第4話 帰宅を待たない妻
第4話 帰宅を待たない妻
その日の夜。
レオンハルトは執務室に戻ったあとも、なかなか仕事に集中できなかった。
机の上には、まだ目を通していない書類が山積みになっている。
いつもなら、この程度の仕事に時間を取られることはない。
しかし。
「……」
何度目か分からないため息をついた。
窓の外を見る。
夜の庭は、月明かりに照らされていた。
昼間、エレノアが歩いていた場所だ。
彼女は今、何をしているのだろう。
そんな疑問が浮かんだ。
「旦那様」
侍従が書類を差し出す。
「こちらの決裁をお願いいたします」
「ああ」
受け取ったものの、視線は書類に向かない。
「……奥様は、もう夕食を終えたのか?」
侍従が一瞬、目を瞬かせた。
「はい」
「何時に?」
「七時頃だったかと」
「そうか」
それだけ聞いて、レオンハルトは再び書類に目を戻した。
だが。
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。
エレノアが夕食を食べようが食べまいが、自分には関係ない。
昨日までなら、そう思っていた。
それなのに。
「旦那様?」
「何だ」
「先ほどから同じ書類を三度ご覧になっています」
「……」
レオンハルトは黙って書類を閉じた。
「今日はもういい」
「ですが、まだ――」
「明日にする」
「承知しました」
侍従が退室する。
部屋に静寂が戻った。
レオンハルトは椅子から立ち上がった。
そして。
無意識のうちに、廊下へ出ていた。
◇
エレノアの部屋の前。
レオンハルトは立ち止まった。
「……」
何をしているのだろう。
自分でも分からない。
昨日までなら、こんな時間に妻の部屋を訪ねることなどなかった。
夫婦とはいえ、それぞれの生活に干渉しない。
それは二人で決めたことだ。
なのに。
なぜか足がここへ向かっていた。
扉の向こうから、小さな話し声が聞こえる。
「明日の予定は?」
「午前中はお茶会への出席を予定しております」
「分かりました」
エレノアの声。
それだけなのに。
妙に安心する。
レオンハルトは扉を叩こうとして。
手を止めた。
そして、何事もなかったかのように踵を返した。
◇
翌朝。
エレノアはいつも通り、一人で朝食を取っていた。
「奥様」
侍女が紅茶を注ぐ。
「はい」
「昨日、旦那様がお帰りになったとき……」
侍女が言葉を濁した。
「どうかしましたか?」
「いえ。何でもございません」
エレノアは首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
食事を終える。
席を立つ。
いつもの生活。
それだけだった。
ところが。
「エレノア」
背後から声がした。
振り返る。
「旦那様?」
食堂の入口に、レオンハルトが立っていた。
「……朝食はもう終わったのか?」
「はい」
「そうか」
レオンハルトは何とも言えない顔をした。
「何かご用でしょうか?」
「いや……」
まただ。
呼び止めたのに、用件がない。
エレノアは静かに待っている。
「……昨日は、庭にいたそうだな」
「はい」
「何をしていた?」
「花を見ていました」
「そうか」
会話が終わる。
エレノアは一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「待ってくれ」
また呼び止める。
レオンハルト自身も困惑していた。
「……今夜」
「はい?」
「今夜の夕食は……」
言葉が止まる。
エレノアが不思議そうに見つめている。
「何でしょう?」
「……いや。何でもない」
「そうですか」
エレノアは微笑んだ。
「では、失礼いたします」
扉が閉じる。
レオンハルトは一人、食堂に残された。
「……私は何をしている?」
自分でも分からない。
ただ。
妻が自分を待っていないことが、気になって仕方なかった。
◇
その日の夜。
レオンハルトは、珍しく早く帰宅した。
いつもより二時間も早い。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「……ああ」
玄関ホールを見渡す。
やはり。
エレノアはいない。
「奥様は?」
「お部屋にいらっしゃいます」
「そうか」
レオンハルトはそのまま二階へ向かった。
そして。
また、エレノアの部屋の前で足を止める。
今度は扉を叩いた。
「はい」
「私だ」
少し間があった。
「どうぞ」
扉を開ける。
エレノアは机に向かっていた。
「お帰りなさいませ」
「……ああ」
レオンハルトは部屋に入った。
「何をしている?」
「領地の書類を確認しています」
「そうか」
会話が続かない。
以前なら、エレノアのほうからいろいろ話してきた。
今日あったこと。
庭に咲いた花。
使用人のこと。
明日の予定。
レオンハルトはそれを聞き流していた。
今になって。
その声が恋しいと思った。
「……夕食は?」
「もう済ませました」
「そうか」
「旦那様は?」
「まだだ」
「では、料理長に伝えておきます」
「いや」
レオンハルトは反射的に言った。
「……私も、そこで食べる」
エレノアが顔を上げた。
「食堂で、ですか?」
「ああ」
「ですが、私はもう食事を済ませました」
「……分かっている」
「では――」
「君は来ないのか?」
言ってから。
レオンハルト自身が驚いた。
エレノアも驚いている。
しばらく沈黙が続いた。
「……よろしいのであれば、ご一緒します」
「そうしてくれ」
二人で食堂へ向かう。
広い食卓。
向かい合わせに座る。
以前なら、当たり前だった光景。
なのに。
今は、どこかぎこちない。
「……」
「……」
会話がない。
レオンハルトは食事を口に運びながら、何度も向かいの妻を見る。
エレノアは静かに紅茶を飲んでいる。
やがて。
「旦那様」
「何だ?」
「どうして今日は早くお帰りになったのですか?」
「……仕事が早く終わったからだ」
「そうですか」
それだけ。
エレノアはそれ以上聞かない。
以前なら。
『お疲れではありませんか?』
『今日はお仕事、大変だったのでしょうか?』
そんな言葉が続いたはずだ。
今はない。
レオンハルトは、箸ならぬフォークを置いた。
「エレノア」
「はい?」
「君は……」
言葉が出てこない。
「……いや、何でもない」
「そうですか」
また、その笑顔。
優しい。
穏やか。
けれど。
自分には向いていない。
そのことが、なぜか苦しかった。
◇
食事を終えたエレノアは、先に席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
「おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
エレノアが去っていく。
レオンハルトはその背中を見つめた。
昔なら。
彼女が先に食堂を出ても、何とも思わなかった。
今は。
扉が閉まった瞬間。
食堂が急に広くなったように感じた。
「……」
静かすぎる。
レオンハルトは一人で座り続けた。
そして、ようやく気づく。
自分は今日。
仕事を早く終わらせた。
妻がいる時間に帰宅した。
妻の部屋まで行った。
そして。
妻と一緒に夕食を取った。
なぜ?
理由を考える。
しかし、答えは出ない。
ただ一つだけ分かることがあった。
エレノアが自分を待っていない。
そのことが。
どうしようもなく、気になっている。
そしてその夜。
レオンハルトは初めて思った。
――明日も、早く帰ろうか。
その考えが浮かんだ瞬間。
彼は眉をひそめた。
「……私は、どうしてしまったんだ」
まだ。
その感情の名前を、彼は知らなかった。




