第9話 妻を失う未来
第9話 妻を失う未来
それから三日。
レオンハルトは、自分でも奇妙なほどエレノアを気にしていた。
朝食を取ったか。
今日はどこへ行くのか。
何時に帰ってくるのか。
誰と会うのか。
以前なら、そんなことを考えたことすらなかった。
だが今は。
気づけば妻の予定を確認している。
「旦那様。本日の奥様のご予定ですが……」
侍従が報告を始める。
「午前中は屋敷で領地関係の書類を確認され、午後からは王都の商会へ行かれる予定です」
「……商会?」
「はい」
「誰と?」
「グランヴィル伯爵家と取引のある商会のようです」
「そうか」
レオンハルトは書類に目を落とした。
それ以上は何も言わない。
だが。
しばらくして。
「その商会に、若い男はいるのか?」
侍従が黙った。
レオンハルトも、自分で何を聞いたのか理解した。
「……失礼いたしました」
「いや」
侍従は困ったように微笑む。
「若いご当主がいらっしゃると聞いております」
「……そうか」
それだけ答えて、レオンハルトは書類に視線を戻した。
しかし。
文字が一つも頭に入らなかった。
◇
午後。
エレノアは商会を訪れていた。
領地で作られる織物の販路について話し合うためだ。
「こちらが今年の見本になります」
商会の若い当主、アーネストが布を広げる。
「とても綺麗ですね」
「ありがとうございます。奥様のお力になれればと思っております」
「私の力というほどではありません。領地の職人たちが頑張ってくれたものですから」
エレノアは微笑む。
その笑顔を見て。
アーネストも自然と笑った。
「奥様は、本当に領地のことを大切にされているのですね」
「はい。せっかくなら、皆が少しでも豊かになれるようにしたいと思っています」
「素晴らしいお考えです」
穏やかな時間だった。
だから。
エレノアは気づかなかった。
商会の外に、公爵家の馬車が止まっていることに。
◇
「旦那様」
侍従が困惑した声を上げる。
「ここまで来る必要はなかったのでは?」
「……」
レオンハルトは馬車の中から商会を見ていた。
「視察だ」
「商会の視察ですか?」
「そうだ」
「こちらの商会が公爵家と直接取引をしているという記録はございませんが」
「……」
レオンハルトは答えなかった。
完全に苦しい言い訳だった。
ただ。
妻がどんな男と二人で会っているのか。
それが気になった。
それだけだった。
やがて。
商会からエレノアが出てくる。
隣には若い男。
アーネストが笑顔で何かを話している。
エレノアも笑っている。
「……」
レオンハルトの胸がざわついた。
自分には見せなくなった笑顔。
それを。
あの男には見せている。
「旦那様?」
「帰る」
「はい?」
「今すぐ帰る」
レオンハルトは馬車の扉を閉めた。
自分でも理解できないほど、苛立っていた。
◇
屋敷へ戻ると。
エレノアも少し遅れて帰宅した。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、奥様」
使用人たちが迎える。
そこへ。
「エレノア」
レオンハルトが現れた。
「旦那様?」
「今日、商会へ行ったそうだな」
「はい」
「誰と会っていた?」
エレノアは不思議そうに瞬きをした。
「商会の方です」
「男だったな」
「……はい」
「何を話していた?」
エレノアの表情が少し曇った。
「領地の織物についてです」
「それだけか?」
「はい」
エレノアは静かに答える。
「なぜ、そのようなことをお尋ねになるのですか?」
「……」
レオンハルトは答えられなかった。
嫉妬した。
そう言えばいい。
だが。
そんな言葉を口にする資格が、自分にあるとは思えなかった。
「公爵夫人として必要な仕事をしているだけです」
エレノアが続ける。
「旦那様にご報告する必要がございましたか?」
「……いや」
レオンハルトは目を逸らした。
「必要はない」
「でしたら、失礼いたします」
エレノアは一礼して去っていく。
その背中を見送りながら。
レオンハルトは拳を握った。
自分が彼女に言ったのだ。
干渉しない。
情を求めない。
互いの生活に口を出さない。
だから。
今さら何を言える。
◇
その夜。
レオンハルトは一人で酒を飲んでいた。
グラスを傾けても、気持ちは晴れない。
頭に浮かぶのは。
商会で笑っていたエレノア。
自分に向けられなくなった笑顔。
そして。
自分の言葉。
『君とは政略結婚だから』
『私に夫婦としての情を求めないでほしい』
「……」
レオンハルトはグラスを置いた。
あのとき。
自分は何を考えていたのだろう。
面倒なことになりたくなかった。
政略結婚なのだから、互いに干渉しないほうがいい。
それだけだと思っていた。
だが。
今なら分かる。
エレノアが自分を好きだったことを。
帰宅を待っていたこと。
食事の好みを覚えていたこと。
紅茶の濃さまで気にしていたこと。
傷ついた自分の手を、いつも気遣ってくれていたこと。
すべて。
当たり前だと思っていた。
「……馬鹿だな、私は」
小さく呟く。
そして。
初めて、その可能性を考えた。
もし。
エレノアが別の男を選んだら。
もし。
自分ではない誰かと結婚したら。
もし。
自分の隣から、本当にいなくなったら。
「……」
胸が締めつけられた。
嫌だった。
考えただけで、耐えられない。
そこで初めて。
レオンハルトは、自分の感情を認めた。
「私は……」
声が震える。
「エレノアを、失いたくない」
それは。
今まで一度も考えたことのない言葉だった。
そして同時に。
もっと恐ろしい事実にも気づく。
失いたくないということは。
すでに。
自分にとって彼女が――。
「妻だから、ではない」
レオンハルトは目を閉じた。
「私は……エレノア自身を」
そこから先を。
口にすることはできなかった。
けれど。
もう分かってしまった。
妻を失うことが怖い。
他の男に渡したくない。
自分のもとから離れてほしくない。
それは。
政略結婚の夫が抱く感情ではなかった。
翌朝。
レオンハルトは決意する。
まずは。
妻と、ちゃんと話そう。
今まで一度も聞かなかったことを。
エレノアが何を望んでいるのか。
何を考えているのか。
そして――。
自分が何を望んでいるのかを。




