第15話 政略ではなく、君に
第15話 政略ではなく、君に
翌朝。
エレノアが食堂へ向かうと、レオンハルトはすでに席についていた。
「おはようございます」
「おはよう」
いつもの挨拶。
けれど。
今日は、レオンハルトの様子が少し違っていた。
落ち着いているようで。
どこか緊張している。
「旦那様?」
「何だ?」
「何かありましたか?」
「……分かるか?」
「少しだけ」
レオンハルトは苦笑した。
「君には、隠し事ができなくなったな」
エレノアの胸が、少しだけ温かくなる。
以前なら。
そんな言葉を聞くことさえなかった。
「朝食が終わったら、少し時間をもらえるか?」
「はい」
「大事な話がある」
「分かりました」
◇
朝食を終えると。
二人は庭へ出た。
以前、離縁について話した場所だった。
レオンハルトは立ち止まる。
「エレノア」
「はい」
「私は、君に謝らなければならない」
「……」
「今まで何度も謝ったが、それだけでは足りないと思っている」
エレノアは黙って彼を見る。
「私は君と結婚したとき、政略結婚なのだから、愛情など必要ないと思っていた」
「はい」
「君が私を愛してくれていることも、いつまでも変わらないと思っていた」
「……」
「だから、君がどれほど傷ついているのか、考えもしなかった」
レオンハルトは深く息を吐いた。
「私は、君の優しさに甘えていた」
エレノアの瞳が揺れる。
「そして君が離れていって、初めて分かった」
レオンハルトはまっすぐ彼女を見る。
「私は、君がいなければ嫌なんだ」
「……」
「君と食事をしたい」
「……」
「朝、君におはようと言いたい」
「……」
「夜、君が帰ってくるのを待ちたい」
エレノアの胸が締めつけられる。
「君が今日何をしていたのか、何を考えていたのか……もっと知りたい」
「旦那様……」
「そして」
レオンハルトは一歩近づいた。
「これから先も、君の隣にいたい」
◇
エレノアは目を伏せた。
「……それは」
「うん」
「公爵夫人として、ですか?」
「違う」
即答だった。
「一人の女性として、君にいてほしい」
エレノアは顔を上げる。
「私は、君にもう一度求婚したい」
「……!」
レオンハルトは懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開ける。
中には、一つの指輪が入っていた。
以前の結婚指輪とは違う。
飾り気のない。
けれど、とても美しい指輪だった。
「これは?」
「新しく作った」
「……どうして?」
「今までの指輪は、政略結婚の証だったから」
レオンハルトは静かに答えた。
「これは違う」
指輪を取り出す。
「私が、君を愛している証にしたい」
エレノアの瞳に涙が浮かぶ。
「だから」
レオンハルトは片膝をついた。
「エレノア・グランヴィル」
彼女の名前を。
初めて。
愛する女性へ向けるように呼んだ。
「もう一度、私の妻になってくれないか」
エレノアは息を呑んだ。
「今度は、政略ではない」
レオンハルトの声は震えていた。
「君が嫌だと言うなら、私は無理に引き止めない」
「……」
「ローディア侯爵令息を選んでもいい」
その言葉に。
エレノアが驚く。
「だが」
レオンハルトは続ける。
「できることなら、私を選んでほしい」
「……」
「君を幸せにすると約束する」
そして。
「もし私がまた間違えたら、そのときは私を叱ってくれ」
エレノアの頬を涙が伝った。
「……本当に、ずるい人」
「そうかもしれない」
「今になって、そんなことを言うなんて」
「分かっている」
「もっと早く言ってほしかった」
「……すまない」
エレノアは涙を拭った。
そして。
レオンハルトの前にしゃがみ込む。
「顔を上げてください」
レオンハルトが顔を上げる。
「旦那様」
「はい」
「私は……」
言葉が出ない。
胸の中には。
怖さもある。
不安もある。
それでも。
この人と過ごした日々を。
全部嫌いになったわけではなかった。
むしろ。
今も好きだからこそ。
こんなにも苦しかった。
「……すぐに答えを出してもいいのですか?」
「もちろんだ」
「本当に?」
「ああ」
エレノアは小さく笑った。
「では……」
レオンハルトの表情が強張る。
「もう少しだけ、時間をください」
「……分かった」
レオンハルトは頷いた。
けれど。
その顔に落胆はなかった。
「待つ」
「はい」
「何日でも」
「……」
「何年でも」
エレノアは少し笑った。
「二年は長いですよ」
「それでも待つ」
「では、一年」
「待つ」
「半年」
「待つ」
「……三か月」
「それでも待つ」
「ふふ」
思わず笑ってしまう。
レオンハルトも笑った。
その瞬間。
二人の間にあった長い緊張が、ほんの少しだけほどけた。
◇
その日の夕方。
エレノアは一人で庭を歩いていた。
手には。
レオンハルトから渡された指輪。
まだ指にはつけていない。
けれど。
捨てることもできなかった。
「……どうしましょう」
小さく呟く。
そこへ。
「エレノア」
振り返る。
レオンハルトだった。
「旦那様」
「ここにいたのか」
「はい」
「指輪……」
「まだ、つけていません」
「そうか」
レオンハルトは少し寂しそうに笑う。
その顔を見て。
エレノアの胸が痛んだ。
「でも」
「……?」
「大切に持っています」
レオンハルトが目を見開く。
「それだけで、今は十分だ」
そう言って。
レオンハルトはそれ以上近づかなかった。
エレノアはそんな彼を見つめた。
昔の彼なら。
自分の答えを急かしただろう。
今は。
待ってくれている。
だから。
自分も。
もう一度だけ。
この人を信じてみてもいいのかもしれない。
◇
その夜。
エレノアは机に向かい、一通の手紙を書いた。
ローディア侯爵家への返事だった。
便箋に、ゆっくりと文字を綴る。
そして最後に。
ペンを置いた。
「……ごめんなさい」
その手紙に書かれていたのは。
丁寧な断りの言葉。
エレノアは封をした。
もう。
他の誰かとの未来を考える必要はない。
まだ。
レオンハルトを完全に許したわけではない。
けれど。
もう一度だけ。
夫婦になってみたい。
今度は。
政略ではなく。
愛する人と。
エレノアは引き出しから指輪を取り出した。
そして。
左手の薬指に、そっと通した。
「……もう一度だけ」
小さく呟く。
その指輪は。
今までの結婚生活を終わらせるためのものではない。
新しい二人の始まりを。
静かに告げるものだった。




