第13話 今度は、私から
第13話 今度は、私から
それから一週間。
レオンハルトは、何も急かさなかった。
エレノアがどこへ行こうと、何時に帰ろうと、必要以上に尋ねることはない。
けれど。
以前とは明らかに違っていた。
朝、エレノアが食堂へ来れば、自然に椅子を引く。
紅茶が少なくなれば、侍女を呼ぶ。
庭を歩いていれば、邪魔をしない距離から見守る。
そして。
何より変わったのは。
エレノアの話を、最後まで聞くようになったことだった。
「今日、孤児院で子供たちが――」
「それで?」
「はい?」
「その子は、そのあとどうした?」
以前なら。
そんな話に興味を示すことなどなかった。
エレノアは最初こそ戸惑っていた。
けれど。
少しずつ。
本当に少しずつ。
以前のように話せるようになってきた。
それを。
レオンハルトは何より嬉しく思っていた。
◇
ある日の夕方。
エレノアが屋敷へ戻ると、玄関にレオンハルトが立っていた。
「お帰り」
「ただいま戻りました」
「今日は遅かったな」
「少し寄り道をしていました」
「そうか」
レオンハルトはそれ以上聞かなかった。
エレノアは少し意外に思う。
「……何も聞かないのですか?」
「聞いてほしいのか?」
「そういうわけでは……」
「なら、聞かない」
エレノアは思わず笑った。
「変な方ですね」
「君にそう言われるのは二度目だな」
「そうでしたか?」
「ああ」
レオンハルトも笑った。
その笑顔を見て。
エレノアの胸が、少しだけ温かくなる。
こんなふうに。
普通に笑い合えたのは、いつ以来だろう。
◇
その夜。
突然、激しい雨が降り始めた。
雷まで鳴っている。
エレノアは窓の外を見つめた。
「……すごい雨」
そのとき。
屋敷の廊下から足音が聞こえた。
扉が軽く叩かれる。
「エレノア」
「はい?」
「大丈夫か?」
レオンハルトだった。
「大丈夫です」
「そうか」
しばらく沈黙。
「……雷が苦手ではなかったか?」
エレノアは目を見開いた。
「覚えていたのですか?」
「ああ」
昔。
一度だけ。
雷が怖いと話したことがある。
レオンハルトは覚えていた。
「昔は、雷が鳴ると眠れなかっただろう」
「……はい」
「今も?」
「少しだけ」
扉の向こうで。
レオンハルトが少し黙った。
「……ここにいてもいいか?」
エレノアは驚いた。
「え?」
「嫌なら戻る」
「……」
以前なら。
こんなことを言われたら、きっと嬉しくて仕方なかった。
今は。
嬉しい。
けれど。
怖い。
それでも。
「……はい」
小さく答えた。
「いてください」
扉が開く。
レオンハルトが入ってくる。
一定の距離を保って、椅子に座った。
何も言わない。
ただ。
そこにいる。
雷が鳴る。
エレノアの肩が少し震える。
レオンハルトは気づいた。
けれど。
勝手に触れようとはしなかった。
「……手を」
「え?」
「握ってもいいか?」
エレノアはしばらく彼を見る。
そして。
ゆっくりと手を差し出した。
レオンハルトが、その手を包む。
以前のように。
けれど。
以前とは違う。
今度は。
彼女の許可を得て触れている。
「……温かいですね」
エレノアが呟く。
「君の手が冷たいんだ」
「そうですか?」
「ああ」
また雷が鳴った。
けれど。
今度は怖くなかった。
◇
しばらくして。
エレノアが小さな声で言った。
「旦那様」
「何だ?」
「私……」
言葉が止まる。
「どうした?」
「少しだけ、後悔しています」
「……何を?」
「離縁届を出そうとしたことを」
レオンハルトの手がわずかに震えた。
「それは……」
「まだ、全部許したわけではありません」
「ああ」
「まだ、以前のようには戻れません」
「分かっている」
「でも」
エレノアは握られた手を見る。
「もう少しだけ、旦那様を見ていたいと思いました」
レオンハルトは息を呑んだ。
「……それは」
「はい」
エレノアは顔を上げた。
「もう一度だけ、信じてみたいということです」
レオンハルトの胸が熱くなる。
「ありがとう」
「まだ、お礼を言われることではありません」
「それでも」
レオンハルトは微笑んだ。
「私にとっては、大切なことだから」
◇
翌朝。
エレノアは机に向かった。
引き出しから、離縁届を取り出す。
しばらく見つめて。
そして。
それを破いた。
一枚。
二枚。
細かく。
もう、必要ない。
完全にレオンハルトを許したわけではない。
まだ不安もある。
また傷つくかもしれない。
それでも。
今度は。
自分から選びたい。
「……もう一度だけ」
小さく呟く。
その瞬間。
扉の向こうから声がした。
「エレノア?」
「はい?」
「朝食の時間だ」
以前なら。
ただの連絡だった。
今は。
少しだけ、嬉しい。
「今、行きます」
エレノアは立ち上がる。
扉を開ける。
そこにはレオンハルトがいた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
二人は並んで歩き出す。
まだ。
夫婦として完成したわけではない。
けれど。
今度は。
同じ方向を向いていた。




