第14話 君の隣を、もう一度
第14話 君の隣を、もう一度
離縁届を破ってから、三日が経った。
屋敷の中に、大きな変化があったわけではない。
エレノアはこれまで通り、自分の仕事をする。
レオンハルトも公爵としての務めを果たす。
けれど。
二人の間には、以前にはなかった小さな変化が生まれていた。
「エレノア、今日は午後から王都へ行くのか?」
「はい。商会との打ち合わせがあります」
「そうか」
以前なら、そこで会話は終わっていた。
今は違う。
「帰りは遅くなる?」
「夕方には戻る予定です」
「分かった。気をつけて」
「ありがとうございます」
たったそれだけ。
それだけなのに。
エレノアは、少し嬉しかった。
自分の予定を管理されているのではない。
自分を気にかけてくれている。
そう感じられるからだ。
◇
午後。
エレノアは商会を訪れていた。
先日の若い商会主、アーネストとの打ち合わせだった。
「こちらが新しい販路の案です」
「ありがとうございます」
書類を受け取り、内容を確認する。
「とても良いですね」
「奥様が以前おっしゃっていた通り、王都だけではなく地方にも――」
そこまで話したところで。
「……エレノア」
背後から声がした。
振り返る。
「旦那様?」
レオンハルトが立っていた。
「どうしてこちらへ?」
「近くで仕事があった」
「そうでしたか」
アーネストが立ち上がる。
「公爵閣下、お久しぶりです」
「ああ」
レオンハルトは軽く頷いた。
以前なら。
この状況だけで、不機嫌になっていたかもしれない。
けれど。
今日は違った。
「エレノア」
「はい?」
「話の邪魔をしてすまない。終わるまで外で待っている」
「え?」
「急ぐ必要はない」
そう言って。
本当に部屋の外へ出ていった。
エレノアは思わず扉を見つめた。
「……変わられましたね」
アーネストが呟く。
「え?」
「以前お会いしたときとは、随分印象が違います」
「そうでしょうか」
「はい」
アーネストは微笑んだ。
「奥様を信じていらっしゃるように見えます」
エレノアは返事をしなかった。
けれど。
胸の奥が少し温かくなった。
◇
打ち合わせが終わる。
「お待たせしました」
「終わったか?」
「はい」
レオンハルトは立ち上がった。
「帰ろう」
「はい」
二人で馬車に乗る。
しばらくして。
レオンハルトが口を開いた。
「……嫉妬していた」
「え?」
「以前なら、あの男と話している君を見たら、きっと腹を立てていた」
「……」
「だが、今日はそうならなかった」
エレノアが彼を見る。
「なぜですか?」
「君を信じたいからだ」
その言葉に。
エレノアは黙った。
「私は今まで、君を信じていなかったわけではない」
「はい」
「ただ、自分が傷つくことばかり考えていた」
レオンハルトは窓の外を見る。
「君が私を愛していることを疑わなかったから、安心していた」
「……」
「そして、その安心に甘えていた」
エレノアは何も言わなかった。
「今は違う」
レオンハルトが彼女を見る。
「君が誰と話すかではなく、君自身を信じたい」
「……旦那様」
「それに」
レオンハルトは少し笑った。
「君が私を選ぶかどうかは、私が決められることではない」
エレノアは目を見開いた。
「最後に決めるのは君だ」
「……」
「だから私は、選んでもらえる男になる」
その言葉に。
エレノアの胸が大きく揺れた。
以前のレオンハルトなら。
自分が妻なのだから、離れていくことはないと思っていただろう。
今は。
自分の意思を尊重してくれている。
「……ずいぶん変わりましたね」
「そうか?」
「はい」
エレノアは笑った。
「少しだけ、好きだった頃の旦那様に戻ったみたいです」
レオンハルトの表情が止まった。
「……今」
「はい?」
「好きだった、と言ったか?」
「……」
エレノアは自分の失言に気づく。
「忘れてください」
「無理だ」
「お願いします」
「無理だ」
レオンハルトの顔に、初めて嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「君が私を好きだったことを、私は一生忘れない」
「……もう」
エレノアは恥ずかしそうに窓の外を見る。
その横顔を。
レオンハルトは静かに見つめていた。
◇
その夜。
エレノアは自室で一人、鏡の前に座っていた。
今日、自分が口にした言葉を思い出す。
『少しだけ、好きだった頃の旦那様に戻ったみたいです』
違う。
本当は。
もっと別のことを言いたかった。
――今も、好きかもしれない。
けれど。
まだ怖い。
また同じことになるのが。
それでも。
少しずつ。
心はレオンハルトのもとへ戻り始めていた。
◇
同じ頃。
レオンハルトは執務室で一通の手紙を読んでいた。
差出人は、ローディア侯爵家。
エレノアとの縁談についてだった。
そこには。
『エレノア嬢が離縁を望まれる場合、正式に求婚する準備がある』
そう記されている。
レオンハルトは手紙を静かに折りたたんだ。
以前なら。
怒りに任せて破っていたかもしれない。
だが。
今は違う。
エレノアが自分を選ぶかどうか。
それは彼女の自由だ。
だからこそ。
「……負けるつもりはない」
誰に言うでもなく呟く。
そして。
明日、エレノアに伝えようと決めた。
自分が公爵としてではなく。
一人の男として。
もう一度、正式に彼女へ求婚することを。
政略ではない。
家のためでもない。
利益のためでもない。
ただ。
エレノアを愛しているから。
そのために。
レオンハルトは初めて、自分から未来を選ぼうとしていた。




