八
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
ぼくは飛び起きた。まだ日が昇る前だった。あの音がした。また、家の中から聴こえた気がした。空耳だろうか? 今朝はだいぶ冷える。母はもう帰ってきたのだろうか? もう1度目を瞑った。
二度寝したお蔭で寝坊しそうになった。ニャーニャーご飯を欲しがるタマに、ごめんと片目をつむりながらキャットフードを缶ごと差し出した。朝食抜きでスマホを片手に、高校まで一気に駆け抜けた。並木道はだいぶ寂しい佇まいとなり、黒い木の枝が桜の花よりも目立つようになっていた。最高学年になったばかりで遅刻だなんてシャレにならない。予鈴が聴こえたと同時に、走るスピードをアップした。裏門の前に大勢の女子が集まっていた。芸能人でもくるのだろうか? それとも何かの、イベントか? 一瞬ちゅうちょしたが、気を取り直して走りはじめたぼくの袖を、破れたフェンスの隙間から誰かがひっぱった。シロツメクサを避けながらたたらを踏み、危うく転びそうになった。
「おっわ! あっぶねえな! 誰だよ!」
「おれだよ! 吉村だ。こっちから行った方がいい!」
「え?」
おれの袖をひっぱったのは例の悪友、吉村だった。
「どうしたよ?」
「どうもこうも、遅刻すんぞ! いそげ!」
「おい!」
吉村は腐っても野球部なので足が速い。ぼくも足には自信があるが、いかんせん運動不足で、教室に着く頃にはフルマラソンでもしたかのように息が乱れていた。
「ハアハア、ハアハア……間に合ったー」
「ゼエハア、ゼエハア……どうしたんだよ? さっきの?」
吉村に質問しながら、教室の窓から裏門のあたりを眺めた。大勢の女子が生活指導の教師に怒られ、シブシブと解散していくところだった。
「なんだよ、あれ? 芸能人でもくるのか?」
「ちげえよ! なんのために走ったんだよ! おめえだってば!」
「ぼく?」
「あれ、全員おまえ狙いの女子たちだぜ?」
「はあ? なんで?」
「そのアザ! おまえが優子と別れたって知って!」
「へー、そうなんだ?」
「受験があるから最後のチャンスだって、女子が血まなこになっておまえと付き合いたがってるぜ!」
「それで助けてくれたのか? あんがとよ! おまえがいなかったら遅刻してた」
「いいってことよ。裏門に女子があふれてたからピンときたんだ!」
やっぱり吉村はいい奴だ。持つべきモノは彼女じゃなくて、要領のいい友人だな。
「アザ、だいぶよくなったな?」
「ああ……」
窓に映る幽霊みたいな自分の顔を見つめた。アザはだいぶ薄くなっていた。そのうち跡形もなく消えてしまうだろう。優子の存在と共に。このアザがある内は、ぼくは優子と共にこの世に生きている、そんな実感があったのに。
「優子、今日も休みだぜ?」
「そうか……」
先生が来たので、ぼくたちは着席した。
「大久保優子はインフルエンザでしばらく休みだ。みんなも体調を整え、受験本番では風邪などひかないように」
先生が優子がインフルエンザに罹ったことをホームルームで報告した。休み時間になり、うしろの席から吉村が話しかけてきた。
「優子がインフルってタイミング良すぎ! 仮病だろ?」
「なんで?」
「なんで? 月曜の朝から、隣りの席の元彼に会いたくないからだろ! 自分がつけたアザだって見たくないはずだぜ」
「そうか……そんなもんか……」
「モテ過ぎるのもたいへんだなあ……」
「キラ! 客!」
廊下の近くのクラスメートが、ぼくを呼んだ。
「あーあ、1限終わりから来たのかよ? キラ、逃げ場はないぜ? 今日は1日女子の相手で日が暮れるな」
吉村が頭を抱えた。
「へ?」
廊下を見ると、女の集団が押し寄せていた。仕方なくうしろのドアから教室の外へ出た。
「なんでしょう?」
どの人が客なのかわからないので、そこにいる全員を見渡して質問した。
「キラくん! 付き合ってる人がいないなら、わたしと付き合って!」
手前にいた小柄な女が手を差し出してきた。こいつって、1年のときにちょっとだけ付き合ったことがある春奈じゃんか。
「わたしも!」
「わたしもよ!」
「ずっと片思いしてたんだから!」
ひとりが発言したら、全員が一斉に口を開きはじめた。デートだけしたことのある奴もいれば、全然知らない下級生もいた。なかにはスマホや手紙を差し出す女もいる。
「ちょっと待ってよ! ぼく、受験が終わるまで誰とも付き合わないから。それじゃあ」
「でも! 話だけでも聞いてよ!」
また春奈が発言した。勝気そうな大きな目を見開き、真っ赤なリップを歪めている。まったく、2年前と変わらずしつこい女だ!
「受験勉強のほうが大事だろ? 大学落ちたらおまえらのせいだぞ?」
「だって……」
「失礼。みんなも学生の本分は勉強だろ? 親に学費出してもらってんだからしっかり授業受けろよ。もう、2時限目がはじまるぜ?」
かまわず教室内にひっこんだ。女のおしゃべりには付き合いきれないよ。小言は、母親だけで充分だ。
「かっくいいー! 優等生のキラが言うから説得力があるんだよな! からかってんじゃないぜ? おれがそんなこと言ったら、蹴られて終わりだ!」
吉村がうらやましそうに声を掛けてきた。
「わかってるって」
その後も吉村の予想どおり、女の訪問は1日じゅう続いた。そんなことよりも、学校を休み続けている優子のほうが気になった。
放課後になり、吉村と帰り支度をしていた。外はまだ、明るかった。
「キラ! 今日は部活に出なくちゃならないんだ! 顧問に、たまには顔出さないと内申よくしてやらないぞって脅された」
「顧問も担任も一緒だっけ? そりゃ辛いな。おまえ、推薦かよ?」
「うん。キラは、どっちだ?」
「ぼくは……まだわかんない。来週になったらわかるよ」
「へ? 来週? なんかあるのか?」
「18歳になるんだ。今週の土曜日」
「え? もう? そりゃ、おめでとう! 忘れるといけないから先に言っとこう! そうだ! 食事おごってやるよ! バイト代が出たんだ」
「バイト? いつやったんだ?」
「へへへへ……ちょっとね。隣町の叔父さんの店で手伝いしてんだ。パン屋なんだけど」
「そうか。今度、買いに行くよ」
「ああ、おまけしてやる! 食事はいつ行く? 誕生日にする?」
「ごめん。その日は父親の法事でそのまま知り合いの家に泊まりに行くんだ。次の日帰ってくるから、日曜日は?」
「じゃあ、その日の夕方がいいな。どこで待ち合わせする?」
「ぼくの母親の店は? 『トワイライト』、知ってんだろ? うちの母親、今度ママさんに昇格したんだ」
「そうなの? すげえじゃん! じゃあ、店の前で待ってる」
「おお、楽しみにしてんな」
「ああ、おれも! じゃあな!」
「おお、部活がんばれよ!」
カバンを持ち、暗くなる前に学校を出ようと教室をあとにした。だが、廊下で女子の集団に取り囲まれ、教室でのやり取りを再現されてしまった。本当に面倒だ。なかに一昨年の法事で修羅場を演じたエリカが混ざっていた。過去の女はどれもこれもみんな手酷い振り方をしてきたのに、なんでまたぼくの前に現れるのだろう。同じ場面をもう1度演じたいだなんて、女子というのはそうとう自虐的な生き物らしい。
「ねえ、キラ……わたしが悪かったわ。キラの浮気を許せなかったのは、単なる女のエゴだよね? だからもう1度だけ、わたしにチャンスをちょうだいよ。今度は絶対に、キラに恥をかかせたりしないから!」
健気な女を演じながら、エリカがおかっぱボブの隙間から上目遣いでぼくを見る。肉付きの良い小柄な体をぼくに近づけながら。いまさら色気で落とそうだなんて、相変わらずアザトイ女だ。女子の集団が固唾を飲んで見守っている。エリカの次はわたしよと、出番待ちをしている脇役たちだ。誰が主役になろうとぼくにはまったく関係がない。この女たちと同じ劇団に所属した覚えは、さらさら無いのだから。
「すみませんが、ぼくは誰ともお付き合いしません。みなさん、他の男子をお探しください。以上です。どうぞ速やかにお引取りください」
「ねえ! おねがい! もう1度だけ、チャンスをちょうだい!」
「わたしも!」
「わたしだって! 好きな気持ちは誰にも負けてないよ!」
他の女も口々に何か言っていたが、面倒なので走って逃げた。
すっかり晩くなってしまった。昇降口のところでまた女子が待ち伏せしていた。背が高くスレンダーな体型にロングヘア。美しい眉とうりざね顔の持ち主。優子の親友、七瀬だ。
「ねえ、ちょっと! 優子のお見舞いは?」
「インフルだろ? 移るじゃん。ぼく、耐性ないし」
面倒くせえなと思いつつも答えてやった。
「はあ? ねえ? 優子はすごく傷ついてんだよ? どうすんだよ?」
「どうするって……寝てれば治るんじゃない?」
「サイッテイな男!」
七瀬は床を蹴ってどこかへ行ってしまった。こえ~っ! あいつ、男みてえ。
「あの~」
「はあ?」
そのとき、うしろから声を掛けられた。おかっぱボブに小柄な女。夕闇迫る薄暗がりの中でぼくは見間違えた。
「……優……子?」
「こんにちは……」
「こんちはってもう……たそがれどきじゃん?」
「…………」
「え? ああ……ごめん」
優子ではなかった。その女は1年前、優子と付き合う直前に1度だけ関係した女子だ。たしか名前は未久。1度だけでもいいからと言われ、当時優子に片想いをしていたぼくは、彼女の代わりに未久を抱いた。優子とは似ても似つかないほど暗い女で、抱き心地もあまりよくなかった。それ以来すっかり忘れていた。
優子は1度も抱かなかった。彼女だけは大切にしたかった。死にゆくぼくの犠牲者リストに、彼女にだけは名前を連ねて欲しくなかったのだ。やっぱりぼくは、ゲスな男だ。
「あの……気をつけたほうがいいかなって……」
「気をつける? 何に?」
「カラダに……」
「未久、なんか見えるの? 黒い影とか?」
「えっ……名前、おぼえててくれたんだ?」
未久がニッコリとうれしそうに笑った。なんだか嫌な気分になった。こんなところで、特定の女子と話しているのはまずいな。
「何もないなら、行くから」
きびすを返して昇降口から出ようとした。
「黒い影ってなあに? それが見えるとなんなの?」
「……見えないなら問題ない!」
「あ……」
じっと見つめる視線が気になったが、無視してどんどん進んでいった。裏門に行って、また女子に捕まるヘマはしたくなかったので、吉村が朝ひっ張り込んでくれたフェンスの穴から脱出することにした。フェンスの脇に古びた井戸を発見した。うちにある閉鎖された井戸を思い出して、なんだかゾッとした。
あたりはすでにたそがれどきだった。桜並木のライトアップは昨日で終わっている。川辺まで下りて、枝葉ばかりになった老木が水に映る姿をしばらくジッと眺めていた。父の白い飼い猫が浮かんでいたのは、このあたりだろうか。桜の花びらはもう、ほとんど浮かんでいない。あっという間に散ってしまう桜は、短い春を謳歌するぼくに似ている。そのまま体の向きを反転させ、半月の下にそびえる校舎を仰ぎ見た。この学校にも、あと何日通えるのだろう。
切なくなり、そのまま川の端を上流に向かって歩きはじめた。
ヒタヒタ、ヒタヒタ。
また、あの足音がしてきた。少し高くなっている歩道の手前には、背の高いクサムラが点在しているため、誰が歩いているのか低地のここからでは判別できない。歩道から視線を感じた。気にせず、川の音に耳を傾けながらただモクモクと歩き続けた。そのうち足音は消えていった。日の暮れと共に影が伸びはじめた。いつしかぼくはまた、自分だけの孤独な世界へと沈み込んでいった。




