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第8話 君のためではない

第8話 君のためではない


 翌朝。


 レオンハルトは、いつもより早く目を覚ました。


 目を開けた瞬間、最初に浮かんだのは昨日のことだった。


 帰宅したエレノア。


 自分を見て、丁寧に微笑んだ妻。


 そして――。


 何事もなかったように、自分の部屋へ戻っていった背中。


「……」


 レオンハルトは起き上がった。


 昨日の夜、自分は確かに言った。


 戻ってきてほしい、と。


 もちろん、本人に伝えたわけではない。


 ただ、誰もいない部屋で呟いただけだ。


 それなのに。


 その言葉が、朝になっても頭から離れない。


「旦那様、お着替えを」


「ああ」


 侍従が服を整える。


 その間も、レオンハルトは何度も時計を見た。


「……まだか」


「はい?」


「何でもない」


 自分でも分かっている。


 気にしているのは、時間ではない。


 エレノアが、今どこにいるのか。


 それだけだった。


     ◇


 朝食の時間。


 食堂には、いつものようにレオンハルト一人。


 向かいの席は空いている。


 料理が運ばれてくる。


 紅茶も。


 パンも。


 卵料理も。


 すべていつも通り。


 なのに。


「……」


 レオンハルトは食事に手をつけなかった。


「旦那様?」


「エレノアは?」


「奥様でしたら、今日は午前中から王都へお出かけになる予定です」


「どこへ?」


「王都の慈善団体へ」


「……そうか」


 侍従が続ける。


「午後には戻られる予定です」


「そうか」


 レオンハルトは頷いた。


 そして。


「今日は……」


「はい?」


「……いや」


 まただ。


 聞きたいことはある。


 けれど。


 聞けば聞くほど、自分が妻のことを気にしていると認めることになる。


 それが嫌だった。


「食事を下げてくれ」


「まだ半分ほど残っておりますが」


「食欲がない」


「承知しました」


 侍従が食器を片付けていく。


 レオンハルトは立ち上がった。


     ◇


 午前。


 執務室。


 レオンハルトは書類に目を通していた。


 だが。


 窓の外から聞こえてきた馬車の音に、思わず顔を上げた。


「……」


 違う。


 エレノアの馬車ではない。


 すぐに視線を戻す。


 しかし。


 数分後。


 また馬車の音がした。


 今度は、玄関前で止まった。


「奥様がお出かけになられます」


 侍従の声が聞こえる。


 レオンハルトは立ち上がった。


 そして。


 自分でも気づかないうちに、窓辺へ歩いていた。


 庭を横切るエレノアの姿が見える。


 淡い色のドレス。


 小さな帽子。


 侍女と話しながら笑っている。


 その姿を見て。


 なぜか安心した。


 しかし。


 次の瞬間。


 レオンハルトの目に、エレノアが持っている籠が映った。


「……あれは何だ?」


 侍従に尋ねる。


「慈善団体へ届ける品物だそうです」


「何が入っている?」


「子供たちへの衣類や菓子などかと」


「そうか」


 レオンハルトは窓から離れた。


 だが。


 その後も、仕事に集中できなかった。


     ◇


 昼過ぎ。


 王都の慈善団体から、エレノアが戻ってきた。


「お帰りなさいませ、奥様」


「ただいま」


 玄関ホールで迎えた侍女が、何かに気づいた。


「奥様、その手……」


「え?」


 エレノアが自分の手を見る。


 指先に小さな赤い傷があった。


 荷物を運んでいるときに、木箱の端で擦ったらしい。


「これくらい、大丈夫ですよ」


「ですが、お手当てを」


「あとで自分でします」


「旦那様にお伝えしたほうが――」


「いいえ」


 エレノアはすぐに首を横に振った。


「その必要はありません」


 それを。


 少し離れた場所で聞いていた男がいた。


「……何が必要ないんだ?」


 エレノアが振り返る。


「旦那様?」


 レオンハルトだった。


「その手は?」


「これですか?」


 エレノアは自分の指を見る。


「少し擦っただけです」


「少し?」


「はい」


 レオンハルトは近づいた。


「見せて」


「え?」


「手を」


 エレノアは戸惑いながら手を差し出した。


 レオンハルトがその手を取る。


 ほんの小さな傷。


 血もほとんど出ていない。


 それでも。


「医師を呼べ」


「旦那様、そこまでしていただかなくても――」


「傷がある」


「本当に大したことではありません」


「私が判断する」


 エレノアは黙った。


 侍女が急いで医師を呼びに行く。


 レオンハルトは妻の手を見つめたまま。


 ふと気づく。


 細い指。


 白い肌。


 こんな小さな傷に、自分はなぜこんなに動揺しているのだろう。


「……」


 エレノアも困ったようにレオンハルトを見る。


「旦那様」


「何だ?」


「本当に大丈夫です」


「分かっている」


「では――」


「それでも、診てもらう」


「……はい」


 やがて医師がやってきて、傷を確認する。


「軽い擦り傷ですね。念のため薬を塗っておけば問題ありません」


「そうか」


 レオンハルトは安堵した。


 そして。


 エレノアへ視線を向ける。


「今後は気をつけろ」


「はい」


「無理をする必要もない」


「分かりました」


「……それから」


 言葉が止まる。


 何か言いたかった。


 けれど。


 うまく言葉にならない。


「……もういい」


 レオンハルトは部屋を出ていった。


     ◇


 廊下を歩きながら。


 レオンハルトは、自分の右手を見た。


 先ほどまで。


 エレノアの手を握っていた。


 その感触が残っている。


「……」


 胸が妙に騒がしい。


 だが。


 その感情を認めたくはなかった。


「私は、夫として当然のことをしただけだ」


 そう自分に言い聞かせる。


 妻に怪我があれば、心配する。


 当然だ。


 それだけだ。


 それ以上の意味などない。


     ◇


 一方。


 エレノアは自室に戻っていた。


 侍女が薬を塗ってくれている。


「奥様」


「はい?」


「旦那様は、とても心配されていましたね」


「……そうでしょうか?」


「はい」


 エレノアは少し考えた。


 確かに。


 あれほど慌てる必要のない傷だった。


 医師まで呼んだ。


 けれど。


「……きっと、公爵家の妻だからでしょう」


「え?」


「私に何かあれば、社交界でも困りますから」


 エレノアは微笑んだ。


 そうに違いない。


 政略結婚なのだから。


 公爵夫人に傷があれば、外聞が悪い。


 だから心配した。


 それだけ。


 そう考えれば。


 何も期待せずに済む。


「奥様……」


 侍女は何か言いたそうだった。


 しかし。


 エレノアは気づかないふりをした。


     ◇


 夕方。


 レオンハルトは執務室にいた。


 机の上には大量の書類。


 けれど。


 今日は不思議と仕事が進んだ。


 なぜなら。


 エレノアの手の傷が、大したことのないものだと分かったからだ。


 それだけで。


 妙に安心している。


「……」


 レオンハルトは自分で気づき、眉をひそめた。


 おかしい。


 妻が少し怪我をした。


 ただそれだけ。


 なのに。


 なぜ、こんなに気になる。


 そして。


 なぜ。


 妻が自分を頼ってくれなかったことが、少し寂しいのだろう。


『旦那様にお伝えしたほうが――』


『いいえ。その必要はありません』


 あの言葉が頭から離れない。


 以前なら。


 何かあれば、自分に知らせてくれた。


 今は違う。


 自分を頼らない。


 自分を必要としない。


 それは。


 自分が望んだことだったはずだ。


「……」


 レオンハルトは窓の外を見る。


 夕暮れの庭。


 そこにエレノアの姿はない。


「……私は何を期待している?」


 誰に聞くでもなく呟いた。


 答えは返ってこない。


 ただ。


 胸の奥に残った一つの感情だけは。


 もう誤魔化せなくなり始めていた。


 ――妻に必要とされたい。


 けれど。


 その願いを口にする資格が、自分にはないことも。


 レオンハルトは分かっていた。

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