十六
月の出を待ちながら、真っ赤な襦袢を着たお花は、いまかいまかと明蔵を待ちわびていた。たそがれどきになるとやってくるあの人を。だれもが顔を見誤るようなうす暗がりの中、愛しい明蔵が長屋の角を曲がってやってきた。井戸の前を通り過ぎ、三軒長屋のはじっこに向かってくる草履の音が暗い路地に響き渡った。
鼻歌と共にスルッと戸が開くと、お花の明るい笑顔がはじけた。
「お花! 待たせたな! いい子にしてたかい?」
「おまえさん! 今日は遅かったね! ご飯が冷めちまうよ!」
「おう! 今朝、坊主が熱を出してな。さっきまで下がんなくて大変だったんだよ。大事な跡取り息子だからな」
「はああ。なんだって人の息子の話を聞かされなくっちゃならないんだい? うちにだってかわいい娘がいるんだからね! あんたの子じゃないけどさ」
「仕方ないだろ。だから、今夜は泊まっていかないぜ? 1番鶏が鳴く頃までには帰ってやらないと、坊主が寂しがるだろ?」
「はいはい。あちきはどうせ、二番手の女ですよ。大神の奥さまにはかないやしませんよ」
「なにいってやがる! 奥の話なんて1度もしてないだろ! あいつは高慢ちきな女だ。小山の上から下の長屋を見下ろして、いっつもいい気になっていやがるんだぜ? いずれあいつだって、おれたちみたいに下界に降りなきゃいけなくなる時がくるのにさ!」
「なにいってるんだい! 奥さまの家の財産で好き勝手しているんだろう? あちきもだけどさ」
「おまえみたいに女郎あがりの女の方が、気楽でいいよ。あいつはあんな高いところに住まわしてもらってるくせに、上ばっかり見て暮らしてやがる。土佐ではもっと高い山でもっとでっかい屋敷に住んでいたんだとよ! 上ばっか見てっと、そのうち足元を踏み外して転げ落ちるぞ」
「そんなことより、あんた……」
「おう……」
コトが終わり帰ろうとする明蔵を、布団の中でお花が引き留めた。
「おまえさん、もういっちまうのかい?」
「ああ。奥が坊主の病気快癒を祈願して祈祷所に篭りっきりなんだ。使用人が大勢いるが、やっぱり親が枕元にいてやんねえと坊主も心細いだろう」
「なんだい! やっぱりあんたも人の子だねえ。こんなに女にだらしないのに、何をおいても1番は息子なんだから! まあ、あちきだって一人娘は目に入れても痛くないほどかわいいけどね」
「その愛娘は、今夜はどうしたい?」
「それがさ、隣の部屋に新しい店子が入ったんだよ! これが、ひどくきれいな奥さんでさあ。地味なこしらえなんだけど、色なんか真っ白で目も金魚みたいにおっきいんだよ。江戸の……ああ、東京になったんだっけ? 東京の芸者みたいだよ! その人があずかってくれてるんだ。すごく親切な人でさ!」
「へー。そうかい。旦那は何をやってるんだい?」
「鍛冶屋だってさ! 旦那は見たことないんだけど、いい男みたいだよ。しきりと自慢してた。ここいらの界隈で、あんたよりいい男がいるのかねえ?」
「おいおい! その旦那を狙ってんじゃねえだろな? そんなことじゃ、来週、おれの誕生日に東京へ逃げるって話はやめにすんぜ? 都にはいい男がいっぱい、いるからなあ……」
「なんだい! あんた! あれほど約束したじゃないか! あちきがどんなに楽しみにしているか! 娘だって、隣りの奥さんにあずけていこうとしてるのにさ……」
「冗談だって。それよりその奥さんって、おれが来たとき井戸端で砥ぎ仕事をしてた女かい? 姉さん被りの? 後姿だけだったが」
「ああ、そうなんだよ。えらい働き者でさあ。一日中、砥ぎ物をしてるんだよ!」
「へー。じゃあ、今度会ったらあいさつしておくよ。おめえの娘をもらってくれるんじゃ、悪くてな」
「べ、べつに犬や猫の仔みたいに捨てていくわけじゃないんだよ。子供がいなくて猫だけ飼ってて寂しそうだからさ……あの娘も懐いているし……」
「わかってるって。駆け落ちにゃ子供は邪魔だ。そんな親切な人なら、安心しておいていけるな」
明蔵は明け方、1番鶏が鳴く前に屋敷に戻った。奥方はいまだ祈祷所に篭ったままだった。明蔵はこの四国から来た陰陽師の一族に、土地や屋敷をすべて提供して婿入りした。明蔵にはすでに親はなく、自身の道楽が過ぎて受け継いだ財産はすべて使い果たしていた。あとは土地や家屋を手放すしかないと思っていたところ、四国からやって来た陰陽師との婚姻の話が舞い込んできたのだ。どこかの旅籠で明蔵を見初めたらしく、莫大な財産と共に縁談の申し込みをしてきた。渡りに舟と二つ返事で承諾した。
奥方は美しい女だがすかしていて、明蔵は苦手だった。井戸の前にクスノキを植えて祠を据え、屋敷の中に祈祷所を造り階段の前に鳥居を建てた。陰陽師とやらの力で村人の悩み事を解消してやり、神主となった。自然と村の長のような立場になった奥方に、氏子でもある村人たちからたくさんの貢物が集まった。旅籠で見初めたというからには女と居たところを見たに違いない。だったらこちらの女癖も重々承知だろう。坊主が1人生まれたのをいいことに、明蔵は大神家の財産で女遊びをくりかえしていた。
奥方はときどき祈祷所に篭っては出てこなくなる。偶然かもしれないが、そのたびに明蔵の女が病や怪我をして離れていった。これでは自分もとり殺されると思い、来週末に馴染みの女のお花と一緒に東京に逃げる算段をしていた。お花は女郎あがりのさばけた女だ。いざとなったら働いて明蔵を養ってくれるだろう。
翌日、坊主の熱が下がったので、明蔵はお花の元へ向かっていた。途中の井戸端に、お花の口に上っていた隣の奥さんらしき人物が後ろ向きにしゃがみ込んでいた。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
刃物を砥いでいる。姉さんかぶりをしているため顔は見えないが、地味な茶色の絣を着ていた。
「ごめんなさいよ。奥さん、あっしの女がお世話になっているそうで。ありがとうごぜいやす」
「……いいえ」
明蔵は山の上の主人だとばれるとまずいと思い、わざとぞんざいな言葉遣いであいさつをした。女はそれ以上は言葉を発しなかった。だが、背中から腰への流れがなんとも色っぽい。真っ白なうなじと白魚のような手がチラチラと、たそがれどきの井戸端にはためいていた。これは相当な極上品の女だ。吉原でだってお目にゃかかれねえ。たぶん、男と駆け落ちしてきた、どこぞの奥方さまに違いない。旦那は士族かもしれねえな。へたに声をかけない方が得策だ。
明蔵はそれ以上は井戸端の女に話しかけず、黙ってそこを通り過ぎた。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
うす暗い路地裏を、砥ぎの音だけが不気味にこだましていた。
それからも毎日、その奥さんは井戸端で砥ぎ仕事をしていた。明蔵は黙ってうしろを通り過ぎるだけにした。
翌週になり、お花と東京へ逃げるその日。旅姿の明蔵は、約束の時間より少し遅くなってしまい、お花の長家へいそぎあしで向かっていた。今日は坊主がなかなか泣きやんでくれず、奥方はいまだ祈祷所から出てこない。祈祷中は決して覗いてはならぬと言われているので、使用人たちも食事を差し出すだけで、ここ十日ほどは誰も姿を見ていなかった。だが、皿はいつもきれいに平らげてあったので、心配はしていなかった。いけ好かない女でも、別れる前にひと目だけでも顔を拝んでおきたいと思った。それも叶わぬまま明蔵は、たそがれどきのなかを大神の屋敷をあとにした。
井戸の前を通り過ぎたとき、いつもの奥さんがいなかった。それに、お花の家は真っ暗だった。明蔵は首をひねりながらお花の家の戸を開けた。うす暗く、静まり返っている。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
え? 家の中から砥ぎの音が聴こえてくる。よく見ると、お花がうす暗がりでこちらに背を向け刃物を砥いでいた。なんで、あんなところで砥ぎを? 旅の用意はしていないのか? なぜか足元が濡れていた。明蔵は家に上がりながら声をかけた。
「お花? 何をしているんだい?」
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
だが、近づいていくとそれは、お花ではなかった。薄茶の絣は隣りの奥さんではないか? なぜ、彼女がここに? お花はどこだ?
「ちょいと、もし……? お花はどこですか? あの……あなたは、なぜここに?」
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
「もしや……わたしが家をまちがえましたかな?」
明蔵は焦った。たそがれどきで薄暗かったから、隣の家に侵入してしまったのかもしれない。
そのとき、砥ぎをしていた女が突然スッと立ち上がり、こちらを振り向いた。
「たれそかれ、たそがれどきとはよおゆうたもきす。めっそう暗うて誰かわからんかったか? 自分の奥さんも見誤るとは……じゃったらこれならよおわかるにかぁーらん?」
そう言って女は頭から手ぬぐいを取り着物を脱ぎ落とした。ザンバラ髪に真っ赤なお花の肌襦袢を着た明蔵の妻だった。
「お、おく……!」
『ニャー!』
奥からのっそりと猫が出てきた。あれは――うちの白猫ではないか?
「ゆ、ゆるしてくれ……! ほんの出来心だ! お花とは、別れるつもりで……」
明蔵は水に足を取られてひっくり返った。だが、よく見るとそれは血だまりだった――部屋の片隅に喉を裂かれ、白目をむいたお花が転がっていた。
「別れるつもりで旅支度なが? 大したものだ。ようもほがーにウソを磨きあげた。あしもほら、十日かけてこがーによお磨きあげちゅうよ」
明蔵の妻が両刃の小刀を掲げて笑った。この女が心から笑ったところを、明蔵は生まれて初めて見た。
「ぎゃああああぁぁぁぁーっ!」
その日、長屋には明蔵の断末魔が駆け巡った。住民が駆けつけたとき、明蔵はまるでケモノの牙にでもかかったかのように切り刻まれており、人間としての形を成してはいなかった。明蔵の血を白猫がペロペロと舐めていた。その後、井戸から入水自殺した大神家の奥方の死体が見つかった。お花の娘は近所の住人に引き取られた。御神体の砥ぎ石と白猫は大神家の使用人が回収していったが、もう1つの御神体の小刀は見つからなかった。
ある日、井戸汲みをしていたお花の娘が美しい小刀を発見した。
「これは、となりの奥さまが持っていた刺刀でないか? わたしの宝物にしよう!」
娘は大切にその刃物を自分の道具箱に仕舞い込むと、家宝として子々孫々に伝えていった。




