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第11話 今さら、遅すぎます

第11話 今さら、遅すぎます


「……離縁届」


 レオンハルトの視線が、机の上から動かなかった。


 見間違いではない。


 エレノアの名前。


 そして。


 自分の名前を書く欄。


 その二つが並んでいる。


「旦那様?」


 エレノアの声に、レオンハルトは顔を上げた。


「これは……」


「見ての通りです」


 あまりにも静かな返事だった。


「離縁届です」


「なぜ……」


 声が掠れた。


 エレノアは少しだけ目を伏せる。


「もう、決めました」


「誰が?」


「私が」


「……ローディア侯爵令息との縁談が理由か?」


「それだけではありません」


 エレノアは椅子から立ち上がった。


「ずっと考えていました」


「いつからだ」


「旦那様に、夫婦としての情を求めるなと言われた日から」


 レオンハルトは息を呑んだ。


「最初は……私が我慢すればいいと思っていました」


 エレノアは笑った。


 けれど。


 その笑顔は、以前のようなものではなかった。


「政略結婚なのだから、愛されなくても仕方がない。そう思っていました」


「……」


「旦那様のお邪魔をしないようにして、必要なときだけ公爵夫人として振る舞えばいい」


「エレノア」


「でも」


 彼女の声が少し震えた。


「それでは、私は一生、自分を偽って生きることになります」


 レオンハルトは何も言えない。


「旦那様の隣にいても、妻ではなく、公爵家の都合のいい人間でいるだけ」


「そんなつもりでは――」


「分かっています」


 エレノアが遮った。


「旦那様に悪意がなかったことくらい、分かっています」


「ならば――」


「だからこそ、苦しかったんです」


 静かな言葉だった。


 責める声ではない。


 泣き叫ぶわけでもない。


 ただ。


 長い間、胸の奥にしまっていたものを吐き出すような声だった。


「旦那様は優しい方です」


「……」


「だから、私が勝手に期待してしまったんです」


 レオンハルトの胸が痛む。


「帰ってくるのを待てば、いつか振り向いてくれるかもしれない」


「……」


「食事を用意して、話しかけて、笑っていれば……いつか本当の夫婦になれるかもしれない」


 エレノアは目を伏せた。


「でも、違いました」


「エレノア……」


「旦那様は、私に何も求めていなかった」


 その言葉が。


 レオンハルトには何より苦しかった。


「だから、私も旦那様に何も求めないことにしました」


「……」


「そのほうが、ずっと楽だったんです」


     ◇


 レオンハルトは机の上の離縁届を見つめた。


 つい先日まで。


 エレノアが自分から離れていくことを恐れていた。


 そして今。


 本当に離れていこうとしている。


「……まだ、提出していないんだな」


「はい」


「なぜだ?」


「最後に、一度だけ旦那様と話してからにしようと思ったからです」


「最後……」


 その言葉に。


 胸を抉られる。


「最後とは、どういう意味だ」


「そのままの意味です」


「私は……」


 レオンハルトは拳を握った。


「君に離縁してほしくない」


 初めて。


 はっきりと言った。


 エレノアが目を見開く。


「……なぜですか?」


「それは……」


 言葉が詰まる。


 けれど。


 今度は逃げなかった。


「君を失いたくないからだ」


「……」


「君が他の男と結婚することも嫌だ」


「旦那様」


「君がこの屋敷から出ていくことも」


 レオンハルトの声が震える。


「君が私の妻ではなくなることも、耐えられない」


 エレノアは黙っている。


「だから、離縁届には署名しない」


「……」


「私も署名しない」


「どうして?」


「君と離れたくない」


 それだけだった。


 けれど。


 レオンハルトにとっては、人生で初めて口にするほど重い言葉だった。


     ◇


 エレノアはしばらくレオンハルトを見つめていた。


 やがて。


「……それは」


 小さく息を吐く。


「愛情ですか?」


 レオンハルトの胸が跳ねた。


「……」


「それとも、公爵家の妻を失いたくないだけですか?」


「違う」


 即答だった。


「では、何ですか?」


「私は――」


 レオンハルトはエレノアの目を見た。


 逃げない。


 もう誤魔化さない。


「君を愛している」


 静かな部屋に。


 その言葉だけが落ちた。


 エレノアの瞳が揺れる。


 けれど。


 すぐには喜ばなかった。


「……今さらです」


「分かっている」


「遅すぎます」


「ああ」


「私が何度も旦那様を待っていたときには、何も言ってくださらなかった」


「……」


「私が旦那様の帰りを待っていたときも」


「……ああ」


「旦那様が好きだと、心の中で何度思っても」


 エレノアの声が震えた。


「旦那様は、私を見てくださらなかった」


 レオンハルトは何も言えない。


「それなのに」


 エレノアは涙を堪えるように唇を噛んだ。


「離縁を決めた途端に、愛していると言われても……」


「分かっている」


 レオンハルトが言った。


「信じられないだろう」


「……はい」


「それでも」


 彼は一歩近づいた。


「私は、もう君を手放したくない」


 エレノアは一歩後ろへ下がった。


 その距離が。


 今の二人の関係そのものだった。


「……考えさせてください」


「分かった」


「離縁届は、まだ提出しません」


「ああ」


「でも」


 エレノアは真っ直ぐにレオンハルトを見る。


「それだけで、今までのことがなかったことになるわけではありません」


「分かっている」


「私が、すぐに旦那様を信じられるとも思わないでください」


「分かっている」


「……本当に?」


「ああ」


 レオンハルトは頷いた。


「今度は、君が私を信じられるまで待つ」


 エレノアは少し驚いたように目を瞬かせた。


 以前のレオンハルトなら。


 そんなことは言わなかった。


 いつも自分の都合だけで決めていた。


 けれど。


 今は違う。


「……では」


 エレノアは離縁届を封筒へ戻した。


「しばらく、考えます」


「ありがとう」


「お礼を言われることではありません」


「それでもだ」


 レオンハルトは扉へ向かう。


 そして。


 最後に振り返った。


「エレノア」


「はい」


「私は、本気だ」


「……」


「君を愛している」


 もう一度。


 今度は迷いなく告げて。


 レオンハルトは部屋を出た。


     ◇


 扉が閉じる。


 一人になったエレノアは。


 しばらく動けなかった。


 胸の奥が、痛い。


 嬉しいわけではない。


 悲しいわけでもない。


 ただ。


 ずっと欲しかった言葉が。


 あまりにも遅く届いたことが。


 苦しかった。


「……ずるいです」


 誰もいない部屋で呟く。


 もし。


 もっと早く言ってくれていたら。


 自分はきっと。


 何も考えずに、笑って抱きついていた。


 けれど。


 今の自分には。


 もう、簡単には戻れない。


 エレノアは机の引き出しを開けた。


 その中には。


 もう一枚の書類があった。


 ローディア侯爵家からの返答用紙。


 エレノアはそれを見つめる。


「……どうしよう」


 その頃。


 屋敷の廊下を歩くレオンハルトも。


 同じことを考えていた。


 どうすれば。


 もう一度、彼女に愛してもらえるのか。


 今度こそ。


 自分の言葉ではなく。


 行動で証明しなければならない。


 そして。


 二人の間に残された時間は。


 思っていたより、ずっと短かった。

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