『+61 ns』
七回目。
セレスティア側で、一瞬の質量減少。
アルマ側では、受信用容器の内部に微小な質量増加。
二つの変化を知らせる警告が、ほぼ同時に画面へ並んだ。
実験室の誰もが、息を止めた。
ダニエルが呟く。
「……今、消えた……?」
「触らないで」
ヘレンの硬い声。
数値が元に戻るか、沈黙の中で待つ。
一秒、二秒、五秒――。
戻らない。
セレスティアの試料は、明確に軽くなっていた。
アルマの容器内には、本来そこに存在し得ない極小の物質が残されていた。
エリックが震える声で尋ねる。
「……移動したんですか?」
ヘレンはすぐには答えなかった。
サイモンが独立センサーの記録を再検証し、ダニエルが装置の校正ログを洗う。
十分後、ヘレンが静かに言った。
「……その可能性が、極めて高くなったわ」
「47.2光年を!?」
「その『移動した』という表現は、まだ使わないで」
「でも!」
「ここから消えて、向こうに現れた。質量の変化は対応している。でも、それが同じ物質なのか、どういう経路を通ったのか、まだ確認できていない」
エリックが画面を見つめる。
「それって……移動じゃないんですか?」
ヘレンはエリックをまっすぐ見つめ返した。
「それを、これから証明するのよ」
*
アルマ、野生調査施設。
ゾーイ・ベネットは、すっかり体調を取り戻したモップと外へ出ていた。
回復後、初めての少し長めの散歩。
施設から五十メートル。
モップは滑らかに地面を滑り、時折立ち止まって地面の感触を確かめ、また進む。
ノアが後ろから退屈そうについてくる。
「それ、散歩?」
「行動調査」
「どう見ても犬の散歩じゃん」
「野外環境における順応調査です!」
モップがピタリと足を止めた。
ゾーイとノアも足を止める。
モップはゆっくりと――空を見上げた。
身体をキュッと小さく縮める。
ゾーイの笑顔が消えた。
「……まただ」
見上げる空。澄み切った青、湿り気を帯びた風、遠くを飛ぶアルマの小型生物。
何もない。完璧な「普通」の風景。
ノアが呟く。
「普通だけど……」
「うん……」
モップだけが、硬直したように空を見つめたまま動かなかった。
*
その後、アルマの広域標準時補正値に新たな異常が記録された。
『+94 ns』
セレスティアのサイモンから連絡を受けたケイトは、二度その数値を見直した。
昨日、+61 ns。
今日、+94 ns。
どちらも各観測系の補正記録であり、その数値だけで二つの惑星の時間差を示すものではない。
それでも、補正量の増大は無視できなかった。
ケイトはゾーイから届いたモップの散歩ログを開いた。
モップが空を見上げて硬直した時刻。
そのわずか数分後に、アルマの標準時計の補正値が跳ね上がっていた。
「……やっぱり、モップが『先』だ」
ミアが息をのむ。
「モップが……時空の変化を教えてくれてるの?」
ケイトは答えず、オフィスの大きな窓から空を見上げた。
完璧に美しく見えている青空の向こうで、世界の「測り方」が狂い始めていた。
*
セレスティア近傍、貨物輸送船。
船長のジャック・ハリスは、定期整備ログのチェックリストを指で潰していた。
推進器、正常。
姿勢制御、正常。
医療貨物、積載完了。
航法時計同期――。
『微小同期誤差/自動補正完了』
ジャックの指が止まる。
「……またか」
副操縦士のオーウェンが覗き込む。
「何か問題でも?」
「いや……航法システム自体には何の影響もない」
「なら大丈夫ですね」
「『今は』な」
端末に娘のエマからの通信が入る。
セレスティア近傍の居住ステーションで暮らす娘。
『お父さん? 今大丈夫?』
「ああ、大丈夫だ」
『来週の進路説明会、来れる?』
ジャックの視線が、デスクの運行予定表へ落ちる。
次の緊急医療貨物輸送便。
出発後、セレスティア近傍の居住ステーションへ戻れるのは、進路説明会の翌日だった。
「……調整してみる」
『去年もそう言って来なかったじゃん』
「……すまない。なんとかする」
通話を切った後、ジャックは運行管理へ直談判したが、答えは「不可」だった。
今回の輸送品には、セレスティア観測局宛ての「高精度物質分析装置」と「電力制御ユニット」も含まれていた。
ジャックは娘の端末へ、短く打ち込んだ。
《ごめん。》
追加の言葉が出てこない。
そのまま送信した。
返事は来なかった。
*
セレスティア、地下実験室。
ヘレンが実験台に置いたのは、カラカラに乾燥した小さな植物片だった。
エリックが引く。
「いきなり生き物にするんですか!?」
「死んでるわよ」
「言い方!」
「事実よ。まずは細胞組織レベルの実験」
乾燥した植物片には、事前に確認した微細な傷と、特徴的な細胞配列があった。
アルマ側には、何も入っていない受信用容器。
両側のセンサーが、試料の有無と質量を独立して監視する。
一回目――失敗。
二回目――状態変化のみ。
三回目――。
セレスティア側の容器から、乾燥した植物片が消えた。
アルマの受信用アクリル容器内。
ケイトとミアが息をのんで覗き込む。
透明なケースの底に、ポツンと小さな葉っぱが横たわっていた。
ミアが手を伸ばしかける。
「これ……触っていいの!?」
「ダメ!」
ケイトが即座に止めた。
「触らないよ! 聞いただけじゃん!」
測定結果が次々と送られてくる。
質量、細胞配列、乾燥状態。
そして、葉の縁に残された微細な傷。
セレスティア側で記録した特徴と、すべてが一致していた。
ヘレンは画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……少なくとも、同じ特徴を持つ植物片が現れたことは確かね」
ダニエルが言う。
「そこまで一致しても、まだ移動したって言わないんですか?」
「まだよ。複製や再構成ではなく、元の物質そのものが移ったと証明するには、もっと調べなければならない」
*
だが、さらに厄介な疑問が浮上した。
「時間」だった。
セレスティアで消えた時刻と、アルマに現れた時刻。
サイモンが記録を何度計算し直しても、数値が噛み合わない。
「……合わないんです」
「何がよ?」
「消失と出現の時刻関係です。これまでの換算基準で並べると、移動に要した時間が毎回違う。三分だったり、ほとんど瞬時だったり……計算上は『出発前に到着した』ことにさえなります」
エリックが首を傾げる。
「早く着いたり遅く着いたりするってことですか?」
「違います! そもそも、二つの惑星の記録を同じ一つの時間軸に並べていいのか、それが分からなくなっているんです!」
実験室が静まり返った。
サイモンは続けた。
「時計が壊れているだけかもしれません。換算方法が間違っているのかもしれない。ですが、もし測定結果が正しいなら……」
ヘレンが深く椅子に腰掛けた。
「……私たちは、時間のつながり方そのものを理解していないのかもしれないわね」
*
翌日。
実験台に置かれたのは、セレスティアの温室から運ばれてきたばかりの、小さな白い花だった。
根に少しだけ土がつき、小さなカプセルに収められている。
花弁の一枚には、先端がわずかに欠けた部分があった。
茎には、肉眼ではほとんど見えない小さな傷。
移動後に同じ花であるかを調べるため、その特徴も細かく記録された。
エリックが慎重にカプセルを持った。
「……これ、枯れたら嫌だな」
「昨日の葉っぱには何も言わなかった癖に」
「昨日のやつは最初から死んでたろ!」
ヘレンがエリックを見つめる。
「無理だと思ったらすぐ中止しなさい。これはただのデータではなく、『命』よ」
「わかってます」
アルマ側でも、ケイトたちが温度、湿度、大気組成を可能な限り合わせた受信用ケースを準備していた。
*
実験開始。
一分、二分――。
セレスティア側のカプセル内で、白い花の輪郭が微かに揺らぐ。
ダニエルが低く叫ぶ。
「来る……!」
フッと、花の姿が消えた。
送信側のセンサーが、試料の消失を記録する。
エリックがキーを叩く。
《ケイト! そっちは!?》
アルマの受信用ケース。
何も現れない。
十秒、二十秒、三十秒――。
ミアが青ざめる。
「……来ないよ、ケイト! 失敗!?」
「待って……! 待って……!」
一分半が経過した、その時――。
ケース内の大気が、ふわりと光を屈折させた。
ゆらゆらと輪郭が結ばれ、土、根、茎、そして――凛と咲く白い花が姿を現した。
生体センサーが緑色に点灯する。
細胞活動、正常。
水分量、正常。
花弁の欠けた部分も、茎の小さな傷も、事前の記録と一致していた。
ケイトが立ち上がった。
「……届いた!! 生きてる!!」
*
セレスティアの画面に文字が躍る。
《届いた! 生きてるよ!!》
エリックは深く息を吐き、ドサリと椅子に腰を下ろした。
ダニエルも肩の力を抜いて天を仰ぐ。
ケイトは手袋をはめ、そっとケースの中に手を差し入れた。
《触ってもいい?》
エリック経由でヘレンの許可を取る。
ケイトの指先が、白い花の冷たく柔らかい茎にそっと触れた。
今朝まで、47.2光年先のセレスティアで咲いていた花。
エリックが水をやった花。
ケイト。
《……触ったよ。》
エリック。
《どう?》
《ただの花。すごく柔らかい。》
《そりゃそうだろ。》
ケイトは指先を花から離さずに、静かに打ち込んだ。
《これ、エリックも触ったよね?》
エリックは朝、カプセルを運んだ自分の右手に視線を落とした。
《うん。》
ケイト。
《じゃあ、初めてだね。》
《何が?》
《同じものに、一緒に触れた。》
エリックの指が、キーボードの上で固まった。
文字、画像、声。
それらはすべて「情報」に過ぎなかった。
けれど今、自分の手の中にあったはずの質感を伴う「物質」が、47.2光年先の彼女の指先に触れている。
科学者たちはまだ、この現象のすべてを説明できていない。
それでも、二人の間にあった絶望的な距離の壁に、確かなひびが入った。
ケイト。
《エリック?》
《いる。》
《どうしたの?》
エリックはゆっくりとキーを叩いた。
《……いつか。》
《何?》
《花じゃなくて。》
文字を一度消しかけ、そして強く打ち直した。
《直接、会いに行くよ。》
*
アルマ。
ケイトはその一言を見つめたまま、静かに胸の前で手を組んだ。
窓の外には、変わらぬアルマの夜空。
47.2光年という絶望的な宇宙の広がり。
けれど、もう遠くは感じなかった。
ケイトは愛おしそうに笑い、返信した。
《うん。待ってる。》
*
その足元で――。
モップが再び身体を小さく縮め、誰もいない天井を見上げていた。
同じ頃、セレスティアのサイモンが監視していた時計の補正値は、
『+101 ns』
そして、ケイトの目の前に届いたばかりの白い花。
その生体センサーには――ほんのわずかな、原因不明の代謝変化が刻まれ始めていた。
誰も、まだ気づいていなかった。
(第十四章 了)




