九
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
最近、明け方になると家の中から例の音が聞こえてくる。決まって飛び起きてしまう。二度寝しようとも思ったが、今日はそのまま起きることにした。いつもこのあと深く寝込んで起きれなくなり、遅刻ギリギリに登校して女子に捕まるという、最悪のパターンを連日くりかえしているからだ。早く起きたから受験勉強をすることにした。勉強は好きだ。その間だけは、死への恐怖や不安感から解消されるからだ。
今日は金曜日。いよいよ明日は、ぼくの18歳の誕生日だ。
西側の窓を開け、朝の空気を思い切り吸い込んだ。ヒンヤリとしていて気持ちが良い。生きているという実感があった。うす暗い空を背景に、白い満月が消えゆく姿をうっすらとのぞかせていた。足の長い水鳥が、川の浅瀬を闊歩していく。たっぷりのグリーンリーフを両手にしならせた桜の老木が、水の面に薄緑色の影を投げかけている。暖冬の影響で、桜の花びらはすっかり姿を消していた。父が死んだときはちょうど花盛りだったそうだ。祖父や祖祖父が亡くなったときも、水の上には、桜の花びらがビッシリと降り積もっていたそうだ。
いつもの朝がはじまった。タマの皿に猫缶を出しながら白い頭を撫でてやり、父の仏壇に手を合わせてフランス人形の前からスマホを取り上げる。焦げたトーストをかじりながら、寝ている母のために玄関の鍵をしっかりと閉め、階段を駆け下りる。朝日に輝く川を並走し、シロツメクサを避けながらフェンスの穴から高校へ忍び込み、古井戸の脇をすり抜けて教室へと滑り込む。教養を身につけながら時限の合い間合い間に奇襲をかけてくる女子の集団に酷い言葉で応戦をする。上目遣いでワクワクしながら待つ女共と、毎日SMバトルでも繰り広げているんじゃないかと錯覚してしまう今日この頃だ。女って奴は目当ての男にかまってもらえるなら、いじめられようが蔑まれようがなんでもいいんだな。退屈な単純作業のくりかえしの中で、ぼくは予告された死の瞬間へと確実に近づいていった。
優子は今日も休みだった。ぼくのアザは消えそうなのに、優子のインフルは治らない。18歳の誕生日を迎える前に、せめてもう1度だけでも彼女に会いたかった。
「優子、今日も休みだったな。もういいかげん、学校に出てくればいいのに」
吉村が、ぼくの心を口にした。今日はキャメルの制服ではなく、真っ白な野球のユニフォームを着ている。
「そんなに早く治るもんじゃないんだろ? もう、帰ろうぜ」
「おれんち、優子の家のそばなんだ。帰りに寄ってみるよ」
「よせよ、移るぜ? おまえ、スタメンになったばかりなんだろ?」
「補欠だって! 担任が情けで入れてくれたんだよ」
「でも、よかったな! がんばれよ!」
「おう! おまえも観に来いよ! 5月の連休に隣り町であるんだ」
「そうか……生きていたらな」
「生きていたら? なんだそれ! それよりもあさっての待ち合わせ、遅れんなよ!」
「うん、わかってるって。日曜のたそがれどきだろ? ぼくが遅かったら『トワイライト』の中で待っててくれよ」
「うん! じゃあ、練習があるから!」
「おお、がんばってな! おまえなら絶対に試合に出られるって!」
「ありがと! さよなら!」
「さよなら!」
めずらしく互いに、きちんとした別れのあいさつをした。少し気になったが、カバンを持って廊下へ出た。窓から夕暮れの校庭を眺めていたら、吉村が昇降口から飛び出していくのが見えた。見納めかもしれないと思い、白いユニフォームに貼り付けられた背番号をしっかりと目に焼き付けた。
今日は裏門から出た。あきらめたとみえ、女は1人も待ち伏せしてはいなかった。
川の音に耳を傾けつつ、人生最期かもしれない歩道を踏みしめた。川面には春霞がゆるやかに立ち上り、水面に投げかけられた桜の老木が、ゆっくりと影を伸ばしはじめていた。たそがれどきよりも前に家に帰りたい。いつもの視線を背中に感じつつ、1度も振り向かずに自宅へ向かって歩き続けた。すると、家の階段の前に人影が見えた。




