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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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9/23

第8話 義勇兵名簿 帝国暦225年5月

――ヴァイセン新聞 某日朝刊より抄録しょうろく――


**大公国、王国よりの侵攻続く**


北方の小国たる大公国は、王国よりの武力侵攻を受け、国境地帯一帯において防衛戦を強いられている。大公国軍は兵員・装備の双方において王国軍に大きく劣り、開戦以来、後退を重ねているとの報が続く。


これを受け、帝国政府は大公国よりの要請に応じ、義勇兵の派遣を決定した旨を発表した。派遣規模・時期は追って公示される。


また帝国は、大公国軍への軍需物資貸与レンドリースについても既に決定済みであることが判明した。帝国製の兵器・弾薬類が、同国軍の補充・装備更新に充てられる見通しである。



1


その記事を、ギュンターは近衛司令部の控室で目にした。誰かが読み終えて置いていったものだ。義勇兵、貸与――どちらの文字も、自分には縁のない話だと思った。畳んで卓の隅に戻し、午前の書類仕事に戻った。


昼過ぎ、彼の元に一通の書状が届いた。差出人は北辺の商会長の娘。妻からだった。


「このたび、無事に子が生まれましてございます」


簡潔な、事務的な文面だった。妻の顔を、ギュンターは知らない。声も知らない。数年前、家同士の取り決めで婚姻の書類に署名しただけの相手だ。彼女が今どんなふうに誰の子を抱いているのか、想像することさえできなかった。


そうか、生まれたか。


それだけの実感しか湧かず、そのことに、自分でも少し戸惑った。書状を文箱ふばこに収め、次の任務に向かった。


---


その晩、近衛の同僚数人と、行きつけの酒場で杯を交わした。


「大公国、もう持たんのじゃないか」


誰かが新聞の話題を出した。ギュンターは相槌あいづちを打ちながら聞いていた。義勇兵の噂も、貸与される兵器の話も、卓を囲む誰にとっても他人事の域を出なかった。


話題が人事の噂に移ったのは、酒が二巡ほどした頃だった。誰かの昇進、誰かの転属。ひとしきりそれが続いた後、隣に座った同期が、ふと思い出したように言った。


「そういえばお前、本当に近衛から動かないな」


からかうような、悪気のない声だった。ギュンターは笑って杯を傾けた。


「性に合っているんだ」


そう答えて、話は次の話題へ流れていった。誰もそれ以上は気にしなかった。だが、ギュンターの中では、その一言だけが、妙に長く尾を引いた。理由を言葉にできないまま、杯を口に運ぶ手が、少しの間だけ止まった。


---


宿舎に戻る道すがら、ギュンターは自分の経歴を辿たどり直していた。


なんとか士官学校を卒業した後の二年は、新任士官の誰もがそうであるように、いくつもの部隊を順に回された。


帝都に戻って近衛騎兵小隊長、近衛砲兵大隊参謀、そして近衛着任から十三年経った今も近衛。士官学校の同期は皆、とうに国境守備や地方連隊を経験し、在外の駐在武官や、観戦武官、大海原を越えて共和国に留学に出たものもいる。自分だけが、ずっと帝都の内側で近衛にいる。

そういえば、と思い出す。十年近くも前だったか、国境要塞への異動話があったはずだった。内示を受け、あとは辞令が下りるのを待つばかりだったと記憶している。だが、いつの間にか立ち消えになっていた。理由は聞かされなかったし、聞くほどのことでもないと思っていた。


その記憶が、不意に、別の記憶と重なった。


戴冠を二週間後に控えたあの夜。「殿下」と呼んでいた彼女に、初めて「陛下」と呼びかけるようになる、その直前。


まさか。


そこまで考えて、ギュンターは自分の考えを打ち消した。あり得ない。陛下がそのような私情で人事に手を加えるはずがない。だが、一度浮かんだ疑念は、そう簡単には消えなかった。宿舎の階段を上がる足取りが、いつもより重かった。


---


数日後、皇宮の警護に就いた。庭園の一角、八歳になる皇太女ラチェリーナが、画板の上の紙に何かを描いている。ギュンターは定位置から、それを遠目に眺めていた。


二度目の夜のことが、ふと頭をよぎった。あの夜から十月後に、殿下は生まれた。


考えるな、と自分に言い聞かせる。不敬にも程がある。何度もそうやって打ち消してきたはずの思いだった。だが今日も、それは音もなく頭をもたげ、そしてまた、いつものように、彼は何も言わずにそれを押し込めた。


庭園の風が、皇太女の描いた絵の端をわずかに揺らした。ギュンターは視線を前に戻し、警護の姿勢に戻った。


---


義勇兵募集の告示を見たのは、それから間もなくのことだった。


大公国への派遣。志願制。階級・所属を問わず。現役軍人であれば帰還後の復職を担保する――そう記されていた。復職が保証されているということは、志願する者にとって失うものは、命以外には何もないということでもあった。


ギュンターは告示の前に立ち、しばらく動かなかった。


実戦経験は、まだない。もし前線で指揮を執ることになれば、部下に死ね殺せと命じる立場になる。今の自分に、その覚悟があるのか。戦場はもちろんのこと、国境はおろか、この穏やかな温室のような帝都の勤務しか知らない自分に。


その自問が、ここ数日胸の内でくすぶっていたものと、静かに結びついた。新聞記事、酒席の一言、立ち消えになった異動、持ってはいけない疑念。どれも別々のはずだったものが、告示の前に立った瞬間、初めて一つの形を取った。


誰かに背中を押されたわけではない。ギュンターは、自分の中だけでそれを組み立てた。


---


その夜、ギュンターは机に向かい、辞表を書いた。


「一身上の都合により、近衛連隊付参謀少佐の任を辞したく、ここに願い出るものであります」


書くべきことは、それだけで十分だった。ただ、一枚を書き終えるまでに、いつもより長い時間を要した。文字は、いつも以上に整い、乱れがなかった。


筆を置き、便箋を封じる。反抗心という言葉は、たぶん正しくない。もっと控えめな――。

陛下への敬愛は、何一つ変わらない。ただ、生まれて初めて、彼女の目の届かない場所に、自分の意志で出ようとしていた。


封蝋ふうろうを落とし、ギュンターはそれを文箱に収めた。



2


六月のその朝も、エカチェリーナは七時前に机についていた。窓の外、庭園の若葉が六月の光を弾いている。黒のドレスの袖口で金の刺繍がひとすじ光り、ペン先が書類の上を規則正しく滑っていった。


最初の数枚は、いつも通りだった。人事の承認、予算の決裁、外交文書への署名。その中に、大公国向けの軍需物資貸与――帝国製の兵器・弾薬の供与を正式に認可する一枚が混じっていた。読み、印を押す。それだけのことだった。


---


義勇兵名簿が回ってきたのは、その少し後だった。


志願者の氏名が、所属・階級・出自を添えて、事務的な書式で並んでいる。帝国軍将兵は幾人か。退役、予備役の名もあったが、その他の多くは見知らぬ名だった。平民の次男、傭兵くずれ。私は指でなぞりながら、機械的に目を通していった。


その指が、ある一行で止まった。


近衛連隊付参謀少佐 ギュンター(依願退官)


指が、動かなくなった。


頭の中が、一瞬、真っ白になった。指先どころか、腕の先まで力が入らない。あの朝と、同じだった。異動令の一枚を目にしたときと。


だが。


あのときの行き先は、国境要塞だった。実戦のない、平時の国境警備任務。長くても二年もすればまた異動になる。それでも、指が勝手に「却下」の一字を書きつけた。


今度は、戦場そのものだ。現に交戦中の、それも絶望的な防衛戦を繰り広げている戦場。


あのときは、辞令はまだ紙の上のこと、そして彼は私の部下だった。今は――彼自身が、皇帝の目の届かない場所で、皇帝たる私の許しを待たずに、既に決めてしまっている。辞表を出し、志願した後で、この名簿は私の机に届いている。


(却下する理由が、どこにもない)


止めたい理由なら、いくらでもある。止める権限は、どこにもない。


(皇帝が、一介の志願兵の進退に私情を挟むことなど、できるはずがない。……できるはずがないのに。……でもいっそ泣いて乞えば彼は留まってくれるだろうか)


手が、紙の上で震えた。


---


「陛下」


アデルの声に、私はびくりと我に返って顔を上げた。書記官はいつも通りの、沈着な表情でそこに立っている。


「義勇兵名簿の件、何か確認事項でも」


「……いいえ」


答えられるまでに、間が必要だった。アデルの目が、怪訝そうに細くなる。だがそれも一瞬のことで、すぐに彼女はいつもの表情に戻り、一礼して次の書類を差し出した。同じ束の中には、彼の辞表も紙一枚、無造作に挟まれていた。


---


私は、まず辞表に受理の印を押した。続けて、名簿の末尾にも同じ印を押す。乾いた音が二度、静かな執務室に短く響いた。


帝国陸軍少佐ギュンター、依願退官を許可する。同、義勇兵として大公国への派遣を許可する――手続きは、それだけのことだった。当然の決裁。他の将兵と、何一つ変わらない扱い。


「大公国への物資輸送手配は、来週中に」とアデルが確認する。


「ええ、進めてください」


声は、いつも通り穏やかに出せた。表情も、崩れていなかったと思う。


---


アデルが退出し、執務室に静けさが戻った。窓の外、六月の陽光が黒いドレスの金の縁取りを照らしている。私はしばらく、動けなかった。


ふと、九年前のあの朝が過ぎった。


当時の陸軍大臣ヴィクトルに、「近衛再編戦略特別委員会の委員長に内定」と、口から出任せを並べた朝。あれ以来、軍が彼の異動案をこの机に持ち込んだことは、一度もなかった。


(そうか)


誰も、皇帝が名指しで重用すると告げた人材に、迂闊うかつに手を出そうとはしなかった。命じた覚えはない。ただ、九年前のあの一言が、静かに彼の周りへ壁を築いていた。


(私が、閉じ込めていたのね)


私は彼を守ったつもりになっていた。……いや違う。あの時、私が守ったのは私自身だ。私を守るための壁が、彼の檻になっていた。

彼が、辞表を書き、私の手のひらを飛び出して、戦場という最も危険な場所を自ら選んだ理由の少なくとも一端は、私にある。


(ごめんなさい)


詫びる相手は、この部屋にいない。


(ギュンター――)


私は次の書類に手を伸ばした。いつも通りの皇帝の顔で。


午前の執務は、まだ半分も終わっていなかった。


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