第5話 夫婦の仮面
第5話 夫婦の仮面
結婚してから、最初の夜会が開かれた。
王都の貴族たちが集まる、春の大夜会。
会場となる王宮の大広間には、煌びやかなシャンデリアがいくつも吊るされている。
色とりどりのドレス。
宝石で飾られた髪飾り。
香水の甘い香り。
あちこちで交わされる貴族たちの談笑。
その中央を、エレノアはレオンハルトの隣で歩いていた。
「公爵閣下!」
「ご結婚、おめでとうございます」
「奥様も本当にお美しい」
次々と声をかけられる。
エレノアは、公爵夫人として完璧な笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます」
隣に立つレオンハルトも、いつもの冷静な表情を崩さない。
けれど。
周囲から見れば、二人は仲睦まじい新婚夫婦にしか見えなかった。
「本当にお似合いのお二人ですわ」
ある夫人が微笑む。
「ありがとうございます」
エレノアが答える。
レオンハルトも軽く頷いた。
「妻にはいつも助けられている」
その言葉に、周囲から小さな感嘆の声が上がる。
「まあ」
「素敵ですわね」
「公爵閣下は奥様を大切にされているのですね」
エレノアは笑った。
「はい。旦那様にはいつもよくしていただいております」
嘘だった。
けれど。
政略結婚なのだから。
これくらいの嘘は必要だ。
両家の関係を壊さないため。
公爵家の評判を守るため。
そして。
自分自身のためにも。
「エレノア」
レオンハルトが手を差し出した。
「次の挨拶へ行こう」
「はい」
エレノアはその手を取る。
大勢の人が見ている前では。
二人は完璧な夫婦だった。
◇
「奥様、素敵なドレスですわ」
「ありがとうございます」
「公爵閣下が選ばれたのですか?」
「ええ」
エレノアは微笑む。
実際には、公爵家の侍女たちが用意したものだ。
レオンハルトが選んだわけではない。
けれど。
そんなことを、わざわざ説明する必要はない。
社交界では、夫婦の仲が良いと思われているほうが都合がいい。
だから。
エレノアは笑う。
レオンハルトの隣に立つ。
腕を組む。
求められれば、夫婦らしく会話をする。
それだけ。
心まで寄り添う必要はない。
「エレノア」
レオンハルトが小さな声で呼んだ。
「はい?」
「疲れていないか?」
「大丈夫です」
「無理をする必要はない」
「ありがとうございます」
その会話だけを聞けば。
どこからどう見ても、妻を気遣う優しい夫だ。
けれど。
エレノアは知っている。
これは人前だからだ。
彼は自分を愛しているわけではない。
だからこそ。
期待してはいけない。
「では、あちらの方々にもご挨拶を」
「分かった」
二人は再び歩き出す。
◇
夜会が終わった。
王宮を出て、馬車に乗り込む。
扉が閉まった瞬間。
静寂が訪れた。
先ほどまでの華やかな空気が、一瞬で消える。
エレノアは窓の外を見た。
レオンハルトも向かい側に座っている。
「……」
「……」
会話がない。
先ほどまでなら。
『今日は楽しかったですね』
『皆様が褒めてくださいましたね』
そんな言葉をエレノアから投げかけていた。
でも。
今は何も言わない。
レオンハルトは、向かいに座る妻を見た。
夜会では、あれほど楽しそうに笑っていた。
今は。
窓の外しか見ていない。
「エレノア」
「はい」
「今日は……」
言葉が続かない。
「何でしょう?」
「いや」
レオンハルトは視線を逸らした。
馬車が夜の王都を進んでいく。
しばらくして、エレノアが口を開いた。
「本日は、お疲れになったでしょう」
「ああ」
「帰宅されましたら、すぐにお休みください」
「君は?」
「私は少し読書をしてから休みます」
「そうか」
「はい」
また会話が終わる。
レオンハルトは窓の外を見た。
王都の街灯が、流れるように後ろへ消えていく。
さっきまで。
自分たちは完璧な夫婦だった。
なのに。
今はまるで。
ただ同じ馬車に乗っているだけの男女だ。
◇
公爵邸に到着する。
エレノアが先に馬車を降りた。
「お疲れさまでした、旦那様」
「ああ」
「それでは、おやすみなさいませ」
エレノアは一礼して、屋敷へ入ろうとする。
「待ってくれ」
レオンハルトが呼び止めた。
エレノアが振り返る。
「はい?」
「……夜会では」
「はい」
「君は、よく笑っていたな」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「公爵夫人ですから」
「……それだけか?」
「はい」
即答だった。
「人前では、夫婦らしく振る舞う必要がありますから」
「……」
「旦那様もそうお考えではありませんか?」
レオンハルトは答えられなかった。
確かに。
それが二人の約束だった。
政略結婚。
愛情は必要ない。
社交界では、公爵家の夫婦として振る舞う。
それだけ。
何も間違っていない。
「では、おやすみなさいませ」
エレノアはもう一度頭を下げる。
そして屋敷の中へ消えていった。
レオンハルトは、その背中を見送った。
扉が閉まる。
また。
妻との間に壁ができたような気がした。
◇
その夜。
エレノアは鏡の前で、夜会用の髪飾りを外していた。
「……疲れた」
小さく呟く。
夜会そのものが疲れたわけではない。
ずっと笑顔を作っていたことが疲れた。
隣に夫がいるのに。
誰より遠い人のように感じる。
夜会では腕を組んだ。
手も繋いだ。
夫婦として笑い合った。
けれど。
それは全部、演技だった。
鏡の中の自分を見る。
「……これでいいのよ」
自分に言い聞かせる。
彼は愛情を求めるなと言った。
だから。
求めない。
人前で必要なら、妻を演じる。
それだけでいい。
◇
一方。
レオンハルトは、自室の窓辺に立っていた。
今日の夜会を思い出している。
エレノアの笑顔。
自分の腕に触れた細い指。
隣に立つ彼女の姿。
どれも。
これまで何度も見てきたはずだった。
なのに。
今日は妙に気になった。
特に。
夜会が終わった途端、彼女の表情から笑顔が消えたことが。
「……」
レオンハルトは目を閉じる。
人前では笑っていた。
二人きりになると笑わない。
それはつまり。
あの笑顔は。
自分のためではなかったということだ。
「……当然か」
自分でそう思う。
昨日。
自分は彼女に言った。
夫婦としての情を求めるな、と。
ならば。
彼女が自分に情を見せなくなったとしても、何もおかしくない。
そう。
何もおかしくないはずなのに。
「……なぜ、こんなに気になるんだ」
答えは出なかった。
ただ。
明日の夜会ではなく。
明日は妻が自分に笑ってくれるのか。
そんなことを考えている自分に。
レオンハルト自身が、まだ気づいていなかった。




