第10話 妻に届いた、新しい縁談
第10話 妻に届いた、新しい縁談
翌朝。
レオンハルトは、昨日決めたことを実行しようとしていた。
エレノアと話す。
今まで聞かなかったことを聞く。
彼女が何を考えているのか。
自分との結婚をどう思っているのか。
そして――。
できることなら、もう一度、自分を見てほしい。
「……」
食堂へ向かう。
しかし。
扉を開けた瞬間、足が止まった。
エレノアがいた。
珍しく、一人ではない。
向かいには、エレノアの父――グランヴィル伯爵が座っていた。
「おはようございます、旦那様」
エレノアが立ち上がる。
「……ああ。おはよう」
レオンハルトは父親に一礼した。
「朝早くから失礼しております、公爵閣下」
「いえ。何かございましたか?」
レオンハルトが尋ねる。
伯爵は一瞬だけ娘を見る。
「実は、今日はエレノアに話がありまして」
「私に?」
「はい」
その言葉に。
エレノアは少しだけ表情を硬くした。
「先日、隣国のローディア侯爵家から手紙が届きました」
「……」
レオンハルトの表情が変わる。
「ローディア侯爵家?」
「ええ」
伯爵は続けた。
「エドワード侯爵令息が、エレノアとの縁談を希望しているそうです」
空気が止まった。
エレノアも黙っている。
そして。
レオンハルトは。
「……縁談?」
低い声で繰り返した。
「はい」
「しかし、彼女は私の妻だ」
「承知しております」
伯爵は静かに答える。
「ですから、今すぐどうこうという話ではありません」
「……ならば、なぜ」
「エレノアが現在の結婚生活をどう考えているのか。その確認です」
レオンハルトの視線がエレノアへ向く。
エレノアは俯いていた。
「お父様」
「何だ?」
「その話は……」
「お前が望まないなら断る」
「……」
エレノアは答えなかった。
レオンハルトの胸に、嫌な予感が広がる。
◇
朝食のあと。
レオンハルトはエレノアを呼び止めた。
「少し、話がしたい」
「はい」
二人は庭へ出た。
朝の風が、木々の葉を揺らしている。
「先ほどの話だが」
「縁談のことですか?」
「ああ」
「……はい」
「君は、どう思っている?」
エレノアはしばらく黙っていた。
「まだ、何も決めていません」
「そうか」
「お父様も、私に無理強いするつもりはないとおっしゃいました」
「……そうだな」
レオンハルトは手を握った。
「君は、その男と結婚したいのか?」
エレノアが顔を上げる。
「なぜ、そのようなことを?」
「質問に答えてくれ」
「……分かりません」
その答えが。
レオンハルトには恐ろしく聞こえた。
「分からない?」
「はい」
エレノアは静かに続ける。
「ただ……」
「ただ?」
「私が誰かと結婚することになっても、旦那様には関係のないことだと思います」
「……」
胸を刺されたようだった。
「君は、本気でそう思っているのか?」
「はい」
「私が夫なのに?」
エレノアは少し寂しそうに笑った。
「旦那様ご自身が、そうおっしゃったではありませんか」
レオンハルトは言葉を失った。
「政略結婚だから」
エレノアが静かに言う。
「夫婦としての情を求めてはいけない、と」
「……」
「ですから、私はその通りにしています」
正論だった。
何も反論できない。
自分が言った言葉だ。
自分で彼女にそうさせた。
「でも……」
レオンハルトの声が低くなる。
「君は、本当にそれでいいのか?」
「……」
「愛のない結婚でいいのか?」
エレノアは目を伏せた。
「もう、愛されることを期待していません」
その言葉が。
レオンハルトの胸に深く突き刺さった。
「……なぜ」
「期待しても、苦しいだけですから」
「私は――」
レオンハルトは言葉を止めた。
今。
何を言おうとした?
「私は……」
エレノアが見つめている。
言えない。
まだ。
愛していると。
そんなことを突然言えば。
彼女はどう思う?
自分がどれほど傷つけたか。
それを考えると。
簡単には口にできなかった。
「……何でもない」
「そうですか」
エレノアは一礼した。
「では、私は仕事がありますので」
「エレノア」
「はい?」
「……その縁談」
「はい」
「すぐに返事をする必要はない」
エレノアは少しだけ目を見開いた。
「分かりました」
「考える時間を取ればいい」
「ありがとうございます」
エレノアは頭を下げた。
そして去っていった。
◇
その日の午後。
エレノアのもとには、ローディア侯爵家から正式な書簡が届いた。
そこには。
エドワード侯爵令息が以前からエレノアを知っていたこと。
彼女の慈善活動を高く評価していること。
そして。
政略ではなく、本人の意思による結婚を望んでいること。
丁寧な言葉で綴られていた。
エレノアは書簡を読み終えた。
「……」
心が動いたわけではない。
けれど。
その言葉が、妙に胸に残った。
『あなた自身を大切にしたい』
そう書かれていた。
それは。
今の自分が、最も欲しかった言葉だったのかもしれない。
「奥様」
侍女が心配そうに声をかける。
「はい?」
「どうなさいますか?」
エレノアは手紙を封筒へ戻した。
「……少し考えます」
◇
夜。
レオンハルトは自室で一人、考えていた。
頭から離れない。
ローディア侯爵令息。
エレノアとの縁談。
そして。
『もう、愛されることを期待していません』
あの言葉。
「……」
もし。
彼女があの男を選んだら。
もし。
離縁して、別の男の妻になったら。
その瞬間。
自分は何をするだろう。
考えるまでもなかった。
――嫌だ。
絶対に嫌だった。
初めて。
はっきりと分かった。
エレノアを失いたくない。
政略結婚だからではない。
公爵夫人だからでもない。
一人の女性として。
自分の妻として。
ずっと隣にいてほしい。
「……」
レオンハルトは立ち上がった。
今度こそ。
逃げてはいけない。
自分が言った言葉によって、エレノアを傷つけた。
ならば。
自分の言葉で、それを覆すしかない。
エレノアの部屋へ向かう。
廊下を歩く。
そして。
扉の前に立った。
手を上げる。
だが。
「……」
叩けない。
今さら何を言えばいい。
謝るだけでは足りない。
けれど。
何も言わなければ。
本当に彼女を失う。
レオンハルトは目を閉じた。
そして。
ようやく扉を叩いた。
「エレノア」
中から声がする。
「はい」
「私だ」
「どうぞ」
扉を開ける。
エレノアが顔を上げる。
レオンハルトは彼女を見つめた。
言わなければ。
今度こそ。
手遅れになる。
「……話がある」
「何でしょう?」
レオンハルトは、ゆっくりと口を開いた。
「私は――」
その瞬間。
エレノアの机の上に置かれた、一枚の書類が目に入った。
そこには。
大きく。
離縁届
と書かれていた。
「……」
レオンハルトの顔から、血の気が引いた。




