四
「ハアハア……いない」
坂を上り終えたが、あきらくんはどこにもいなかった。汗に濡れたシャツが、ぼくの体にまとわりつく。
「おい! 何をしているんだ! まったく……狐に化かされおって」
「狐? 今のは……狐なんですか!」
「ああ……今の男は、於岩稲荷の狐が変身した姿だ。おまえが明治神宮で追いかけた女もそうだ。お岩を助けて欲しくて、おまえを騙してこの世界へ連れて来たのだ」
「お岩さんを? そういえば……『四谷怪談』の舞台はこの近くでしたね?」
「ああ。昨日、わたしたちが降りた駅の近くだ。戻ってみるか?」
「そうですね……どうせ、不思議な世界に迷い込んでしまったのならば……有名な怪談の舞台となった場所を、この目で実際に見てみたいです」
「また、いつものなんでも頭を突っ込みたがる癖がはじまったか? では、行ってみるとするか」
「はい」
道を右に曲がり、御先祖様と武家屋敷の中を斜めに西へと進んでいった。やはり、江戸時代にタイムスリップしたようだ。ときどきすれ違う人は皆、時代劇のように髪を結い、着物を着ている。
「ここだ」
三十分ほど歩いたところで、御先祖様が大きな屋敷の前で立ち止まった。門の脇に『キツネノカミソリ』が咲いていた。庭には小さなお稲荷様が祀ってあり、井戸も見える。
御先祖様が狐色の花弁の前を横切りながら、勝手に屋敷の中へと入って行く。いそいで、追いかけた。
「ここが有名な四谷怪談のお岩さんの家ですね。どの物語も、舞台は大きなお屋敷なんですね」
「そうだ。今も昔も、庶民は金持ちの生活を知りたがるものなのだ。たのもう!」
「ちょっと! ちょっと! 何、大声出してるんですか!」
「はい」
御先祖様が呼んだので、奥から女の人が出て来てしまった。いかにも武家の奥方という風情で、かしこくてよく尽くしそうなタイプの女性だ。この人が有名なお岩さんなのか! 貞女の鏡のような人だった。
「これはこれは……奥方、自ら客の応対とは。なかなか見上げた根性だ。褒めてつかわす」
「あの……拝み屋の方ですか? うちに何かお見えになりましたか?」
「拝み屋? そんないかがわしい商売ではないわ! だが、何か心当たりがあるのかな?」
「はい……近くに稲荷神社が出来たのでございますが……。それからというもの、私どもが奉公に出なくてはならないぐらい、我が家が傾きはじめたのでございます」
「それはいけないな。どれ、上がらせてくれ。茶はいらぬ。こいつはわたしの孫で弟子だ。一緒に上がるぞ」
「は、はい……主人が奥に居ります。どうぞ……」
「ちょっと! 御先祖様! ずうずうしいですよ!」
「いいから、黙って上がれ!」
「もう……」
仕方がない。実際のお岩の家に上がれるチャンスなんて滅多にないからな。御先祖様と一緒に、お岩さんの家である田宮家にお邪魔させてもらった。
それにしても、ぼくのこの現代風の格好が、皆は気にならないのだろうか。紐靴を履き、トートバックを肩に提げている。靴をそろえながら、そんなことが気になってしまった。
奥方のうしろから御先祖様と付いて行くと、奥の座敷に伊右衛門らしき男が座っていた。御先祖様を見て一瞬ギョッとしたが、すぐに居住まいを正してこちらに向き直った。
「伊右衛門様……こちらの方が我が家に何かあると……」
奥方が伊右衛門に御先祖様を紹介した。
「そうか……拝み屋殿、拙者に何か悪いところがあるのでござろうか?」
伊右衛門が御先祖様に懇願するように聴いてきた。相当、困っているようだ。
「拝み屋ではないと言っておろうが……犬神の障りだ。おまえ、早く『狐の牙』を奥方に渡せ」
「ええ!」
「早くしろ」
「はい……」
トートバッグから塩岡先輩に頂いた『狐の牙』を取り出し、奥方に差し出した。
「女。それを巾着にでも入れて肌身離さず持っておけ。それと……庭の稲荷はどうした?」
奥方は『狐の牙』をぼくから受け取ると、大事そうに巾着袋に入れてから答えた。
「はい……使用人が持ってきた稲荷でございます。祠を建ててから家が持ち直したので、大切にしております」
「狐は4代栄えて滅ぼすという。気をつけろよ。では、もう1軒の稲荷はどこだ?」
「はい。通りを隔てた斜向いにございます」
「誰が建てた?」
「流れ者の陰陽師です。半年前、突然やってきて住みつきました。元は空き地でございました」
「そうか……今、その陰陽師は居るか?」
「昼間はおりません。夜になると、どこからか帰って参ります。夜中じゅう、灯かりがついております」
「音はするか?」
「音ですか……伊右衛門様、何かお聴きになりましたか?」
奥方が、黙って聴いていた伊右衛門に確認した。
「拙者、真夜中に手水場に立った際、犬の鳴き声を聞き申した。それは切なく遠吠えしておったわ」
「昨夜? 遠吠えか……東側に向かってか?」
「そうでござるな……そちら側から聞こえてきた」
「そうか。昼は皿屋敷でお菊に変装し、夜はこちらで悪さをしていたのか。昨夜、『狼の頭蓋骨』にヤラれて、だいぶ参っているのであろう……。ときにご主人、今日はこちらの屋敷に泊めていただいても構わないかな?」
「奥がよければ構わぬ。家のことは奥に任せてあるからな」
伊右衛門がやさしい眼差しで奥方のお岩を見つめた。お岩は赤くなった頬を袖で隠しながら、コクンと頷き、ぼくたちが泊まることを承諾した。なんだ。『四谷怪談』と全然ちがう。仲睦まじい夫婦ではないか。古典もあてにならないな。もっとも、『四谷怪談』は鶴屋南北の歌舞伎の創作物だから、相当にフィクションが混ざっているらしい。
リーン、リーン、リーン、リーン。
ジジジジ、ジジジジ。
いい声で虫が鳴いている。半月に雲が掛かり少し暗くなった。江戸の町は、風情があっていいな。
御先祖様と縁側で、夜中になるのを待っていた。
「これから、どうするんですか?」
「シッ! 往来を誰か通るぞ!」
ヒタヒタと田宮家の屋敷の前を通り過ぎる草履の音。この感じだと、男か?
キキーッ。
そのとき、田宮家の裏木戸から誰かが出て行った。御先祖様と後を付けていくと、奥方のお岩だった。蓮向かいにある、例の稲荷神社に入っていく。稲荷神社には煌々と灯かりがついていた。灯かりというよりは火事のように明るくて、まるで狐火のようだ。
「裏に回るぞ」
「はい……」
御先祖様のうしろを付いていった。正面の門から入り、神社の建物の裏に回った。戸の隙間から御先祖様と一緒に中を覗いた。
――そこには。
正座したお岩と、その正面に神棚を背にした神主の格好をした犬の頭の男がいた! 烏帽子まできちっと被っている。犬といっても原種に近い種類で狼に似ている。耳をピンと立て目は吊るし上がり、裂けた口元の鋭い牙の間からは、ダラリと長い舌を見せている。鼻を濡らし、ハアハアと荒い息遣いでお岩に何やら説教をしている。2人の周囲には、たくさんの狐火が舞っていた。
その異様な光景に怖気づき、ぼくの膝はガクガクと笑いはじめた。
「ご、御先祖様……! あ、あれは……」
「あれが昨夜の皿屋敷のお菊、狐女の正体だ。なんにでも変化できる。だが、関東に犬神がいるのはおかしい。他所から紛れ込んだ野良犬だろう。立派な衣装を見に付けてはいるが、正統派の者ではないな。おい! おまえの『斧』で成敗しろ」
「斧? ぼくが……ですか……?」
「ああ。おまえが自ら殺れ! でないと、お岩が不幸になるぞ! 『四谷怪談』が実話になってしまう」
「そんな……この『斧』は、そんなにすごい物なのですか?」
「ああ……四国の由緒ある刀鍛冶の作った7つの刻み目のある手斧だ。犬神に効果がある」
「でも、ぼくにそんなことが果たして……」
「早くしろ!」
スパーンッ!
御先祖様が、いきなり戸を開け放った!
『ナニヤツ!』
犬神が神官の格好のまま、四つんばいになって身構えた! 口からダラリと舌を出し、ダラダラとよだれを滴らせている。その姿は、まさにケモノ!
御先祖様がお岩を横抱きにすると、パッと飛び退いた。
犬神がそちらに気を取られている間に、トートバッグから『斧』を取り出した。両手に持ち、高く掲げた。
『グルグルグルグル……!』
犬神が大きく喉を鳴らしはじめた!
頭を低くして腰を高く掲げ、いまにも飛びかからんばかりだ!
こ、恐い!
恐くて仕方がない!
だが、ぼくがヤルしかないんだ!
これ以上、不幸な人を増やしてはならない!
『グウウウウッ……グウウウウッ……!』
犬神が、更に低く唸りはじめた。
ぼくは、斧の先が天井の梁に届きそうになるぐらいまで、高く掲げた。
あとはこれを、犬神の頭に振り下ろすだけだ。
恐ろしさに体が震え、めまいがしてくる。
ガッ、ガッ! ガッ、ガッ!
板の間に、鋭い爪を押し付ける音がする!
どうやら相手は、臨戦態勢に入った模様だ!
覚悟を決めて、目を瞑った。
『オレノジャマヲスルヤツハ、ナニビトタリトモユルサン!』
犬神の、恐ろしい声が響き渡る!
ガッ、ガッ! ガッ、ガッ!
更なる爪の音。
グラグラッ! グラグラッ!
神社の建物、全体が揺らぎはじめた!
ガガッ!
そのとき、こちらに向かって風が動いた!
「いまだ!」
何がなんだかわからなかった。
ただ、御先祖様の掛け声と共に、斧を思い切り振り下ろした。
「ギャアアアアーッ! ウーッンンンン!」
目を瞑ったまま2度、3度と振り下ろした。
――声が聴こえなくなるまで、ずっと。
「よくやった。もういいぞ」
御先祖様がぼくの肩に手を置き、そっと斧を引っ張った。手が強張り、しばらく斧から手が離れなかった。
改めて目の前の惨状を見直し、足が震えた。そこには1匹の犬の残骸があった。
「年老いた山犬だ。犬神のフリをしていたんだ。大丈夫か? 一度は通る道だ。おまえもこれで、立派な陰陽師となった」
御先祖様は斧を手に取ると山犬の残骸の上に置き、九字を切りながら何かのまじないを唱えはじめた。
「……おん・あ・び・ら・うん・けん・そわか」
あっと言う間にそれらはぜんぶ消え、気がつくと、ぼくと御先祖様は往来に佇んでいた。
東の空が薄っすらと明るくなってきた。夜明けだ。
「あっ! お岩さん! 奥方のお岩さんはどうなりましたか?」
「家に帰しておいた。今頃ふとんの中で寝ておるわ。夢だと思ってすべて忘れるだろう。あの家は陰陽道の流れを汲む血筋だ。犬神にとって操りやすい存在だったのだろう。そろそろ戻るとするか。地下鉄で帰ろう」
「地下鉄? 江戸時代にはまだ……あれ?」
御先祖様のうしろに駅舎があった。
「行くぞ!」
御先祖様がスタスタと階段を下っていく。
「あ! 待って!」
すぐにあとから追いかけた。駅には誰もいない。無人の改札を抜けてホームへ着いた。停まっていた電車に、御先祖様と共に乗り込んだ。
――ジリジリジリジリ!
すぐに発車した。こんな時間に地下鉄が動いているのだろうか。車両内も車窓の景色もかなり古臭い。もしやこの線は、戦前に作られていた幻の地下鉄ではなかろうか。今も現存している秘密の地下通路。レンガで出来た壁も暗い電灯も、それなら納得できる。
しばらく外の暗闇を眺めていた。
手にはまだ、生々しい斧の感触が残っていた。
「新宿ー新宿ー」
電車のアナウンスが、新宿駅に到着したことを知らせてくれた。
「あれ?」
横を見ると、御先祖様がいない!
いつの間に、いなくなったんだろう。
トートバッグを握りしめ、新宿駅に降り立った。
人が大勢いた。
おや? 皆、現代の服装をしている。
いつの間にか、巨大な目のオブジェの前にいた。新宿の目の前。
ああ! ここがそうだったんだ!




