第6話 妻が笑わなくなった
第6話 妻が笑わなくなった
それから数日。
エレノアは、変わらない毎日を過ごしていた。
朝は早く起きる。
一人で朝食を取る。
公爵夫人として必要な仕事をこなし、午後には社交や慈善活動に出かける。
そして夜になれば、自分の部屋で静かに過ごす。
レオンハルトの生活に、口を挟まない。
レオンハルトの帰宅を、待たない。
レオンハルトの好みを、気にしない。
それだけだった。
けれど。
屋敷の中では、その変化が少しずつ大きくなっていた。
「奥様、お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
夕方。
エレノアが慈善活動から戻ってくる。
玄関で使用人たちに迎えられると、彼女はいつものように笑った。
「今日は孤児院の子供たちとお菓子を作ったんです」
「まあ、楽しそうですね」
「はい。小さな子が一生懸命混ぜてくれて、とても可愛かったですよ」
侍女たちも笑う。
エレノアも笑う。
明るい声が玄関ホールに響く。
その光景を。
廊下の奥から、レオンハルトが見ていた。
「……」
今日、王宮から戻ってきたところだった。
たまたま目に入っただけ。
そう思っていた。
しかし。
足が止まった。
エレノアが笑っている。
楽しそうに話している。
それは、結婚してから初めて見る表情だった。
いや。
正確には。
自分の前では見なくなった表情だった。
「旦那様?」
隣にいた侍従が声をかける。
「……何でもない」
レオンハルトは歩き出した。
だが。
すれ違うとき。
「お帰りなさいませ、旦那様」
エレノアが一礼した。
笑顔はなかった。
ただ、礼儀正しいだけ。
「……ああ」
それだけのやり取りだった。
レオンハルトが通り過ぎる。
背後から、再びエレノアたちの笑い声が聞こえた。
レオンハルトは無意識に歩く速度を落とした。
しかし。
振り返ることはしなかった。
◇
夕食の時間。
いつものように、二人は別々に食事を取っていた。
レオンハルトは一人で食堂に座っている。
向かいの席は空いている。
「……」
料理を口に運ぶ。
味は悪くない。
むしろ、いつも通りだ。
なのに。
妙に静かだった。
「奥様は本日は何を?」
レオンハルトが尋ねる。
「慈善活動に参加されていたようです」
「……そうか」
「孤児院へ行かれたそうです」
「孤児院?」
「はい。以前から奥様が支援されている施設です」
レオンハルトは少し驚いた。
「以前から?」
「はい」
「私は知らなかった」
侍従は何も言わない。
「……いつからだ?」
「奥様が婚約される前からだと伺っております」
「そうか」
レオンハルトは黙り込んだ。
妻が慈善活動をしていた。
そんなことさえ知らなかった。
いや。
知らなかったこと自体は仕方がない。
二人はまだ結婚したばかりだ。
だが。
なぜか。
妻のことを何も知らないという事実が、気になった。
「奥様は……」
口にしてから、レオンハルトは言葉を止める。
「何でしょう?」
「……いや」
結局、何も聞かなかった。
◇
翌日。
レオンハルトは珍しく、午後の予定を早めに終えた。
公爵邸へ戻る。
玄関を入ったところで、エレノアの姿が見えた。
今日は庭師と話をしている。
「この花は、もう少し日当たりの良い場所へ移したほうがいいかもしれませんね」
「はい、奥様」
「この庭はとても綺麗ですから。できれば、もっと長く楽しめるようにしたいですね」
エレノアが笑う。
庭師も笑う。
その笑顔を見て。
レオンハルトは、また足を止めた。
そして。
胸の奥に、小さな苛立ちが生まれた。
なぜ。
なぜ自分には、あんな顔を見せないのか。
「旦那様」
気づいたエレノアが振り向く。
瞬間。
笑顔が消えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「今日はお早いのですね」
「そうだな」
「お疲れではありませんか?」
「……いや」
「そうですか」
それだけ。
エレノアは再び庭師に向き直った。
レオンハルトは、その横顔を見つめた。
「エレノア」
「はい?」
「……何でもない」
まただ。
自分は何を言おうとしている。
何を求めている。
分からない。
「それでは、失礼いたします」
エレノアは一礼した。
レオンハルトの横を通り過ぎる。
その瞬間。
ほんの少しだけ、甘い花の香りがした。
以前なら。
もっと近くにいた。
食事の席でも。
夜会でも。
屋敷の中でも。
自分の隣に。
それが今は。
手を伸ばしても届かない距離にいる。
◇
その日の夜。
レオンハルトは侍従を呼んだ。
「聞きたいことがある」
「はい」
「エレノアは……以前、私の前でよく笑っていたか?」
侍従は一瞬だけ黙った。
「はい」
「どれくらい?」
「かなり、笑っておられました」
「……そうか」
「旦那様がお帰りになる時間になると、奥様はよく玄関へいらっしゃいました」
レオンハルトは顔を上げる。
「私を待っていたのか?」
「はい」
「毎日?」
「ほとんど毎日です」
「……」
知らなかった。
そんなこと。
全く知らなかった。
「どうして教えなかった?」
「奥様から、旦那様にはお伝えしなくていいと」
「……なぜ?」
「旦那様がお忙しいから、と」
レオンハルトは黙った。
侍従が続ける。
「奥様は、旦那様のお邪魔をしたくないと仰っていました」
胸の奥が重くなる。
「……私は」
レオンハルトは言葉を探した。
「私は、彼女がそんなことをしていたとは知らなかった」
「はい」
「なぜ、やめた?」
侍従は答えなかった。
だが。
答えは分かっている。
数日前。
自分が言った。
『君とは政略結婚だから』
『夫婦としての情を求めないでほしい』
あの言葉。
エレノアは、その通りにしただけなのだ。
「……」
レオンハルトは窓の外を見る。
夜の庭は暗い。
もう、エレノアの姿はない。
彼女は今頃、自分の部屋で過ごしているのだろう。
自分とは関係のない時間を。
「旦那様」
侍従が静かに尋ねる。
「奥様に、何かお伝えになりますか?」
「……いや」
レオンハルトは首を横に振った。
「まだ、何も」
今さら。
「待っていてほしい」と言えるはずがない。
自分で待つ必要はないと言ったのだから。
それなのに。
その夜。
レオンハルトは眠れなかった。
何度も思い出す。
玄関で待っていた妻。
自分の姿を見つけると嬉しそうに笑っていた妻。
今日。
自分の姿を見た瞬間、笑顔を消した妻。
その違いが。
何よりも苦しかった。
◇
翌朝。
エレノアは侍女と庭を歩いていた。
「奥様」
「はい?」
「昨日、旦那様が……」
侍女が言いかける。
「どうしました?」
「いえ……何でもありません」
エレノアは微笑んだ。
「変な人ね」
「申し訳ありません」
「いいのよ」
そう言って。
エレノアは花を見つめる。
朝露に濡れた白い花。
綺麗だった。
「ねえ」
「はい」
「この花、もう少し咲いたら切って、玄関に飾りましょう」
「旦那様のお部屋にも?」
侍女が尋ねる。
エレノアは少しだけ考えた。
そして。
「……いいえ」
静かに首を横に振る。
「玄関だけでいいわ」
その声には、もう迷いがなかった。
レオンハルトのために何かをする。
その習慣を。
エレノアは少しずつ手放していた。
そして。
その変化を見ているうちに。
レオンハルトの中には、これまで知らなかった感情が芽生え始めていた。
――寂しい。
その言葉を。
彼はまだ認めようとはしなかった。




