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第2話 では、私も妻を演じません

第2話 では、私も妻を演じません


 翌朝。


 エレノアは、いつもより早く目を覚ました。


 見慣れない天井。


 昨日までとは違う部屋。


 そして――。


 今日から、自分は公爵夫人なのだ。


「……昨日のことは、夢じゃないのね」


 小さく呟いて、エレノアはベッドから降りた。


 侍女たちが入ってくる。


「おはようございます、奥様」


「おはようございます」


 身支度を整えながら、エレノアは今日一日の予定を確認した。


 朝食。


 その後、屋敷の使用人たちへの挨拶。


 昼には領地から届いた書類の確認。


 午後は王都の夫人たちとの茶会。


 そして夜は――。


「旦那様は、今夜は何時ごろお戻りでしょうか?」


 侍女が何気なく尋ねた。


 エレノアは一瞬だけ黙った。


 昨日までなら、当然のように夫の帰宅時間を確認していただろう。


 食事は何時にするのか。


 夜は何を用意するのか。


 疲れて帰ってくるなら、部屋に暖炉を入れておこうか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど。


「……分かりません」


「では、夕食は旦那様に合わせて――」


「いいえ」


 エレノアは静かに首を横に振った。


「私の分だけ用意してください」


 侍女が目を瞬かせる。


「よろしいのですか?」


「ええ」


「ですが、これまでは……」


「これからは変えます」


 エレノアは鏡の中の自分を見つめた。


「旦那様は、私の生活に干渉しないとおっしゃいました」


「……はい」


「でしたら、私も旦那様の生活には干渉しません」


 言葉にしてみると、不思議なくらい胸が静かだった。


 昨日はあれほど泣いたのに。


 今はもう、泣いてはいけないと思える。


 愛されないなら。


 愛されることを期待しなければいい。


 期待しなければ、傷つくこともない。


「それから」


「はい」


「旦那様の朝食については、料理長にお任せしてください」


「奥様が確認されなくても?」


「はい」


 エレノアは微笑んだ。


「公爵様のお好みは、公爵様自身が一番よくご存じでしょうから」


 侍女は何も言わなかった。


 ただ、どこか困ったような顔をしていた。


     ◇


 同じ頃。


 レオンハルトは自室で着替えを終えていた。


 いつも通りの朝。


 いつも通りの時間。


 いつも通りの一日。


 ――のはずだった。


「……何か、おかしくないか?」


 鏡の前でネクタイを整えながら、レオンハルトが呟く。


「何がでしょうか?」


 侍従が尋ねる。


「いや……」


 レオンハルトは首を横に振った。


 何がおかしいのか、自分でも分からない。


 ただ。


 妙に静かだった。


 いつもなら、朝食の前には妻から声がかかる。


『今日は王宮へ行かれるのですよね?』


『朝は少し冷えますから、上着を一枚多くお持ちください』


『昨夜は遅かったようですが、お疲れではありませんか?』


 結婚前からそうだったわけではない。


 だが、婚約が決まってから。


 エレノアは何かと自分を気にかけるようになった。


 レオンハルトは、それを特に気にしていなかった。


 むしろ。


 少しばかり過保護だと思っていた。


 だから昨日。


 「私の生活に干渉しないでほしい」


 そう伝えた。


 その言葉を、エレノアは素直に受け入れた。


 それだけだ。


「旦那様、朝食の準備が整っております」


「分かった」


 食堂へ向かう。


 扉を開ける。


「……」


 誰もいない。


 大きなテーブルの向こう側。


 いつもならエレノアが座っている場所には、誰もいなかった。


「奥様は?」


「すでにお食事を終えられました」


「……そうか」


 レオンハルトは椅子に座った。


 目の前には、自分のための朝食が並んでいる。


 いつも通り。


 何も問題はない。


 それなのに。


 妙に味気なかった。


「奥様は、どちらへ?」


「本日は屋敷の使用人たちへの挨拶をされたあと、領地関係の書類をご覧になるそうです」


「そうか」


 レオンハルトはナイフを置いた。


「……私には何も言わなかったのか?」


「はい」


 胸の奥が、わずかにざわついた。


 昨日までなら。


 何か予定があれば、必ず自分に伝えてきた。


 今までなら、そんな報告を煩わしいと思ったかもしれない。


 だが。


 今はなぜか――。


「旦那様?」


「いや。何でもない」


 レオンハルトは食事を続けた。


     ◇


 昼前。


 エレノアは公爵家の使用人たちを集めていた。


「皆さん、これからよろしくお願いいたします」


 公爵夫人としての挨拶。


 柔らかな笑顔。


 落ち着いた声。


 その姿に、使用人たちは安堵していた。


 以前からエレノアは使用人たちに評判が良かった。


 威張ることもない。


 身分を振りかざすこともない。


 誰かが失敗しても、頭ごなしに叱ることはなかった。


「奥様、何かございましたらいつでもお申し付けください」


「ありがとうございます」


 エレノアは微笑む。


「でも、私のことを特別扱いする必要はありません。今まで通り、皆さんの仕事をしていただければ大丈夫です」


 そう言ったあと。


 一人の侍女が恐る恐る尋ねた。


「旦那様のお食事については……」


「料理長にお任せします」


「……承知しました」


「旦那様は大人ですから」


 エレノアは笑った。


「ご自分のことは、ご自分でなさるでしょう」


 その言葉を聞いた侍女は、少しだけ目を伏せた。


 昨日までとは違う。


 明らかに違う。


 けれどエレノア自身は、それでいいと思っていた。


 夫婦らしくする必要はない。


 ならば。


 妻らしくする必要もない。


     ◇


 午後。


 レオンハルトが執務室へ戻ると、机の上に一通の書類が置かれていた。


 エレノアからだった。


『領地の慈善事業について、今年度の予算案を確認いたしました。問題がなければ、こちらで進めます』


 簡潔な報告。


 以前なら。


 もっと丁寧な言葉が添えられていた。


『旦那様がお忙しいことは承知しておりますので、こちらで確認いたしました』


 そんな一文があったはずだ。


 今はない。


「……ずいぶん簡潔になったな」


 思わず呟く。


 侍従は黙っていた。


「何だ?」


「いえ」


「何か言いたそうだな」


「……奥様は、昨日の旦那様のお言葉を気にされているのではないでしょうか」


 レオンハルトの手が止まる。


「昨日?」


「政略結婚だから、というお言葉です」


「……」


 レオンハルトは答えなかった。


 自分は間違ったことを言っていない。


 結婚は両家の利益のため。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 だからこそ、余計な期待を持たせないようにした。


 それがエレノアのためでもあると思っていた。


 なのに。


 なぜだろう。


 今になって、その言葉が妙に胸に引っかかる。


「私は、彼女を傷つけたつもりはない」


「はい」


「事実を伝えただけだ」


「はい」


「なら、何も問題はない」


「……そうですね」


 侍従の返事は妙に歯切れが悪かった。


 レオンハルトは眉をひそめる。


「何だ」


「いえ。旦那様がそうお考えなら、それでよろしいかと」


 その言葉に、なぜか苛立った。


「……もういい」


 侍従が退室する。


 一人になった執務室。


 レオンハルトは書類に目を戻した。


 しかし。


 何度読んでも、内容が頭に入ってこない。


 ふと、昨日のエレノアを思い出す。


『私からあなたに愛情を求めることはありません』


 あのとき。


 彼女は笑っていた。


 だから大丈夫だと思った。


 けれど。


 今になって思う。


 あの笑顔は。


 本当に笑顔だったのだろうか。


「……」


 レオンハルトは椅子に深く背を預けた。


 まだ、このときは知らなかった。


 エレノアが「妻らしくすること」をやめたのは。


 一時的な意地でも。


 彼を困らせるためでもない。


 本気で。


 自分の人生から、夫という存在を切り離そうとしているのだということを。


 そして、その変化に最初に気づくのが。


 誰よりもエレノアを見ていなかったはずの、自分自身になることを。

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