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第17話 幸せになったはずなのに

# 第17話 幸せになったはずなのに


 それから、一か月。


 エレノアとレオンハルトの関係は、少しずつ変わっていった。


 朝になれば、二人で食卓を囲む。


 レオンハルトが帰宅すれば、エレノアが出迎える。


 休日には庭を散歩する。


 そんな何気ない日々が増えていった。


 以前の二人からすれば、考えられないほど穏やかな時間だった。


「エレノア、これを見てくれ」


「何ですか?」


 ある日の夕食後。


 レオンハルトが一枚の書類を差し出した。


「領地の新しい商業計画だ」


 エレノアは書類を受け取る。


「……これは」


「君の意見を聞きたい」


「私の?」


「ああ」


 エレノアは驚いた。


「私が見てもいいのですか?」


「もちろんだ」


「でも、これは公爵家の――」


「君も公爵家の一員だ」


 レオンハルトは少し笑った。


「それに、これは君が以前提案していた計画を元にしている」


「……」


 書類に目を通す。


 そこには、領地の女性たちが作る織物を王都へ流通させる計画が書かれていた。


「これ……」


「君がやりたいと言っていたことだろう?」


「覚えていたんですね」


「忘れるわけがない」


 エレノアは書類を見つめた。


 以前なら。


 自分の意見など必要ないと思っていた。


 今は。


 レオンハルトが自分の考えを求めている。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはまだ早い」


「え?」


「これから君にも手伝ってもらうつもりだからな」


「……私に?」


「ああ」


 エレノアは思わず笑った。


「分かりました」


     ◇


 こうして。


 二人で新しい事業を始めることになった。


 最初は順調だった。


 エレノアは商会と職人たちの間を取り持ち。


 レオンハルトは領地の制度を整える。


 互いの得意分野を生かしながら、少しずつ形にしていった。


 そして。


 事業が軌道に乗り始めた頃。


 一つの問題が起きた。


「旦那様」


「どうした?」


「この契約書ですが……」


 エレノアが書類を差し出す。


「王都の商会から、条件変更の申し入れが来ています」


「どこが問題だ?」


「こちらです」


 エレノアが指を差す。


「この条件では、領地の職人たちの利益がほとんど残りません」


「……確かに」


「私は、この契約には反対です」


「分かった」


 レオンハルトは書類を閉じた。


「断ろう」


「……え?」


「君が反対する理由があるなら、まず聞く」


「でも」


「君の意見を聞くと言っただろう?」


 エレノアは胸が温かくなるのを感じた。


 以前の夫なら。


 自分の意見など聞かなかった。


 今は違う。


 自分を一人の人間として尊重してくれている。


「ありがとうございます」


「だから、礼はいい」


 レオンハルトが笑う。


「夫婦だろう?」


「……」


 その言葉に。


 エレノアの頬が少し赤くなった。


 夫婦。


 以前はただの肩書きだった。


 今は。


 その言葉が、少しずつ自分の中に馴染んでいる。


     ◇


 その夜。


 エレノアは一人で庭に出た。


 月を見上げる。


 幸せだった。


 確かに。


 今の生活は幸せだ。


 レオンハルトも優しい。


 二人で笑う時間も増えた。


 以前のような寂しさもない。


 なのに。


 胸の奥に。


 小さな不安が残っていた。


「……どうしてでしょう」


 幸せなのに。


 なぜか怖い。


 幸せになればなるほど。


 それを失うことが怖くなる。


「エレノア?」


 背後から声がした。


「旦那様」


 レオンハルトが近づいてくる。


「こんなところにいたのか」


「少し風に当たりたくて」


「寒くないか?」


「大丈夫です」


「そうか」


 レオンハルトは隣に立った。


 しばらく二人で月を眺める。


「……エレノア」


「はい?」


「何か悩んでいるだろう?」


 エレノアは驚いた。


「どうして?」


「最近、時々そういう顔をしている」


「……」


 エレノアは迷った。


 そして。


「少し怖いんです」


「何が?」


「幸せになることが」


 レオンハルトは黙った。


「以前は、何も期待しなければ傷つかないと思っていました」


「……」


「だから、幸せになることも諦めていました」


 エレノアは月を見る。


「でも今は」


 小さく息を吐く。


「こんなに幸せになってしまった」


「……」


「だから、もしまた何かあったらと思うと……」


 声が震える。


「怖いんです」


 レオンハルトはしばらく何も言わなかった。


 そして。


 ゆっくりとエレノアの手を取った。


「私は、君に絶対に悲しい思いをさせないとは言えない」


「……」


「夫婦である以上、喧嘩もするだろう」


「はい」


「意見が合わないこともある」


「はい」


「私がまた間違えることだってあるかもしれない」


 エレノアは彼を見る。


「でも」


 レオンハルトはその手を強く握った。


「今度は、君を一人で悩ませない」


「……」


「何かあったら、二人で話そう」


「はい」


「逃げずに向き合う」


「……はい」


「だから」


 レオンハルトは微笑んだ。


「幸せを怖がらなくていい」


 エレノアの瞳に涙が浮かぶ。


「……本当に?」


「ああ」


「もし私が、また怖くなったら?」


「そのときは」


 レオンハルトは彼女の手を握ったまま答えた。


「何度でも、安心させる」


「……何度でも?」


「何度でも」


 エレノアは笑った。


「それなら……少しずつ、怖くなくなれるかもしれません」


「ああ」


 二人はそのまま、しばらく月を眺めていた。


     ◇


 翌日。


 王都から一通の手紙が届いた。


 差出人を見たレオンハルトの表情が変わる。


「……ローディア侯爵家」


 エレノアもその名前を見て、少しだけ緊張した。


「何でしょう?」


「分からない」


 レオンハルトが封を開ける。


 中には。


 短い手紙が一枚。


 そして。


 一枚の招待状が入っていた。


「王宮の夜会……?」


「はい」


 エレノアが招待状を見る。


 そこには。


 二人の名前が連名で記されていた。


 公爵夫妻として。


「久しぶりですね」


「ああ」


 レオンハルトは招待状を見つめた。


「だが……」


「どうしました?」


「嫌な予感がする」


 その言葉に。


 エレノアの胸にも。


 小さな不安が生まれた。


 けれど。


 今度は。


 一人ではない。


 エレノアは隣に立つレオンハルトの手を握った。


「大丈夫です」


「……エレノア?」


「何が起きても」


 エレノアは微笑んだ。


「今度は二人で向き合いましょう」


 レオンハルトは一瞬驚き。


 やがて。


「……ああ」


 強く頷いた。


 二人の新しい人生が始まった。


 その先に待っているものが。


 幸せだけではないことを。


 まだ二人は知らなかった。

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