第1話 君とは政略結婚だから
第1話 君とは政略結婚だから
「君とは政略結婚だから。私に夫婦としての情を求めないでほしい」
結婚初夜。
夫となったレオンハルト・ヴァレンシュタイン公爵は、淡々とそう言った。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
窓の外では、夜の帳が王都を包んでいた。
つい数時間前まで、エレノア・グランヴィルは伯爵令嬢だった。
そして今は、公爵夫人。
王都でもっとも名高い公爵家の一員となった。
本来なら、人生で最も幸福な夜だったのかもしれない。
けれど――。
「……承知しました」
エレノアは微笑んだ。
自分でも驚くほど、きれいに笑えた。
レオンハルトは、ほんのわずかに眉を動かした。
「理解が早くて助かる」
「はい」
「この結婚によって、両家の関係はより強固になる。領地の交易も安定する。父上も君の父上も、それを望んでいる」
「そうですね」
「だから、私たちが夫婦として親密である必要はない」
「……はい」
何度頷いても、胸の奥が痛かった。
それでもエレノアは、笑顔を崩さなかった。
「ご安心くださいませ。私からあなたに愛情を求めることはありません」
「……そうしてくれると助かる」
レオンハルトはそれだけ言うと、窓際へ歩いていった。
月明かりに照らされた横顔は、噂通り冷たい。
整った顔立ち。
長身。
公爵家嫡男として申し分のない立ち居振る舞い。
王都では、彼を「氷の公爵」と呼ぶ者も少なくない。
けれどエレノアは知っていた。
彼が本当に冷たい人間なのかどうか。
――そんなことは、知らない。
なぜなら。
彼とまともに言葉を交わしたことなど、ほとんどなかったからだ。
それでも。
エレノアは、ずっと彼を見ていた。
夜会で遠くから姿を見かけるたび。
王宮で偶然すれ違うたび。
父に連れられて公爵邸を訪れたとき、ほんの一度だけ目が合ったとき。
そのたびに、胸が高鳴った。
いつからだったのか、自分でも分からない。
ただ気づいたときには、好きになっていた。
だからこそ。
今日、この結婚が決まったとき。
エレノアは、ほんの少しだけ期待してしまった。
もしかしたら。
夫婦になれば。
いつか、私を見てくれるかもしれない。
政略結婚でも。
少しずつ距離を縮めれば。
いつか本当に、夫婦になれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていた。
けれど。
その期待は、今夜、あっさりと消えた。
「明日の朝には、使用人たちに君の生活について必要なことを伝えておく」
「ありがとうございます」
「それと、私の仕事について君が口を出す必要はない。私も君の生活に干渉しない」
「承知しました」
「夜会や社交の場では、公爵夫人として振る舞ってくれればそれでいい」
「もちろんです」
レオンハルトは頷いた。
「それなら問題ない」
その言葉を最後に、会話が途切れた。
静かな部屋だった。
エレノアは膝の上で両手を重ねた。
指先が、わずかに震えている。
泣いてはいけない。
ここで泣けば、彼を困らせる。
何より――。
自分から「愛してほしい」と願うことは、もう許されない。
だから。
「では、私からも一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「私のことも、どうかお気遣いなく」
レオンハルトが振り返る。
「……どういう意味だ?」
「あなたが私の生活に干渉なさらないように、私もあなたの生活には干渉いたしません」
「それは構わないが……」
「ありがとうございます」
エレノアは立ち上がった。
「それでは、私も明日から公爵夫人として必要なことだけをいたします」
「……エレノア」
名前を呼ばれた。
たったそれだけのことで、胸が苦しくなる。
初めて彼から名前を呼ばれた。
嬉しい。
――嬉しいと思ってしまった。
だから、余計に苦しかった。
「はい?」
「いや……」
レオンハルトは何か言いかけて、やめた。
「……おやすみ」
「おやすみなさいませ、旦那様」
そう答えて、エレノアは寝室へ向かった。
扉を閉める。
その瞬間。
笑顔が消えた。
「……っ」
唇を噛む。
涙が一粒、頬を伝った。
声を出してはいけない。
泣いていることを知られてはいけない。
彼は悪くない。
この結婚は最初から政略だった。
愛情を期待した自分が悪い。
「……馬鹿ね、私」
エレノアは胸元を押さえた。
苦しい。
こんなにも好きだったのに。
今日からは、この人の妻なのに。
妻であることを、求めてはいけない。
ならば――。
私も、もう求めない。
愛してほしいと願うことも。
帰りを待つことも。
少しでも気にかけてもらおうとすることも。
全部、やめよう。
エレノアは涙を拭った。
そして鏡の中の自分を見つめる。
そこには、公爵夫人となった女がいた。
「大丈夫」
小さく呟く。
「明日からは、ちゃんと公爵夫人になります」
愛される妻ではなく。
政略結婚の相手として。
それでいい。
――そう思った。
このときのエレノアは、まだ知らなかった。
自分が「夫婦らしくすること」をやめたとき。
誰よりもその変化に耐えられなくなるのが、夫のほうだということを。
そして。
愛されることを諦めた妻を、いつか夫が必死になって追いかける日が来ることを。
まだ、何も知らなかった。




