EP 3
算盤をへし折る紫煙と苦味。海将の【酒保】が異世界市場をバグらせる
静寂が下りた村長宅の台所に、猫耳の商人、ニャングルの無慈悲な声が響いた。
「金貨5000枚や。前村長がウチの『ゴルドスマイル銀行』から借りた金。その連帯保証人は、村長であるアンタになっとるんやで、キャルルちゃん」
金貨5000枚。
このアナステシア世界において、一般的な庶民の年収が金貨三百枚程度であることを考えれば、それはおよそ数千人規模の集落の年間予算にも匹敵する途方もない天文学的数字だった。
キャルルは顔面から血の気を失い、震える手で自身のウサ耳をきゅっと握りしめる。
「そ、そんな……! 私が村長になったのは、あの人が持ち逃げした直後で……借金の連帯保証人なんて、サインしてませんっ!」
「あかんあかん。前村長が勝手に村の公印を押してしもてるんや。ウチも商売やさかい、情けは無用やで? 払えんのやったら、この村の土地と……そうやなぁ、キャルルちゃんとそこの人魚の嬢ちゃんには、マグローザ漁船か地下労働施設で、死ぬまで働いて返してもらうしかあらへんなぁ」
マグローザ漁船。それは闇金で首が回らなくなった者たちが放り込まれ、二度と帰ってこないと言われる地獄の強制労働施設である。
絶望の淵に立たされたキャルルと、カレーのスプーンをくわえたまま涙目になるリーザ。
そんな修羅場の中にあって、五十歳の海将・坂上真一は、実に穏やかな動作で、自分用のコーヒーカップに湯を注いでいた。
「……おい、オッサン。さっきからパトロンやとか言うとるけど、あんた、この借金を肩代わりできるほど金持っとんのか?」
ニャングルが胡散臭そうに目を細める。
坂上はゆっくりと振り返ると、手にしていたカップをテーブルの上にコトリと置いた。
「いや? あいにくと、金貨とやらの一枚も持っとらんよ」
「アホか! 無い袖は振れんのや! 金が無いならすっこんどれ!」
ニャングルが威嚇するように、手元の真鍮の算盤をジャラッ! と鳴らす。
しかし、坂上は全く動じない。かつて防衛計画の中枢である統合幕僚監部・J5において、一癖も二癖もある老獪な政治家や官僚たちと予算のぶつかり合いをしてきた彼にとって、借金取りの凄みなど子猫の威嚇に等しかった。
「金は無い。じゃが、商売の『タネ』なら山ほどある」
「……なんやて?」
「お前さん。ここに入ってきた時から、気にならんかったか? この部屋に充満している、暴力的なまでに食欲をそそる『匂い』が」
坂上に指摘され、ニャングルは鼻をヒクつかせた。
そうだ。借金の取り立てという仕事モードに入っていたため意識から外していたが、この部屋には、今までに嗅いだことのないような、複雑で強烈な香辛料の香りが漂っている。
見れば、キャルルと人魚の少女が、銀色の皿についたソースを未練がましくペロペロと舐めとっているではないか。
「なんや、この匂いは……?」
「ワシが作った『カレー』という料理の匂いじゃよ。だが、飯の話は後でいい。商売人なら、こっちの価値を査定してもらおうか」
坂上はワイシャツの胸ポケットから、青と白のデザインが目を引く小箱を取り出した。
彼が長年愛飲している銘柄、『hi-lite』である。
【酒保】のスキルにより、無尽蔵に補給が可能なそれは、アナステシア世界には存在し得ない完璧な均一性と品質を誇る『紙巻きタバコ』だった。
「お前さん、煙管を吸うようじゃな。なら、これもいけるじゃろ。一本、試してみるか?」
坂上は箱から一本を引き抜き、ニャングルに差し出した。
ニャングルは怪訝な顔をしながらも、商人の性で未知の物品を受け取る。真っ白な紙で巻かれたそれは、寸分の狂いもなく円柱形を保っており、異世界の粗悪な手巻きタバコとは比べ物にならない精巧さだった。
坂上が年代物の純銀製オイルライターを取り出し、カチッ、と小気味良い音を立てて火を灯す。
「……まぁ、一口だけなら吸うたってもええわ」
ニャングルはハイライトをくわえ、火を点けた。
そして、深く煙を吸い込み――肺に入れた瞬間。
「ゴホッ、ゲホッ……!? な、なんやこれぇぇっ!?」
ニャングルの猫耳が、ピンッ! と天を突くように逆立った。
ラム酒の香料がほのかに香る、雑味の全くない濃厚な煙。上質なタバコ葉のガツンとくる吸いごたえ。異世界特有の、喉を焼くようなイガイガとした不快感が一切ないのだ。
「う、美味ぁ……っ。なんやこの計算し尽くされた煙は!? ワシが普段吸うとる高級ポポロシガーかて、ここまで澄んだ味は出せへんぞ……っ!」
「驚くのはまだ早い。タバコには、これが一番合う」
坂上は、先ほど淹れたばかりの黒い液体が入ったマグカップを、スッとニャングルの前に滑らせた。
【酒保】から取り出した、日本製のフリーズドライ・インスタントコーヒー。お湯に溶かしただけだが、その品質は、魔法技術で無理やり抽出する異世界のコーヒーを遥かに凌駕している。
ニャングルは震える手でカップを取り、一口飲んだ。
「――ッ!?」
香ばしい苦味と、深いコク。そして、それが先ほどのラム酒フレーバーの煙と口の中で混ざり合い、至福のマリアージュを生み出す。
ニャングルの瞳孔が極限まで見開かれ、持っていた真鍮の算盤が、手から滑り落ちて床にガシャン! と音を立てた。
「オッサン……いや、アンタ、これ、どこで仕入れたんや……?」
「ワシの専売特許じゃよ。他にも、保存が効いて先ほどのようなカレーが一瞬で作れる『レトルト食品』や、極上の菓子なども無限に調達できる」
「む、無限やと……!?」
ニャングルの脳内で、猛烈な勢いで算盤が弾かれ始めた。
ルナミス帝国の貴族たち。アバロン魔皇国の魔将たち。彼らは常に新しい嗜好品に飢えている。
この『ハイライト』と『コーヒー』を、ゴルド商会のルートを使って三大国の富裕層に独占販売すれば――。
(金貨5000枚どころやない……。価格破壊どころか、異世界の嗜好品市場を裏から完全に支配できるで……っ! このオッサン、ただのパトロンちゃう! 歩く造幣局や!)
ニャングルの全身の震えが止まらなくなった。恐怖ではない。あまりにも巨大な利益を前にした、商人としての歓喜の震えだ。
「どうじゃ? この物資の独占販売権をお前さんに預ける代わりに、村の借金の返済を『無期限猶予』とする。……悪くない取引じゃろ?」
「悪くないどころか、最高のお取引やないですかぁぁっ!!」
ニャングルは床に額を擦り付ける勢いで土下座した。
さっきまでの高圧的な態度はどこへやら、見事なまでの手のひら返しである。
「坂上社長! いや、坂上大将! ワイに、ぜひワイにその商材を扱わせてください! 借金の取り立てなんぞ、ワイの権限で今すぐ凍結したりますわ!」
「話が早くて助かる。じゃが、ワシの目的は金儲けじゃない。キャルルたちが、のんびりと平和に暮らせる環境を作りたいだけじゃ。お前さんには、そのための『防波堤』になってもらうぞ」
「お任せくだはれ! 商売の防波堤なら、ゴルド商会のニャングルが命に代えても――」
揉み手でペコペコと頭を下げるニャングルを見て、キャルルとリーザはポカンと口を開けていた。
つい先ほどまで、村の存亡を握っていた恐ろしい借金取りが、ただの『タバコ』と『コーヒー』一杯で、坂上の忠実な下僕に成り下がってしまったのだ。
「坂上さん……やっぱり、すごいです……!」
「おじさま、マジで神様ですの……。私、もう一生離れませんわ!」
ヒロインたちの尊敬と依存の眼差しを一身に浴びながら、坂上は「やれやれ」と息をつき、自分用のハイライトに火を点けた。
「商談成立じゃな。これからよろしく頼むぞ、ニャングル」
「へい! よしなに! ……あ、そうや。社長、一つ大事な報告を忘れとりましたわ」
すっかり舎弟の顔になったニャングルが、ふと真面目な顔つきに戻る。
「ウチの情報網に引っかかったんやけど、明日あたり、この村に『野盗団の先遣隊』が来るで」
「野盗じゃと?」
「へえ。前村長が持ち逃げした『暴行しない券』の金。あれを狙って、近隣のゴロツキをまとめたデカい野盗団が、ポポロ村を襲う準備を進めとるらしいんですわ。まずは様子見の先遣隊が、明日の朝にはここへ着くはずや」
野盗団。
その言葉を聞いた瞬間、キャルルの顔が再び蒼白になった。
借金問題が片付いたと思ったら、次は物理的な暴力による村の略奪。戦う力のない限界集落にとって、それは死刑宣告に等しい。
「坂上さん、どうしましょう……! 自警団と言っても、数人の素人しかいなくて……」
震えるキャルルの肩を、坂上がそっと叩いた。
彼の目には、焦りも恐怖も微塵もない。あるのは、冷徹な指揮官としての静かな闘志だけだった。
「心配するな。野盗程度、ワシの『土いじり』の邪魔にもならん。……さて、明日に備えて、少しばかり【防衛の準備】を始めるとしようか」
坂上の【酒保】には、タバコやコーヒーといった嗜好品だけでなく、近代国家の暴力の結晶――軍事兵器の数々が眠っている。
剣と魔法の世界のゴロツキどもに、圧倒的な近代戦術の恐ろしさを叩き込む。
大人の戦争の準備が、今、静かに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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