第12章 会う方法
「この子の周りが変わった?」
サイモンは、ヘレンの言葉を繰り返した。
ヘレンはすぐには答えず、机に散らばっていたメモ用紙を二枚引き寄せた。
一方に『A』。
もう一方に『B』。
太いペンで書きつける。
ダニエルが横から覗き込んだ。
「また紙ですか?」
「分かりやすいからよ」
「最先端の研究現場なのに、ずいぶんアナログですね」
「紙は未来にも存在するわ」
ヘレンは二枚の紙を、デスクの両端に置いた。
「ここがセレスティア」
Aを指す。
「こっちがアルマ」
Bを指す。
「四十七・二光年。普通なら、情報を届けるだけでも四十七年以上かかる距離よ」
「ですが、UNIT-2では待ち時間が確認できません」
サイモンが言った。
「そう。少なくとも、私たちが測定できる範囲ではね」
ヘレンは二枚の紙を持ち上げた。
そして、ぴたりと重ね合わせる。
「もし、この通信に限って、二つの場所を離れたものとして扱う必要がないとしたら?」
エリックが身を乗り出した。
「……同じ場所ってことですか?」
「そういう考え方もできる、というだけよ」
「じゃあ、近いんだ」
「それも違うわ」
ヘレンは紙を再び離した。
「実際の距離が縮んだ証拠はない。通信がどんな経路を通っているのかも、まだ分からない」
ダニエルが頭を抱えた。
「分かりやすい紙の例えだったのに、急に何も分からなくなりました」
「不満なら宇宙に言ってちょうだい」
「宇宙って苦情を受け付けてくれるんですかね」
「返事が来たら教えて」
*
サイモンが端末の時刻補正記録を開いた。
『+49 ns』
「……では、この変動は?」
ヘレンは紙を机へ戻した。
「まだ分からないわ。ただ、UNIT-2の通信が成立したことと、時計の異変が無関係だと決める理由もない」
「逆に、関係があると判断できる材料も足りません」
「その通りよ」
ヘレンは頷いた。
「だから、通信装置と時計の記録を取り続ける。アルマの観測結果とも照合する」
エリックが眉を寄せた。
「……結局、まだ何も分かってないんですね」
「分かっていることはあるわ」
「何です?」
「私たちが知っている物理法則だけでは、UNIT-2の現象を説明できていない」
ダニエルが呆れたように言った。
「それ、分からないってことじゃないですか」
「分からない場所が分かるのも、研究の進歩よ」
エリックは少し考え、頷いた。
「それなら、なんとなく分かります」
「分かった気になってるだけだろ、お前」
「いいんだよ。気分の問題だから」
*
アルマ。
野生調査施設。
モップは、昨日の瀕死の状態が嘘のように動いていた。
もっとも、完全に元通りというわけではない。
動きはゆっくりで、ときおり立ち止まっては身体を小さく丸める。
ゾーイは半歩後ろをついて歩いていた。
モップが止まれば、ゾーイも止まる。
モップが進めば、ゾーイも進む。
その様子を、ノアが呆れ顔で見ていた。
「過保護」
「観察」
「ずっと後ろついて歩いてるじゃん」
「観察データの収集!」
「昨日まで触るのも怖がってたのに」
ゾーイは振り返り、ノアを睨んだ。
「……ノア、宿題は?」
「あ、忘れてた」
「やっぱり!」
ノアは笑ってごまかした。
*
モップは廊下を曲がり、分析室へ入っていった。
部屋の中央には、大型の物質構造分析装置がある。
昨日の緊急調査が終わってから、主電源は切られていた。
モップは装置の前で立ち止まった。
「何してんの、あいつ」
ノアが覗き込む。
「さあ……」
モップは装置の周囲を、確かめるようにゆっくり一周した。
そして、試料を置く平らな測定台の前で、身体の一部を持ち上げた。
ゾーイが首を傾げる。
「……乗りたいの?」
「乗せてみれば?」
「勝手に機材に乗せたら主任に叱られるよ」
「いつも勝手なことやってんじゃん」
「やってない!」
「勝手に『モップ』って名前つけたのは?」
「それは愛称!」
トン、トン。
床から小さな音が響いた。
ノアが笑う。
「ほら。『乗りたい』ってさ」
ゾーイは困った顔で測定台を確認した。
主電源は切れている。
表面に危険な突起もない。
それでも、機材の状態を確認してからモップの前にしゃがんだ。
「……触るよ?」
モップは逃げなかった。
ゾーイは両手を差し入れ、柔らかな身体をそっと持ち上げた。
思っていたより軽い。
ゾーイの表情が曇る。
「……まだ、痩せてるのかな」
「モップって痩せたり太ったりするの?」
「分からない……」
「本当、何にも分からないね」
「未知生物だから!」
測定台に置かれたモップは、すぐには降りようとしなかった。
身体をゆっくり広げ、そのまま台の表面に落ち着いた。
「……そこ、気に入ったの?」
ノアが笑う。
「新しいベッドにする気だよ」
*
セレスティア。
ヘレンたちは、UNIT-2の次の検証を始めようとしていた。
「文字以外のデータを送ってみましょう」
エリックが顔を上げる。
「文字以外?」
「まずは静止画像よ」
「画像!?」
ダニエルが端末を操作しながら説明した。
「文字だって、結局は決まった規則で表したデータだろ。画像も小さな数字の集まりに変えて、同じ通信路で送れるか試す」
「そんな簡単にできるのか?」
「簡単じゃないから試すんだよ」
ダニエルはUNIT-2の通信記録を表示した。
これまでの送受信では、短い文字列を安定して届けられている。
ただし、連続して送れる情報量には限りがあった。
「小さな画像を分割して送る。向こうで順番に組み立てるんだ」
ヘレンが付け加える。
「装置への負担を監視しながらね。異常が出たら中止よ」
「はいはい」
「返事は一回でいいわ」
「信用ないなあ。俺を誰だと思ってるんですか」
「UNIT-3の再起動でサブ電源を二回飛ばした男よ」
「一回半です!」
サイモンが冷静に訂正した。
「ログには二回と記録されています」
「お前、本当によく見てるな!?」
*
アルマ。
ケイトの端末に通知が届いた。
エリックからだった。
《画像、送れるかもしれない》
ケイトの指が止まる。
《何の写真?》
《何がいい?》
ケイトは少し考え、笑みを浮かべた。
《パン》
《なんでだよ》
《黄色いパン、見たいでしょ?》
《別に》
《じゃあ送らない》
《……見たい》
ケイトは思わず笑った。
隣のミアが顔を寄せる。
「何? 何笑ってるの?」
「写真、送れるかもって」
ミアの目が輝いた。
「本当!? 顔!? エリックの顔が見られるの!?」
「ううん。パン」
「はぁ!? なんでパンなのよ!」
ケイトは端末を自分の方へ引き寄せた。
「いきなり顔なんて、お互い恥ずかしいでしょ!」
「なんであんたが照れてるのよ!」
「照れてない!」
「見たいんでしょ? 相手の顔」
「……見たいけど、段階ってものがあるの!」
「乙女か!」
*
最初の画像転送実験。
ケイトは、黄色いパンを撮影した。
アルマでは珍しくもない、鮮やかな黄色をしたパンだった。
小さな画像に縮小し、さらに圧縮する。
それを短いデータの塊に分けて送信した。
セレスティア。
UNIT-2の画面に、画像の一部がゆっくり表示されていく。
何度か送信をやり直した末に現れたのは――。
潰れた黄色い四角い塊だった。
エリックは首を傾げた。
《……何これ?》
《パン》
《嘘だろ。ただの黄色い壁に見えるぞ》
《失礼ね! 精いっぱいのパンだよ!》
ダニエルが画面を覗き込む。
「圧縮しすぎたな。細かい部分が全部消えてる」
ヘレンも画面を見た。
「でも、再構成はできたわね」
ノイズだらけの黄色い画像。
人類が初めて四十七・二光年の距離を越えて、待ち時間を感じることなく受け取った写真。
その記念すべき一枚が、パンだった。
エリックは画面を見つめ、ゆっくりキーを叩いた。
《思ってたより、ちゃんと黄色いな》
《だから黄色って言ったでしょ》
《味もこれなの?》
《そう。黄色い味》
《やっぱり分からん》
*
今度はエリックの番だった。
自分の昼食である豆の煮込みを撮影する。
ケイトの画面に表示されたのは、暗茶色の不気味な塊だった。
《……何これ? 泥?》
《豆だって言ってるだろ! 伝統ある豆の煮込みだ!》
《どう見ても湿った土だよ》
《豆!!》
横で見ていたミアが爆笑した。
「あははは! お似合いすぎるでしょ、二人とも!」
「どこがお似合いなのよ!」
*
数時間後。
ダニエルが画像の分割方法や圧縮設定を調整し、送受信の失敗も少なくなっていった。
黄色いパン。
保温容器に入った豆の煮込み。
観測局の古いデスク。
アルマの窓から見える街並み。
二人は次々と写真を送り合った。
けれど、最後まで――。
お互いの顔だけは送らなかった。
どちらも、その理由を尋ねなかった。
*
夕方。
アルマの野生調査施設。
ゾーイはまだ分析室に残っていた。
モップは相変わらず、物質構造分析装置の測定台に身体を広げている。
もう二時間以上、そこから動こうとしない。
分析担当者が入ってきた。
「ゾーイ、まだそこにいるのか?」
「モップが動かないんです」
「また具合が悪いのか?」
「いえ、そうじゃなくて。ここが気に入ったみたいで」
「そこ、精密機材だぞ」
「主電源は切ってあります」
担当者は操作盤を確認した。
そして、眉をひそめた。
「……あれ?」
「何ですか?」
「時刻基準回路は動いてるな」
「時刻基準?」
「測定結果に正確な時刻を付けるための回路だ。主電源を切っても、独立した電源で動き続ける」
ゾーイは測定台のモップを見た。
「……モップ、これが好きなの?」
ノアが呟く。
「時計の音が好きなのかな」
「音はしないよ」
「じゃあ、何がいいんだろ」
トン、トン。
モップが小さく床を叩いた。
*
ゾーイはケイトへ報告を送った。
《モップが分析装置の測定台から動かなくなりました。時刻基準回路だけは動いているそうです》
ケイトは、その内容をセレスティアへ転送した。
サイモンが装置の仕様書を調べる。
「高精度の時刻基準モジュールを搭載しています。内部の原子発振器は、装置の主電源とは独立して動作する設計ですね」
ヘレンは資料を受け取った。
「発振器の周波数は?」
サイモンが数値を読み上げる。
ヘレンはモップの内部周期の記録を開いた。
二つの波形を比較する。
「……気になるわね」
エリックが尋ねた。
「何がですか?」
「モップが、時刻基準回路のある装置に長時間とどまっていることよ」
「時計が好きなんですかね」
「そうかもしれない。でも、装置の振動や温度、材質に引かれている可能性もあるわ」
サイモンが頷いた。
「発振器を停止した状態と、動作させた状態で行動が変わるか、比較できます」
「ええ。現地に頼んでみましょう」
ヘレンは画面を閉じなかった。
モップの周期波形を、もう一度拡大する。
何かを考えるように、しばらく見つめていた。
*
エリックは、手元に表示された黄色いパンの画像を眺めていた。
「……博士」
「何?」
「画像が送れるなら、声も送れますか?」
ダニエルが振り返った。
「短い録音なら試せるな」
「本当に?」
「音もデータに変えられる。問題は、送れる量と、ちゃんと元に戻せるかどうかだ」
エリックは画面を見た。
文字。
画像。
そして――声。
「……やってみたい」
ダニエルが笑った。
「そう言うと思った」
*
音声の転送実験は、短い録音から始めることになった。
音声を圧縮し、小さなデータに分割する。
受信側では、届いたデータを確認しながら組み立てる。
リアルタイムの通話には、まだ通信量も安定性も足りなかった。
ダニエルがマイクをエリックの前に置いた。
「何か喋れ」
「何をだよ……」
「何でもいいんだよ。毎日あんなに文字送ってるだろ」
「文字と声は違うだろ!」
「照れてんのか?」
「照れてない!」
「はい、録音開始!」
エリックは慌ててマイクに向き直った。
数秒の沈黙。
喉が妙に渇く。
「……エリックです」
録音終了。
ダニエルが吹き出した。
「それだけかよ!」
「うるさい! 送れ!」
*
四十七・二光年先。
アルマ。
ケイトの端末に、見慣れない音声ファイルが届いた。
『audio_01』
ケイトの指が、再生ボタンの上で止まった。
後ろではミアが息を殺して見守っている。
「……来たの?」
「……うん」
「聞かないの?」
「今、聞くから……」
ケイトは髪を耳にかけた。
一度、深呼吸する。
そして、再生ボタンを押した。
スピーカーから、わずかなノイズ。
続いて――。
『……エリックです』
落ち着いた男の声。
少しぶっきらぼうで、どこか緊張しているようにも聞こえた。
ケイトの口元が、自然に緩んだ。
ミアが覗き込む。
「どう? どんな声?」
ケイトはもう一度、再生した。
『……エリックです』
「……普通」
「普通?」
「うん。もっと低い声かと思ってた」
「なんで?」
「豆ばっかり食べてるから」
「どういう偏見よ、それ!」
*
ケイトから返信が届いた。
《思ってたより普通だった》
《普通で悪いかよ》
《もっと声低いと思ってたの》
《なんで》
《豆食ってるから》
エリックは頭を抱えた。
「意味が分からん……」
ダニエルが笑った。
「豆食うと声低くなるのか? 初耳だな」
*
今度はケイトの番だった。
「録音するから、ミア、向こう行ってて」
「なんでよー! 私も聞く!」
「声が入るでしょ! 離れて!」
ミアはニヤニヤしながら、二歩だけ後ろへ下がった。
「もっと離れて!」
「部屋狭いんだから無理!」
ケイトは諦めてマイクに向き直った。
心臓が妙にうるさい。
「……ケイトです」
少しの沈黙。
恥ずかしさに耐えきれず、小さく呟いた。
「……これ、なんか恥ずかしいね」
後ろから、ミアの忍び笑いが入った。
「あ! ちょっと、ミアの笑い声入った! 取り直す!」
「ダメー! 送信!」
「あっ、ちょっとミア!!」
*
セレスティア。
UNIT-2の端末に音声が届いた。
エリックは緊張した手つきで再生ボタンを押す。
わずかなノイズ。
そして――。
『……ケイトです』
明るく、澄んだ声。
『……これ、なんか恥ずかしいね』
その後ろで、誰かが楽しそうに笑っている。
エリックの顔が赤くなった。
けれど、すぐに口元が緩んだ。
ダニエルが覗き込む。
「どうだった?」
エリックはもう一度、再生した。
『……ケイトです』
「……ケイトだった」
「そりゃケイトだろ! 感想雑だな!」
エリックは何も言い返さなかった。
ただ、その短い音声をもう一度再生した。
*
夜。
アルマの野生調査施設。
モップはゆっくりと測定台から降り、ゾーイの足元へ近づいてきた。
身体の一部を、ゾーイの靴にそっと触れさせる。
ゾーイがしゃがみ込んだ。
「……今日は機嫌がいいね、モップ」
モップの身体が、ふわりと広がった。
ノアが笑う。
「それ、絶対『うん』って言ってるよ」
「私もそう思う」
ゾーイは端末を取り出し、観察日誌に書き加えた。
『自力移動を確認。周囲への反応も良好。回復傾向を維持』
ノアが覗き込む。
「『機嫌がいい』って書かないの?」
「書いたら主任に怒られるから!」
*
深夜。
セレスティアの観測局。
ヘレン・カーターは、一人でデスクに向かっていた。
机の上には、二枚の紙。
『A』と『B』。
四十七・二光年離れた二つの惑星。
文字が届いた。
画像も届いた。
そして、声まで届いた。
もちろん、画像や音声が送れたからといって、物体まで送れるわけではない。
情報と物質は違う。
そんなことは、誰よりも分かっている。
ヘレンは二枚の紙を見つめた。
UNIT-2は、離れた二地点の間で、なぜか情報をやり取りできる。
ならば、そこで起きている現象を利用して、情報以外の何かを変化させることはできないのだろうか。
物質を運ぶのではなく。
遠く離れた場所に、何かを再現することは。
ヘレンは二枚の紙を重ねた。
指先が、その端に触れる。
「……会う方法、ね」
小さく呟いた。
エリックとケイトが、いつか顔を合わせる。
それは、まだ夢物語にすぎない。
ヘレンは重ねた紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
(第十二章 了)




