十
「風間さん!」
「あきらくん、久しぶりだね!」
我が家に通じる階段の前に風間さんが立っていた。涼やかな声音が夕暮れの森に響き渡る。
「どうしたんですか? 1日早いですよね? ぼくは大歓迎だけど」
「ああ、すごく気になってね。四国から直接こちらに来させてもらったよ」
「四国から?」
「ああ。あっちはずいぶんとあたたかいよ。こちらも桜はすっかり散ったね。緑がいっぱいで、もう初夏の香りがする」
「ええ、たしかにそうですね。そういえばこの前の日曜日、駅で母に会ったそうですね? 風間さんから明日の泊まりのことを、母に事前に説明していただけて助かりました」
「偶然、会ってね。あきらくん、さっそくで悪いけど、祠の場所を教えてもらえるかな?」
「祠ですか? それならばこちらです」
階段の手前にひろがる森の中へ、風間さんを案内した。あたりはすでにうす暗くたそがれどきが近づいていた。
「これがそうです」
ぼくはその、古びた小さな祠を指差した。クスノキの下にあるそれは、薄暗がりの中で不気味に白く浮き立っていた。
「ほんとだ……手前の地面が掘り返してあるね。クスノキが植えてあるなんて、やはり神社があった証拠だな。祠にお札を貼らせてもらってもいいかな?」
「お札を? 誰も管理していないから、かまわないと思いますが……なぜですか?」
「四国の陰陽師さんからお札をもらってきたんだ。では、貼らせてもらうよ?」
風間さんがしゃがみ込み、祠の前面にある戸の部分に短冊のような大きなお札を貼った。
「これでよし! あれ?」
「どうしました?」
「ここに、この前スナックの裏で見たのと同じ靴跡がある!」
「え?」
風間さんのとなりにしゃがみ込み、地面をよく見た。真新しい足跡があった。その靴先は真っ直ぐに、ぼくの部屋へと向いていた。
「本当だ……この前もあったのかな? 気がつかなかった……この足跡が、スナックの裏にあった靴跡と同じモノなのですか?」
「ああ。形といい大きさといい、よく似ている。だとすると……あの日スナックからここまで、僕たちを付けて来たのかな? でも、これはけっこう新しいよ。たった今という感じがするね」
「風間さんは、いつここに来られましたか?」
「たった今だ。駅から直接ここに来たから、君とは逆方向から歩いて来たんだよ」
「そうですか……では、ぼくたちが来る直前まで、ここに誰かいたのでしょうか?」
「待ち伏せをしていたのかな? よく見ると足跡は重なっていくつもあるから、ここからしょっちゅうあきらくんの部屋を見上げていたのかもしれないな。ここは、クスノキで死角になるからね」
「そうですね。気味が悪いです」
そのとき、ヒタヒタ、ガザ、ゴソッと井戸のうしろから物音がしてきた。
え? なに?
『ニャーン!』
「なんだ、タマか! 脅かすなよ!」
「猫ちゃんか? びっくりしたね」
『ミャーン!』
「よしよし、おなかが空いたのか?」
ぼくはヒョイッとタマを抱き上げ頬ずりをした。タマも薄くなりはじめたぼくのアザに頭をこすりつけてきた。
「明日のたそがれどきに、いま祠に貼ったお札の上にもう1枚同じ物を貼り封じ込めるんだ」
風間さんがタマを撫でながら真剣な口調で説明してくれた。
「封じる? 何をですか?」
「魔だ。それで解決するだろうと、四国の陰陽師さんが言っていた」
「陰陽師がですか? そうだ! お札っていえば風間さん! ぼくの家の台所にお札を置いていってくれましたか?」
「お札? そんな勝手なマネをぼくはしないよ。誰か他の人じゃないかな?」
「え? そうなんですか? でも、風間さん以外にうちに人は入れてないんですよ」
「おかしいな。そのお札はどこに?」
「どうぞ、家に上がって直接見てください。オーブントースターの下に挟まっていました」
「オーブントースターだって? おかしなところに置いてあるな……」
ぼくたちは急な階段を上り玄関から家の中へ入った。スマホを置こうとしてまたフランス人形が倒れていることに気がついた。真っ赤なドレスが逆さまになって広がっているさまは、血の海に浮かぶ死体みたいだった。
「どうかした?」
「いえ……人形が倒れていて。この前もそうだったんです」
「そうなの? おかしいな。誰かが意図的にやったのかもしれない。でなければ、こんなに大きな物がひっくり返るわけがない」
「ええ……」
とりあえず人形を元に戻し、タマを降ろして猫缶ごと食べさせてやると、風間さんを台所へ案内した。
「そこのオーブントースターの下です。取り出しましょうか?」
「ビニール袋に入れたほうがいいな。ストーカーだったら、警察が介入するかもしれないから」
「はい。そうします」
オーブントースターの下から抜き出したお札をビニール袋で包みながら、風間さんに渡した。
「これです。不気味な記号や梵字が書かれているでしょう?」
「おや? これは……」
「わかるんですか?」
「だって、これって……」
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
「あれ? 今、何か音がしなかったかい?」
「風間さんにも聞こえたんですか? あれです! いまのが、この前ぼくが話していた音です!」
「何かを擦るような音だね。たしかに、この前あきらくんがサッシで表現してくれた音と似ている。だけど、ちょっと違うな。でも、どこかで聞いたことがある音だ。なんだか無性に懐かしいような……だめだ、今は思い出せそうにない。すまない」
「いいんです。また、思い出したら教えてください。それよりも、このお札のことなんですが……」
「ああ、これは心配しなくてもいいよ。女の子がよくやる片思いの人の食卓に置いておく恋のおまじないのたぐいだよ」
「恋のおまじない?」
「ああ。君に片思いしてる女の子がやったものだろう。ただ、無断で家の中に入ったのだとしたら問題ありだな。警察に話したほうがいいかもしれない」
「なあに? あきら、お客さまなの?」
そのとき突然、家の奥から母が出てきた。例のチェックの長い巻きスカートに袖のゆったりとしたスプリングセーター姿だった。母親らしい格好をしてくれていてホッとした。香水もつけていなかった。
「あれー! 母さん、いたの? 今日は店はどうしたのさ!」
「この前、言ったでしょ! 土曜日は法事だから、前の日は店を休んで準備するって! さっき、仕込みだけして帰ってきたのよ。人の話はちゃんと聞きなさい!」
「そうだった……」
「あら? 風間さん! お久しぶりです! いつこちらに?」
「すみません、勝手にお邪魔してしまって……お久しぶりです。1日早いのですが、来させていただきました」
風間さんが恐縮している。
「いいんですのよ。よろしかったら、あきらの部屋にお上がりください。お茶とお菓子をお持ちしますから。夕飯もよかったら食べていってくださいな」
「いえいえ、夕飯はホテルで食べますからおかまいなく。でも、あきらくんに話があるので2階へは上がらせていただきます。それと……この前お会いしたときに言い忘れましたが、こちらから勝手に古文書をお借りしました。申し訳ありませんでした。こちらです。どうもありがとうございました。まだ何冊かお借りしたままなので、そちらも調査が済み次第お返しいたします。謝礼として郷土史の契約金からいくらか……」
「もう! 風間さんったら! いいんですのよ! あんな古本! いらないから全部まとめて差し上げたいくらいですわ。親戚がうるさく言うから保管してるだけなんです。何冊か無くなったって、あの人たちにはわかりゃしないんだから! 中身も分量も誰も把握してませんのよ。気になさらないでください!」
「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります。あきらくんのお母さまが気さくな方でよかった」
「そんな、お母さまなんて大そうな女じゃないんですのよ! あきらを産んだってだけですから。女ったらしの息子をね」
「母さんまた! やめろよ!」
「ハハハハ、あきらくんのうわさは病院でも聞いたよ。こんなにかっこいいんじゃ、女の子が放っておかないよ。頭もいいんだってね? 芸術的センスもあるって聞いたよ。ぼくはどうも女性が苦手で。うらやましいよ」
「だからって、女の子の扱いをあきらに聞いたらダメですわよ? アザを作る天才なんだから! 風間さんのステキなお顔が、腫れ上がっちゃうわ!」
母が自分のほっぺたを持ち上げておどけて見せた。
「母さん、からかうなよ。それよりも、人形がまた倒れていたけど……」
「ええ! さっき帰ってきたときは、倒れてなかったわよ! そのあと、奥でうたた寝してたから……」
「風間さん。やっぱり……」
「ああ……」
風間さんが考え込んでいる。
「どしたのよ?」
「ストーカーかも。この前のオーブントースターの下に挟まってたお札も、風間さんじゃないって……」
「うっそー! どうすんのよ! じゃあ、玄関が開いてたり、裏口のサンダルが外に出てたのって……。あんたが勘違いだから大丈夫だって言ったんじゃない!」
「だって、あのときはそう思ったから……」
「え? そんなことがあったんですか?」
風間さんが驚いて聞き返してきた。
「母さん……どうする?」
「そのお札は? なんなのよ?」
「これは……片思いの女の子が使うおまじないらしい……」
「なーんだ! またあんたの女関係なの? 明日の法事は大丈夫なんでしょうね! 風間さん、この子、前回の法事のときに女に怒鳴り込まれて彼女と3人で修羅場になっちゃったんですよ!」
「今は誰とも付き合ってないから、だいじょぶだって!」
「どうだか! 明日、なんかあったらカミソリの華子がだまっちゃいないよ!」
「風間さんの前で、やめてくれよ!」
「警察は? どうしますか?」
「警察は……明日、親族と話し合って決めます。あまり大事にすると、近所にまた大神の祟りだってウワサされて、わたしたちもここに住みにづらくなるから……」
母がきまり悪そうに風間さんに答えた。大神家は村での評判は最悪だ。
「では、親戚の方々と決めたほうがいいですね? 警察に相談したところで、すぐにどうこうしてくれるわけではないですから」
「はい、すみません」
母の言い分もわかる。これ以上うちが警察沙汰になるのはイヤだ。風間さんが言うように、警察が現段階でどうこうできる内容ではない。それに、犯人が優子だったらかわいそうだ。
風間さんと2階へ上がり、ぼくの部屋でお茶をした。空気の入れ替えに開け放った窓から、草花の香りと共に夜露が忍び込んできた。外はすっかり暗くなり、川の中にぼんやりと満月が映し出されていた。
「気持ちがいいね。ここはとても良いところだ」
「でも、何もなくてつまらないです。夏はかえるの声がうるさいだけですよ」
「それが、いいんじゃないか? でも、若い君にはたいくつかもね……」
ぼくたちはしばらく、黙って川の音に耳を傾けた。
「ところで、四国はいかがでしたか? わざわざ行ってくださったんですよね。ぼくの家のこと、何かわかりましたか?」
「ああ……四国には大学院時代の先輩が住んでいるから、その人を頼りに訪ねていったんだ。彼は東京出身だが四国の郷土史の研究家で、調査に行った旧家へそのまま婿養子に入ったんだ。彼の手元に古文書を何冊か置いてきて、詳しく調査してもらっている。終わったら必ずお返しするから」
「いいんですよ。母もああ言ってたでしょう? 古文書のことは気にしないでください」
「どうもありがとう。先輩も聞いたことがないような方言や専門用語で書かれているから、お年寄りに直接聴くしかないんだ。僕も一緒に行ったけど、あそこは閉鎖的で口がとても堅い。なかなか知っていることを教えてくれないんだ」
「隠したいことでもあるのでしょうか?」
「村人の祖先は都の落人や大陸からの帰化人だ。いわゆる隠れ里で、迫害や粛清の歴史がある」
「ぼくたちは、その一族の末裔なんですね?」
「ああ。だが、その中でも大神家は異質な存在だったらしい」
「異質というと?」
「いまから話すことは、僕が直接、四国のある山村まで行って聴いてきたことだ。あきらくんの先祖の歴史だよ」
風間さんが、四国で見聞してきた大神家の話をぼくに語りはじめた。風が出てきた。窓を閉め、2人で温かな茶を啜った。
「タマ! だめだってば! こら!」
階下では母がタマの爪とぎを叱っていた。明日は死ぬかもしれないぼくなのに、いつもどおりの平凡なゆうべを過ごしていた。風間さんと彼の語るおどろおどろしい話を別にして。




