第7話 才能の在処 帝国暦223年9月
朝の決裁は、九時前に片づいた。
窓の外、初秋の陽が庭園の木々を淡く染めている。エカチェリーナは書類を閉じ、ペンを置いた。
「アデル。今日は、あれの日です」
呼び鈴も鳴らさぬうちに現れたアデルは、心得たように一礼した。四十代の長身の書記官は、この皇帝の数少ない道楽——毎年この時期に行われる文武登用試験の採点所へ、身分を隠して赴くという奇習——を、即位の翌年から知っている数少ない一人だった。
「馬車の支度を。いつもの装いで」
「畏まりました」
小一時間後、エカチェリーナは黒でも金でもない、地味な灰褐色の外套を纏い、髪を布で覆って、帝都南郊の採点所へと入っていった。門番は、彼女の顔など一顧だにしない。宮廷から派遣された下級の監査書記——「マルタ」という、どこにでもいそうな名の、どこにでもいそうな女。それが、今日の彼女だった。
(今年も、来てしまったわね)
執務室の椅子に座っている限り、彼女は皇帝以外の何者でもいられない。だがこの一日だけは違う。名もない一人の書記として、誰の答案でも自由に手に取ることができる。
採点所は、紙とインクの匂いに満ちていた。長机に積まれた答案の山を、十数名の採点官が黙々と繰っている。今年の受験者は三百を超えた。武官志望、文官志望、それぞれの科目——軍略、法学、経済、そして外交。答案は受験番号だけで綴じられ、名は伏せられている。公正を期すための慣例だった。
エカチェリーナ、いや「マルタ」は、上位の束には手を出さなかった。優秀な答案は、放っておいても誰かの目に留まる。彼女が求めるのは、その逆——「可もなく不可もなく」と機械的に振り分けられ、二度と誰にも読まれることのない、下位の束だった。
(まだ磨かれていない原石は、たいてい、こっちに埋もれているものだから)
一枚、また一枚とめくっていく。軍略の設問への答えは、教本の丸写しのような月並みな内容ばかり。法学も、大同小異。飽きかけた頃、四十三番の答案の、外交の設問にさしかかった一節で、彼女の指が止まった。
設問は、こうだった——「国境を接する二国が同時に事を構えた場合、いずれとも同盟なき第三国は、いかなる方針を取るべきか論ぜよ」
大半の受験者は、判で押したように「中立を守るべし」とだけ書いて終わっていた。だが四十三番の答案は違った。中立を「守る」のではなく、中立という立場そのものを、両国それぞれに対する交渉材料として使い倒す道筋を、簡潔に、しかし過不足なく書き切っていた。どちらの国に、何を、いつ譲れば、どちらからも恨まれずに実利だけを引き出せるか——若さに似合わぬ、冷え切った腑分けだった。
他の設問への回答は、お世辞にも良くない。軍略も法学も、平凡以下と言っていい。だからこそ、採点官はこの答案全体に「可」の判を押し、素通りしていた。
(誰も、見ていない。この一節の値打ちに)
エカチェリーナは、答案の束の端に記された受験番号を、そっと諳んじた。四十三番。
登録簿と突き合わせるのに、時間はかからなかった。
四十三番、テオドール。西部辺境、伯爵家ですらない、男爵位に届くかどうかの小貴族——その三男。地方の学問所で学んだのは、せいぜい十四、五までのはずだ。軍略や法学の設問に弱いのは、道理だった。碌な教本も、師も、与えられなかったのだろう。だが、外交という一科目だけは、机上の本ではなく、恐らくは彼自身の目と頭だけで磨いた考え方だった。
(学ばせれば、伸びる。……いいえ、学ばせずとも、ここまで来た子よ)
その日の午後、結果発表を待つ受験者たちの群れの中に、彼女は彼を見つけた。他の若者たちが仲間内で答え合わせに興じる輪から、少し離れた場所に、一人立っていた。痩せた体躯に、仕立て直しの跡が見える上着。緊張しているというより、ただ静かに、結果を待っている——そんな佇まいだった。
「四十三番の方?」
マルタ《エカチェリーナ》の声に、テオドールは驚いたように振り向いた。
「は、はい。……何か、不備でも」
「いいえ。控えの確認です」エカチェリーナは軽く答案の写しを掲げて見せ、それから、ふと付け加えた。「外交の設問、面白い書き方をなさったのね。中立を『守る』のではなく『使う』、と」
テオドールの目に、驚きと、わずかな警戒がよぎった。答案に感想を述べる採点補佐など、聞いたことがなかったのだろう。
「……あれは。ただ、両国を天秤にかけて眺めれば、自然とそう見えただけで」
「他の科目は、あまり振るわなかったようだけれど」
「恥ずかしながら。軍略も法学も、まともに学ぶ機会がありませんでしたので。……外交だけはと、独学で、なんとか」
言葉を選びながらも、卑屈な色はなかった。恥じてはいても、言い訳はしない。エカチェリーナは、ほんの少しだけ、興味をそそられた。
「では、伺うわ。もし——今の答えに、もう一つ条件を足すとしたら。片方の国が、既にあなたの国に密使を送っていて、内々に借りを作ってしまっていたら?」
不意打ちの問いだった。テオドールは数瞬、黙り込んだ。それから、慎重に、しかしはっきりと言葉を継いだ。「その場合は……借りの存在自体を、もう一方の国にも薄く匂わせます。隠し通そうとすれば、いずれ露見した時に両方から疑われる。先に、加減をつけて見せておけば」
(——見事ね)
即興でここまで組み立てられる者は、そういない。エカチェリーナの胸の内に、久しく忘れていた種類の高揚が灯った。飾らず、値踏みもせず、ただ純粋に、頭一つで渡り合う——こんな会話を、最後にしたのはいつだったか。
(こんなふうに話せるのは……ずいぶん、久しぶりね)
「良い答えだわ」彼女は静かに言った。「精進なさい。……あなたのような目を持つ人が、埋もれたままなのは、帝国にとって惜しいことだから」
テオドールは、その言葉の意味を測りかねるように、頭を下げた。「いえ……恐れ入ります」
帰りの馬車の中、エカチェリーナは外套の布を外し、短い黒髪を指で軽く整えた。窓の外を流れる帝都の街並みを眺めながら、彼女は静かに息を吐いた。
(四十三番、テオドール。地方の文書室あたりが、順当な配属になるでしょうね)
平凡な成績である以上、今回は目立った処遇にはならない。だが、それでいい。今すぐ引き上げれば、なぜ皇帝がその名を知っているのか、いずれ誰かに勘繰られる。才能は、腐らぬように、しかし急がず、然るべき時に、然るべき場所へ動かせばいい。
(何年かかっても構わない。見つけた芽を、私が忘れさえしなければ)
心の中の名簿に、また一つ、名前を書き加えた。この名簿は、誰にも見せたことがない。大臣にも、アデルにさえも。彼女一人だけの、密やかな道楽の記録だった。
馬車が皇宮の門をくぐる頃には、灰褐色の外套は膝の上に畳まれ、エカチェリーナの背筋には、いつもの皇帝の姿勢が戻っていた。侍従が扉を開け、深く一礼する。
「陛下、お帰りなさいませ」
「ええ。——さて、午後の執務を始めましょうか」
その声には、もう「マルタ」の面影はどこにもなかった。だが、心のいちばん奥、誰にも見せない引き出しの中には、今日拾い上げた小さな光が、確かに一つ、灯っていた。
了




