第19話 私を疑っているのですか?
# 第19話 私を疑っているのですか?
王宮から戻った翌朝。
エレノアが食堂へ向かうと、レオンハルトの姿がなかった。
「旦那様は?」
「まだ執務室にいらっしゃいます」
「そうですか」
いつもなら、朝食の時間には必ず顔を合わせる。
エレノアは少しだけ首を傾げた。
何かあったのだろうか。
◇
同じ頃。
レオンハルトは執務室で、一枚の書類を睨んでいた。
「……これが取引記録か」
「はい」
目の前にいるのは、信頼する側近だった。
「王都へ送った織物の一部が、正規の価格より大幅に安く売られています」
「誰の指示だ?」
「それが……」
側近が一枚の書類を差し出す。
「こちらには、公爵夫人の署名が」
レオンハルトは書類を受け取った。
確かに。
そこにはエレノアの名前が記されている。
「……この署名は、本物か?」
「筆跡だけなら、かなり似ています」
「筆跡だけなら?」
「細部に不自然なところがあります」
レオンハルトは顔を上げた。
「つまり?」
「偽造された可能性があります」
「……」
レオンハルトは書類を机へ置いた。
「エレノアがこんなことをする理由はない」
「私もそう考えています」
「ならば、なぜ彼女の名前が使われた?」
「それを調べています」
レオンハルトは深く息を吐いた。
「この件は、誰にも漏らすな」
「承知しました」
「特にエレノアには」
側近が少し驚く。
「奥様には知らせないのですか?」
「まだ証拠がない」
「しかし――」
「下手に知らせれば、彼女が動く」
レオンハルトは書類を見る。
「そして、犯人に警戒される」
「なるほど」
「証拠が揃うまで、私が調べる」
「承知しました」
側近が退出する。
一人になったレオンハルトは、椅子に深く腰を下ろした。
エレノアを疑っているわけではない。
むしろ。
誰よりも信じている。
だからこそ。
彼女の名前を利用した人間を許せなかった。
◇
昼過ぎ。
エレノアは商会から届いた書類を整理していた。
「……おかしい」
一枚の請求書に目が止まる。
数字が合わない。
「この金額……」
以前、自分が確認した契約書と違っている。
エレノアは別の書類を取り出した。
照らし合わせる。
やはり違う。
「どういうこと?」
そのとき。
侍女が慌てて部屋へ入ってきた。
「奥様!」
「どうしました?」
「王都から、使者が来ています」
「私に?」
「はい」
エレノアは立ち上がった。
「どんな用件でしょう?」
「そこまでは……」
玄関へ向かう。
そこには王宮から派遣された役人が立っていた。
「グランヴィル公爵夫人」
「はい」
「少し確認したいことがございます」
「何でしょう?」
男は一枚の書類を差し出した。
「こちらの取引について、ご存じですか?」
エレノアは書類を見る。
そこには。
自分の署名があった。
「……これは」
「公爵夫人の署名ですね?」
「違います」
エレノアは即座に答えた。
「私は、この契約に署名していません」
「しかし、こちらには確かに――」
「私の署名に似せて書かれています」
「つまり、偽造だと?」
「はい」
男の表情が硬くなる。
「それを証明できますか?」
「……」
エレノアは言葉を失った。
証明するものがない。
そのとき。
「何をしている?」
背後から声がした。
レオンハルトだった。
「旦那様……」
レオンハルトがエレノアの隣へ立つ。
「彼女に何か?」
「王宮からの調査です」
役人が説明する。
「公爵夫人の名前で、不正な取引が行われた疑いがあります」
「疑い?」
「はい」
「ならば、まだ罪は確定していないな」
「もちろんです」
「なら、彼女を責めるような言い方はやめてもらおう」
冷たい声だった。
「申し訳ありません」
役人が頭を下げる。
「ですが、こちらの書類には公爵夫人の署名があります」
「偽造だ」
レオンハルトは即答した。
「証拠は?」
「まだありません」
「ならば、調べればいい」
レオンハルトは書類を受け取った。
「この件は私が責任を持って調査する」
「承知しました」
役人が帰っていく。
扉が閉まった。
静寂が訪れる。
◇
「……旦那様」
「何だ?」
「私を……疑っていませんよね?」
レオンハルトは一瞬、言葉を失った。
エレノアは俯いている。
「昨日まで、あんなに幸せだったのに」
「……」
「また、何かが壊れてしまうのでしょうか」
レオンハルトの胸が締めつけられる。
「エレノア」
「はい」
「私は君を疑っていない」
「本当に?」
「ああ」
「……どうして?」
レオンハルトは迷わなかった。
「君が、そんなことをする人間ではないと知っているからだ」
「でも、証拠が――」
「証拠なら私が探す」
「旦那様……」
「君は何もしなくていい」
エレノアは首を横に振った。
「それでは駄目です」
「何?」
「私の名前が使われたのなら、私も調べます」
「危険だ」
「それでも」
エレノアはまっすぐ彼を見る。
「私のことでしょう?」
「……」
「今度は、私を一人にしないと言ってくださいましたよね」
レオンハルトは黙った。
確かに。
そう約束した。
「はい」
エレノアが続ける。
「なら、私にも一緒に戦わせてください」
レオンハルトはしばらく彼女を見つめた。
やがて。
「分かった」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい?」
「無理はしないこと」
「はい」
「危険を感じたら、すぐに私に知らせる」
「分かりました」
「そして」
レオンハルトは彼女の手を取った。
「絶対に、一人で抱え込まない」
エレノアは頷いた。
「約束します」
◇
その日の夕方。
二人はエレノアの仕事部屋で、すべての取引記録を並べた。
「この契約書は、私が直接確認しました」
「こちらは?」
「見ていません」
「では、この署名は?」
「偽造です」
エレノアは一枚ずつ確認していく。
そして。
「……待ってください」
「どうした?」
「この書類」
一枚を手に取る。
「この日付です」
「何かあるのか?」
「私、この日は王都にいました」
「王都?」
「はい」
エレノアは別の記録を取り出す。
「商会の帳簿にも、私が王都にいた記録があります」
レオンハルトが書類を確認する。
「つまり」
「この契約に私が署名することは不可能です」
「……そうだな」
二人は顔を見合わせた。
「犯人は、私が王都にいることを知っていた」
「そして」
レオンハルトが続ける。
「君の名前を使える立場にいた」
「……」
エレノアの顔から笑みが消える。
「旦那様」
「ああ」
「これ……」
「身内に、協力者がいる可能性がある」
部屋の空気が一気に重くなった。
公爵家の中に。
エレノアを陥れようとしている人間がいる。
しかも。
二人が最も幸せになろうとしていた、その瞬間に。
レオンハルトはエレノアの手を握った。
「大丈夫だ」
「……はい」
「必ず真実を見つける」
エレノアも握り返す。
「二人で、ですよね」
「ああ」
その瞬間。
扉の外で。
誰かの足音が止まった。
二人は同時に顔を上げる。
しかし。
次の瞬間には、足音は遠ざかっていた。
「……誰?」
エレノアが呟く。
レオンハルトは立ち上がった。
そして扉を開ける。
廊下には。
誰もいない。
ただ。
床に一枚の紙が落ちていた。
拾い上げる。
そこには。
たった一行だけ。
『公爵夫人を信用すると、あなたもすべてを失います』
レオンハルトの目が冷たくなる。
エレノアは、その文字を見つめた。
けれど。
今度は逃げなかった。
「……旦那様」
「ああ」
「私は、あなたを信じています」
レオンハルトは彼女を見る。
「私もだ」
二人は。
その紙を一緒に見つめた。
そして。
誰が敵なのかを突き止めるため。
同じ場所から、もう一度歩き始めた。




