表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/21

第3話 空っぽになった朝食

第3話 空っぽになった朝食


 結婚して三日目の朝。


 レオンハルトは、いつもの時間に目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む朝日。


 静かな公爵邸。


 何も変わらない朝のはずだった。


「旦那様、お目覚めのお時間です」


 侍従の声に、レオンハルトはベッドから起き上がる。


「分かった」


 身支度を整え、いつものように食堂へ向かった。


 扉を開ける。


「……」


 また、誰もいなかった。


 昨日と同じ。


 長いテーブルの向こう側に、妻の姿はない。


「奥様は?」


 尋ねることに、少しだけためらいがあった。


「すでに朝食を終えられています」


「……そうか」


 レオンハルトは席についた。


 料理が並べられる。


 焼きたてのパン。


 卵料理。


 温かいスープ。


 果物。


 公爵家の朝食としては、十分すぎるほど豪華だ。


 なのに。


「……」


 何かが足りない。


 レオンハルトは、ふと向かいの席を見た。


 エレノアが座っていた場所。


 そこには、誰もいない。


 当然だ。


 彼女は自分の朝食を先に済ませた。


 昨日、そう決めたのだから。


 それなのに。


「……紅茶を」


「はい」


 侍従が紅茶を注ぐ。


 一口飲む。


「……」


 いつもと同じ味だった。


 いや。


 正確には。


 いつもより少しだけ濃い。


「この紅茶は……」


「はい?」


「いや。何でもない」


 レオンハルトはカップを置いた。


 以前。


 エレノアは紅茶を淹れることがあった。


 公爵夫人なのだから、そんなことをする必要はない。


 そう言ったこともある。


 すると彼女は笑って、


『私が好きでしていることですから』


 と言った。


 そのときは、特に気にしなかった。


 妻が淹れてくれる紅茶。


 それが当たり前になっていた。


 だから。


 今になって気づいた。


 エレノアは、自分のために紅茶を少し薄めていた。


 自分が濃い紅茶を好まないことを、いつの間にか覚えていたのだ。


「……」


 レオンハルトは、もう一口飲んだ。


 やはり濃い。


「料理長を呼べ」


「料理長ですか?」


「ああ」


 ほどなくして、料理長がやってきた。


「お呼びでしょうか、旦那様」


「最近、紅茶の味が変わったか?」


「いえ?」


 料理長は不思議そうな顔をする。


「以前と同じ茶葉を使っております」


「そうか」


「ただ……」


「何だ?」


「奥様が淹れられるときだけ、少し茶葉を減らしておりました」


 レオンハルトの目が止まる。


「……そうだったのか」


「はい。旦那様は濃い紅茶がお好きではないと、奥様から伺っておりましたので」


「……」


 料理長は頭を下げた。


「それでは、今まで通りに戻しましょうか?」


「いや」


 レオンハルトは一瞬考えた。


「……そのままでいい」


「承知しました」


 料理長が下がっていく。


 レオンハルトは黙ったまま、紅茶を見つめていた。


 そんなことまで。


 自分は知らなかった。


 いや。


 知らなかったというより。


 知ろうとしなかった。


     ◇


 その頃。


 エレノアは自室で朝食を終えていた。


「今日のお紅茶、とても美味しいです」


 侍女が嬉しそうに笑う。


「ありがとうございます」


「奥様が以前、旦那様のお好みに合わせて茶葉を変えていらしたので、私も覚えていたのですが……」


「もう必要ありません」


 エレノアは静かにカップを置いた。


「旦那様のお好みは、旦那様がご自身で決めればいいことですから」


「……はい」


 侍女は少し寂しそうだった。


 エレノアはそれに気づいて、微笑む。


「大丈夫ですよ」


「奥様……」


「私は大丈夫です」


 そう言いながら。


 エレノア自身が、一番その言葉を信じようとしていた。


     ◇


 昼。


 レオンハルトが執務室で仕事をしていると、エレノアが書類を届けに来た。


「失礼いたします」


「……エレノア」


 久しぶりに感じた。


 まだ三日しか経っていないのに。


 彼女が自分の部屋に入ってくることが、ひどく久しぶりのように思えた。


「こちら、領地からの報告書です」


「ああ」


 エレノアは机の上に書類を置く。


「確認をお願いいたします」


「分かった」


 それだけ。


 エレノアはすぐに部屋を出ようとした。


「待ってくれ」


 レオンハルトの声が飛ぶ。


 エレノアが振り返る。


「何でしょう?」


「……」


 呼び止めたものの。


 何を言えばいいのか分からなかった。


「朝食は……」


「はい?」


「いや」


 レオンハルトは言葉を選んだ。


「朝食は、もう食べたのか?」


「はい」


「そうか」


「では、失礼いたします」


「……ああ」


 扉が閉じる。


 レオンハルトは一人になる。


「……何を聞いているんだ、私は」


 自分でも呆れた。


 妻が朝食を食べたかどうか。


 そんなことを、なぜ気にする。


 昨日までは。


 そんなこと、どうでもよかったはずだ。


 けれど。


 今は気になる。


 何を食べたのか。


 誰と食べたのか。


 何時に起きたのか。


 今日はどこへ行くのか。


 そんなことばかりが頭に浮かぶ。


 レオンハルトは仕事に戻ろうとした。


 しかし、書類をめくる手が止まる。


 ふと。


 先ほどエレノアが立っていた場所を見る。


「……」


 何もない。


 ただの執務室だ。


 なのに。


 さっきまで彼女がいた場所だけが、妙に鮮明に残っている。


     ◇


 夕方。


 エレノアは公爵邸の庭を歩いていた。


 結婚前から好きだった場所だ。


 色とりどりの花が咲き、噴水の水音が静かに響いている。


「奥様」


 侍女が声をかける。


「何でしょう?」


「旦那様がお帰りになりました」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸が小さく痛んだ。


 以前なら。


 すぐに迎えに行っていた。


 玄関まで走っていって。


「お帰りなさいませ」


 と笑って。


 今日は疲れているだろうか。


 夕食は何がいいだろう。


 そんなことを考えていた。


 でも。


「そうですか」


 エレノアは微笑んだ。


「では、夕食にしましょう」


「旦那様をお待ちにならないのですか?」


「待つ必要はありません」


 エレノアは庭の花を見つめた。


「旦那様は、私の生活に干渉しないとおっしゃいましたから」


「……はい」


「私も同じです」


 その頃。


 屋敷の玄関では、レオンハルトが馬車から降りていた。


 玄関ホールを見渡す。


 誰もいない。


「……」


 いつもなら。


 エレノアがいた。


 別に迎えに来てほしいと思っていたわけではない。


 そう思っていた。


 ずっと。


 なのに。


 今は――。


「奥様は?」


「庭にいらっしゃいます」


「……そうか」


 レオンハルトは靴音を響かせながら廊下を歩く。


 庭へ向かおうとして。


 足を止める。


「……なぜ私が、妻のところへ行こうとしている?」


 答えは出なかった。


 結局、その日はエレノアのもとへ行かなかった。


 ただ。


 夕食の時間になっても。


 レオンハルトは、何度も庭のほうへ視線を向けていた。


 そして初めて。


 自分の屋敷が、こんなにも広く。


 こんなにも静かな場所だったのだと知った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ