第7話 君の予定を、なぜ私は気にする
第7話 君の予定を、なぜ私は気にする
その日の午後。
レオンハルトは執務室で書類に目を通していた。
いつもと変わらない仕事。
王都の情勢。
領地からの報告。
商会との契約。
確認しなければならない書類は、いくらでもある。
それなのに。
「……」
レオンハルトの視線は、何度も同じ場所を行き来していた。
内容が頭に入らない。
理由は分かっている。
今朝、侍女から聞いた言葉が頭から離れないのだ。
『奥様は、本日は午後から王都の茶会へ出席される予定です』
別に。
それだけなら、何も気にすることではない。
公爵夫人なのだから、社交の予定があるのは当然だ。
むしろ。
自分が口を出す必要などない。
昨日までなら、そう考えていた。
だが。
「……何時に帰ってくるんだ?」
思わず口から出た。
「はい?」
侍従が顔を上げる。
「いや……」
レオンハルトは咳払いをした。
「何でもない」
再び書類に目を落とす。
しかし数秒後。
「……茶会は、どこの家だ?」
侍従が答える。
「ローデン侯爵夫人の邸宅です」
「そうか」
「午後二時からの予定ですので、夕方には戻られるかと」
「……そうか」
レオンハルトは頷いた。
それで終わり。
そう思った。
なのに。
時計を見る。
まだ二時にもなっていない。
「……」
自分でも呆れる。
なぜ気にしている。
エレノアがどこへ行こうと。
誰と話そうと。
自分には関係ない。
そういう結婚なのだから。
それなのに。
時計の針が進むたびに、妙に落ち着かなくなっていく。
◇
同じ頃。
エレノアはローデン侯爵邸に到着していた。
「まあ、エレノア様!」
「本日はお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ。ぜひお話ししたかったのです」
侯爵夫人が笑顔で迎える。
エレノアも自然な笑顔を返す。
「結婚されたばかりですもの。さぞお幸せでしょう?」
その質問に。
エレノアは一瞬だけ言葉を止めた。
「……はい」
そして、微笑む。
「おかげさまで」
嘘。
けれど。
政略結婚の事情を、わざわざ他人に話す必要はない。
周囲の夫人たちは嬉しそうに笑った。
「まあ、羨ましいですわ」
「公爵閣下は冷静なお方ですが、奥様にはお優しいのでしょう?」
「ええ」
エレノアは答えた。
「とてもお優しい方です」
その言葉に嘘はなかった。
レオンハルトは冷たい人ではない。
ただ。
自分を愛していないだけ。
そう思っていた。
「ところで」
隣の令嬢が口を開く。
「エレノア様は、結婚前から慈善活動をされていたそうですね」
「はい」
「とても素敵ですわ」
話題は自然と別の方向へ移っていく。
エレノアはほっとした。
夫のことを聞かれるより。
今は自分自身の話をしているほうが楽だった。
◇
午後四時。
レオンハルトは、再び時計を見た。
「……」
まだ帰ってきていない。
予定では、もう少し遅くなる可能性もある。
分かっている。
分かっているのに。
落ち着かない。
「旦那様」
侍従が書類を持ってくる。
「こちらにご署名を」
「ああ」
ペンを持つ。
署名する。
そして。
「……ローデン侯爵家まで、どのくらいかかる?」
侍従が目を瞬かせた。
「馬車で三十分ほどかと」
「そうか」
「何かございますか?」
「いや」
レオンハルトはペンを置いた。
「何でもない」
自分でも分かっていた。
今、自分は妻の帰宅時間を気にしている。
しかも。
理由もなく。
◇
午後五時。
エレノアが帰宅した。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました」
玄関ホールで使用人たちが迎える。
エレノアは笑顔で応える。
「今日は楽しかったですか?」
「はい。とても」
「それはよろしゅうございました」
エレノアが靴を脱ぎ、屋敷の中へ入る。
そのとき。
「エレノア」
背後から声がした。
振り返る。
「旦那様?」
レオンハルトが立っていた。
「……お帰り」
「はい。ただいま戻りました」
「茶会はどうだった?」
「楽しかったです」
「誰がいた?」
「ローデン侯爵夫人や、何人かの夫人方です」
「……男性も?」
エレノアが瞬きをする。
「え?」
「いや」
レオンハルトは自分でも驚いて、言葉を濁した。
「茶会なら、男性はいないか」
「はい。女性だけでした」
「そうか」
レオンハルトは安堵した。
――なぜ?
自分で自分に問いかける。
エレノアは首を傾げている。
「何かございましたか?」
「いや」
「では、私は部屋へ戻りますね」
「待ってくれ」
また。
また呼び止めてしまった。
「……今日は」
「はい」
「疲れただろう」
「少しだけ」
「そうか」
レオンハルトは何か言おうとする。
だが、言葉が出てこない。
エレノアは静かに待っている。
「……」
「旦那様?」
「……何でもない」
「そうですか」
エレノアは一礼した。
「では、失礼いたします」
彼女が階段を上っていく。
レオンハルトはその姿を見送った。
そして。
気づいてしまった。
自分は今日。
妻がどこへ行くのか気にした。
何時に帰るのか気にした。
誰と会っていたのか気にした。
そして。
男性がいたのかまで確認しようとした。
「……」
レオンハルトは眉間に皺を寄せた。
「おかしい」
何かがおかしい。
自分は彼女に愛情を求めるなと言った。
妻も、それを受け入れた。
ならば。
妻が自分の生活から離れていくことは、望んだ結果のはずだ。
なのに。
その距離が。
日に日に苦しくなっている。
◇
夜。
エレノアは自室で手紙を書いていた。
宛先は実家。
結婚後の近況を知らせるためのものだ。
『こちらでは皆様に親切にしていただいております』
そこまで書いて。
ペンが止まる。
夫のことを書くべきだろうか。
少し考えて。
結局、何も書かなかった。
レオンハルトは元気です。
それだけで十分だ。
愛されていないことを。
父に心配させる必要はない。
「……私は大丈夫」
また、その言葉を口にする。
最近。
自分に言い聞かせる回数が増えた。
◇
その頃。
レオンハルトは、自室の机に座っていた。
だが。
やはり仕事は進まない。
頭の中に浮かぶのは。
今日、帰宅したエレノアの顔。
自分を見たときの、あの礼儀正しい笑顔。
以前とは違う。
以前の彼女なら。
『お帰りなさいませ』
その一言のあとに。
『今日は早かったのですね』
と嬉しそうに笑った。
今は。
ただの挨拶。
それ以上でも、それ以下でもない。
自分が望んだことだ。
自分でそうさせた。
なのに。
「……戻ってきてほしい」
小さな声が漏れた。
言った瞬間。
レオンハルトは固まった。
「……何を言っている」
誰もいない部屋。
返事はない。
けれど。
その言葉だけが。
いつまでも胸の中に残っていた。




