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第12話 愛しているだけでは、足りない

第12話 愛しているだけでは、足りない


 翌朝。


 エレノアが目を覚ますと、枕元に一通の手紙が置かれていた。


 差出人は、ローディア侯爵家。


 昨日届いた縁談について、返事を急がせるものではなかった。


 ただ。


 エレノア自身の意思を尊重するという、丁寧な内容だった。


「……」


 手紙を閉じる。


 胸の奥に、昨日のレオンハルトの言葉が蘇った。


『君を愛している』


 あれほど欲しかった言葉だった。


 なのに。


 聞いた瞬間、涙が出そうになった。


 嬉しいからではない。


 遅すぎたからだ。


     ◇


 朝食の時間。


 エレノアが食堂へ入ると、レオンハルトがすでに座っていた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 以前とは違う。


 レオンハルトが、自分から声をかけてくる。


「昨日は眠れたか?」


「はい」


「そうか」


 会話はそこで終わる。


 けれど。


 以前なら、これすらなかった。


 レオンハルトはエレノアの前に紅茶を置いた。


「君は、この濃さが好きだったな」


 エレノアが目を瞬かせる。


「……覚えていたのですか?」


「最近、知った」


「そうですか」


 レオンハルトは苦笑した。


「もっと早く知るべきだった」


 エレノアは何も答えなかった。


 やがて朝食が終わる。


 エレノアが席を立とうとしたとき。


「エレノア」


「はい?」


「今日は、予定があるか?」


「午後から慈善活動があります」


「そうか」


「何か?」


「いや」


 レオンハルトは一瞬迷った。


「……気をつけて行ってきてくれ」


「はい」


 エレノアは微笑んだ。


 ほんの少しだけ。


 レオンハルトは、その笑顔を見つめた。


 以前なら。


 もっと笑っていた。


 自分が何も考えずに受け取っていた笑顔。


 今は。


 それだけで胸が苦しくなる。


     ◇


 昼前。


 レオンハルトは、偶然を装ってエレノアの侍女に尋ねた。


「エレノアは、以前から慈善活動をしていたのか?」


「はい」


「なぜ私に言わなかった?」


 侍女は少し迷った。


「奥様が、旦那様のお仕事の邪魔をしたくないと……」


「それだけか?」


「……」


「他に何かあるのか?」


 侍女は目を伏せた。


「以前の奥様は……旦那様に喜んでいただけることを、とても気にされていました」


「……」


「旦那様がお好きなものを調べたり」


「……」


「お帰りになる時間に合わせて食事を用意したり」


「……」


「旦那様がお疲れの日は、声をかけないほうがいいのかと悩まれたり」


 レオンハルトは黙って聞いていた。


「でも」


 侍女の声が少し震える。


「旦那様から『夫婦としての情を求めないでほしい』と言われてから……奥様は変わられました」


「……どう変わった?」


「何も望まなくなりました」


 その言葉が。


 レオンハルトの胸に突き刺さった。


「笑わなくなったわけではありません」


「……」


「旦那様以外の方には、今でもよく笑われます」


 レオンハルトは目を閉じた。


「ただ……旦那様に期待することだけを、やめられたのです」


「……そうか」


「はい」


 侍女は深く頭を下げた。


「失礼いたします」


 去っていく。


 レオンハルトは一人、廊下に残った。


     ◇


 期待することをやめた。


 その言葉が何度も頭の中を巡る。


 エレノアは。


 自分を嫌いになったわけではない。


 憎んでいるわけでもない。


 ただ。


 傷つかないために。


 期待することをやめたのだ。


 それなら。


 自分が「愛している」と言ったところで。


 彼女がすぐに信じられるはずがない。


 言葉だけでは足りない。


 レオンハルトは初めて理解した。


「……私は、何もしてこなかった」


 妻が自分を愛してくれていることに甘えて。


 その気持ちを当然だと思って。


 自分からは何も与えなかった。


 そして。


 彼女が離れて初めて。


 その大切さに気づいた。


     ◇


 夕方。


 エレノアが帰宅した。


「お帰りなさいませ、奥様」


「ただいま」


 その声を聞いて。


 レオンハルトは玄関へ向かった。


「エレノア」


「旦那様?」


「今日は……どうだった?」


「いつも通りです」


「そうか」


 レオンハルトは少し迷い。


 それから。


「明日、時間をもらえないか?」


「明日ですか?」


「ああ」


「何かあるのでしょうか?」


「君に見せたいものがある」


 エレノアは首を傾げた。


「……分かりました」


     ◇


 翌朝。


 エレノアはレオンハルトに連れられ、公爵家の領地へ向かった。


「どちらへ?」


「着けば分かる」


 馬車を降りる。


 そこには。


 広い土地と、新しく建てられた小さな工房があった。


「これは……?」


「織物工房だ」


 エレノアが目を見開く。


「領地の職人たちのために作った」


「……どうして?」


「君が話していたからだ」


「私が?」


「商会で、領地の織物をもっと広めたいと言っていただろう」


 エレノアは驚いた。


「聞いていたのですか?」


「ああ」


「いつ?」


「この前、商会の前で君を見かけた」


 エレノアは少し驚く。


「……見ていたのですね」


「ああ」


 レオンハルトは工房を見る。


「君が大切にしているものを、私も大切にしたいと思った」


「……」


「これが、愛しているという言葉の証明になるとは思っていない」


 エレノアは黙っている。


「ただ」


 レオンハルトは彼女を見る。


「君が一人で頑張る必要はないと、伝えたかった」


 胸の奥が。


 少しだけ震えた。


「……旦那様」


「何だ?」


「どうして、そこまで……」


 レオンハルトは迷わなかった。


「君に幸せになってほしいからだ」


「……」


「できれば、その隣に私がいたい」


 エレノアは何も言えなかった。


     ◇


 工房を見学したあと。


 二人は領地の丘に立っていた。


 風が吹く。


 遠くに広がる畑。


 その向こうには青い山々。


「綺麗ですね」


「ああ」


 しばらく二人で景色を見る。


 やがて。


 エレノアが口を開いた。


「旦那様」


「何だ?」


「私……まだ、怖いんです」


「……何が?」


「また信じてしまったら」


 レオンハルトは黙った。


「また好きになってしまったら」


「……」


「また同じことになったら、今度は立ち直れない気がします」


 レオンハルトの胸が痛む。


「だから」


 エレノアは続けた。


「愛していると言われても、すぐには戻れません」


「分かっている」


「……本当に?」


「ああ」


 レオンハルトは頷いた。


「君が私を信じられるまで、時間が必要なら待つ」


「どれくらい?」


「君が決めればいい」


「一年でも?」


「待つ」


「二年でも?」


「待つ」


 エレノアは驚いたように彼を見る。


「……そんなに待てるのですか?」


「君を失うことに比べれば、短い」


 エレノアの目に涙が浮かぶ。


 けれど。


 今度は、拭わなかった。


「……ずるいですね」


「何が?」


「そんなことを言われたら……」


 エレノアは小さく笑った。


「少しだけ、信じてみたくなります」


 レオンハルトの胸が熱くなる。


 だが。


 彼は急がなかった。


「それで十分だ」


 二人の間に。


 初めて、穏やかな沈黙が流れた。


 その日の夜。


 エレノアは自室で、ローディア侯爵家への返答書を手に取った。


 そして。


 ゆっくりと封筒を閉じた。


 まだ。


 答えは出せない。


 けれど。


 離縁届を提出する決意は。


 ほんの少しだけ、揺らぎ始めていた。

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