第6話 飢饉の算盤 帝国暦221年10月
1
執務室に差し込む朝陽は、夏のそれとはもう別物だった。庭園の落葉樹が橙と赤に染まり、帝都の空気は朝からすでに冷え切っている。エカチェリーナはいつものように七時前に席につき、金のアクセントが光る黒のドレスの袖を軽く整えながら書類の山に向かっていた。
最初の数枚は例によってルーティンだった。高級文官・軍人の人事、予算の承認、外交文書への署名。ペンを走らせる手は止まらず、押印の音が静かな室内に短く響いては消える。
問題の書類は、七枚目だった。
差出人は帝国西部ハーベル州知事。
エカチェリーナは読み進めるうちに、ペンを置いた。
今年の初夏から続いた旱魃により、ハーベル州の穀物収量は例年比三割を割り込んだ。このまま推移すれば、州民の一割が食糧不足に陥ると試算され、来春には飢餓による死者が出るとみられる。州の備蓄は底をついており、帝国による支援を要請する——
文面を二度読み返し、書類を裏返した。そのまましばらく、窓の外を眺めた。
(三割以下か。もう時間がない)
問題は単純ではなかった。帝国の備蓄穀物は今年春、北方の洪水対応に大半を投じていて、備蓄量の充分な回復には数年を要する。今ある量を全部放出したとて量が足りない。近隣域内で調達できればいい——だが、そこに第二の問題がある。
エカチェリーナは引き出しから、先月届いていた別の文書を取り出した。ハーベル州を含む帝国西部三州を管轄するドルンヘルツ公コーネリアの、年次財産報告書だ。穀物備蓄の欄を、指でなぞる。
三万石。
凶作を見越してじわじわと買い進めていた痕跡が、数字の推移に滲んでいた。
(先を読んでいたのね。あるいは意図的に情報を掴んでいた。……どちらにせよ、やることが上手い)
内心で相手への敬意に似たものを感じながら、エカチェリーナは次の計算に入った。
ドルンヘルツ公は帝国西部に盤石な影響力を持つ。彼女の一族は周辺五家の筆頭であり、三州の地方行政は事実上、彼女の意向なしには回らない。強制収用を命じれば、法的根拠は辛うじて作れるかもしれない——しかし帝国全土の貴族への信号としては最悪だ。「皇帝は非常時に貴族の財産を没収する」という前例ができれば、次の危機のときに誰も余剰を蓄えなくなる。長期で見て、帝国を弱くする。
放置すれば、春までに人が死ぬ。力で押せば、百年の禍根を残す。
(両方、論外ね)
エカチェリーナは立ち上がり、窓際に歩み寄った。帝都の朝が冷たく澄んだ光の中に広がっている。庭園の枯れかけた木々を眺めながら、彼女は静かに考え続けた。
ドルンヘルツ公が売らない理由は明白だ。凶作が深刻になるほど穀物の値は上がる。今手放せば一石あたり六リブラのものが、雪解け頃には二倍三倍になる。彼女は算盤を弾いている。それが大公爵として当然の経済行動だと信じながら。
(飢えた民を担保に、価格を吊り上げる気でいる。それが彼女の算盤)
ならば、その算盤を狂わせればいい。法律を一字も変えずに。
窓から離れ、机に戻った。紙を一枚取り出し、短い覚え書きを走り書きする。それから呼び鈴を鳴らし、現れた侍従に穏やかに告げた。
「財務大臣と宮廷首席書記官をここへ。それと——帝都の穀物相場と、帝都近郊三州の今年の収穫見込みを調べさせなさい。昼食前に」
2
侍従が退いてから二時間後、財務大臣ルートヴィヒと宮廷首席書記官アデルが並んで姿を現した。
財務大臣は五十過ぎの丸顔の小柄な男で、数字を扱う才に長けているが、政治的な腹の読み合いはどちらかといえば苦手とする。宮廷首席書記官アデルは対照的に、四十代の長身で沈着な女性だ。皇帝が何を求めているかを、言葉の半分が出た時点で察する。エカチェリーナが信頼する数少ない側近の一人だった。
二人が着席するのを待って、エカチェリーナはハーベル州の報告書を机の上に広げた。
「ハーベル州の凶作の報告は、お二人もお読みでしょう」
「はい。ただ、帝国の備蓄からの支援は」とルートヴィヒが早口に言いかけた。「今年の北方対応で、西部向けに回せる量は限られており……」
「存じています」
エカチェリーナは穏やかに遮った。ルートヴィヒが口を閉じる。
「備蓄からの支援は補助程度にとどめます。主たる手当は域内で——」彼女はドルンヘルツ公の財産報告書を重ね、二人の前に置いた。「ここに三万石があるということです」
ルートヴィヒが数字を見て、わずかに目を見開いた。アデルは表情を変えない。
「ドルンヘルツ公の備蓄ですね」と、アデルが静かに言った。
「ええ」
「強制収用は」
「しません」
即答だった。アデルは軽く頷いた。ルートヴィヒはきょとんとした顔のまま二人を見比べ、やがて「では、どうなさるおつもりで」と尋ねた。
エカチェリーナは机の上の覚え書きに目を落とした。
「大臣、帝都近郊三州の余剰収穫を、帝国が買い上げます。ただし、帝国の名は出さぬように。いくつかの商会を通じて、これから数週間かけて少しずつ買い進めさせなさい。一度に大きく動けば、相場が跳ね上がります」
「秘密裏に、ということでございますね」ルートヴィヒは慎重に確認した。「かしこまりました。……十分な量が集まりましたら」
「帝都市場へ一気に放出します」
「一気に……」ルートヴィヒの顔に、ゆっくりと理解が広がった。「相場が下がる」
「凶作の報が流れていても、大量の穀物が市場に出れば心理は動く。コーネリアは今、春まで待てば大きく儲けられると計算している。その前提を崩す」
「なるほど……しかし、それだけでは」ルートヴィヒは言いかけて止まった。
「彼女が売るとは限らない、とおっしゃりたいのでしょう」エカチェリーナは穏やかに先を取った。「そうね。財力のある彼女が持ちこたえれば、相場はやがて戻る。だから——もう一手、必要です」
二人の視線が、皇帝に集まった。エカチェリーナは覚え書きの最後の一行に目を落とし、静かに続けた。
「アデル、帝国功績叙勲の規程集を手配してください。明日の朝までに」
首席書記官は一瞬だけ目を細め、それから深く一礼した。何かを理解したようだった——少なくとも、問うべきではないことを。
(コーネリア、あなたに選ばせてあげましょう。英雄になるか、それとも守銭奴になるか)
3
翌朝、アデルが叙勲規程集を持参したのは七時半だった。
革張りの分厚い冊子を受け取り、エカチェリーナは黙ってページを繰り始めた。
帝国功績叙勲の体系は、最高位の「帝国双頭鷲章」から始まり、それ以下は大きく四つに分かれる。軍事、学術、芸術、そして民政。
(あった)
彼女の指が、一箇所で止まった。
民政特別功績章の規程を読む。「帝国の民政に著しく貢献した個人または団体に、皇帝の裁量により授与される」とある。授与の条件は皇帝の判断に委ねられており、受章者の身分にも制限はない。そして重要なのは——授与を「予告」することを禁じる条項が、どこにも存在しないという点だ。
(使える)
エカチェリーナは規程集を閉じ、アデルを見た。
「一つ確認させてください。帝国功績叙勲の授与予定者を、授与前に公表することは規程上いかがでしょう」
「禁じる条項はございません」アデルはすでに答えを用意していたように淀みなく言った。「ただし、慣例としては授与と同時の公表が一般的です」
「慣例ね」
エカチェリーナは静かに繰り返した。慣例は破れる。規程さえ外れていなければ。
「では、こういう形はいかがでしょう」
机の上に紙を広げ、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「飢饉への対応に際して、帝国として西部貴族の自発的な協力を期待している——という書簡を、コーネリアに送ります。内容は、彼女への賞賛と信頼の表明です。帝国の礎たる西部の大公爵家が、かかる国難にあって民草を思う判断をされるものと確信しております、と。そして末尾に、そのような行いは帝国として然るべき形で顕彰したいと考えている、と一行添える」
アデルは少しの間、何も言わなかった。
「……公的な圧力には、なりませんね」やがて彼女は言った。「命令でもない。強制でもない」
「ええ。あくまで皇帝からの、信頼の表明です」
「しかしドルンヘルツ公は、断れない」
「断ることはできます」エカチェリーナは穏やかに答えた。「ただ——皇帝が公爵の名誉にかけて信頼を表明した後で断れば、それは彼女自身が選んだことになる。英雄の名を蹴って、守銭奴の名を取ると、彼女が判断したということです」
アデルはしばらく沈黙し、それから「もう一点よろしいですか」と静かに切り出した。
「この書簡は、公開されるのでしょうか」
「帝国公報に掲載します。帝都と、ハーベル州周辺の主要都市にも配布されるものです」
アデルの表情が、ほんのわずかだけ動いた。
(わかっているわね。書簡が公開されれば、コーネリアの周囲の全員が知ることになる。領民も、近隣の貴族も、取引相手の商人も。皇帝に信頼を表明された後で穀物を抱え込む公爵を、誰もが目撃することになる)
「書簡の草稿を、今ここで」とエカチェリーナは言った。「一緒に考えましょう」
4
草稿は三十分ほどで形になった。
書簡の文面は、表向き穏やかな賛辞で満たされていた。ドルンヘルツ公爵家の帝国への長年の貢献。西部三州の安定を支えてきた卓越した統治。そして「かかる難局においても、公爵のご見識は帝国全土の範となるものと疑いなく信じております」という一文。
末尾の一行は短かった。
——このたびの民政への貢献に対し、帝国は速やかに然るべき顕彰をもって応える所存でございます。
読み返し、エカチェリーナは「速やかに」という副詞をもう一度なぞった。
(急いであなたを褒め称えたい、という意味にも読める。でも——速やかに公になる、という意味にも読める)
言葉は両刃だ。どちらの刃が立つかは、読む者が決める。
「アデル、清書をお願いします。それと——この書簡の写しは、コーネリアへの送付と同日に帝国公報へ回しなさい。一日の差もなく」
「畏まりました」
アデルが退出した後、エカチェリーナは窓の外に目を向けた。十月の帝都は、午前の日差しの中でひっそりと冷えている。
十一月のある日。市場への穀物放出は、この日の午後から始まる手はずだ。相場が崩れるのに三日はかかるまい。書簡がドルンヘルツ公の元に届き、公報が帝都に出回るのが、さらに二日後。
(相場が崩れた頃に、書簡が届く。タイミングは悪くない)
待つ利が薄れた瞬間に、断れば名誉が消える。二つの手が、同時に届く。
(コーネリア、あなたに残るのは一つだけよ)
エカチェリーナは次の書類に手を伸ばした。顔には何も出ていない。午前の執務は、まだ半分も終わっていなかった。
5
五日後。
帝都の穀物相場は、市場放出が始まってから三日で大きく動いた。凶作の報に支えられて高止まりしていた価格は、帝国買い上げ分の一斉放出によって崩れ、一石あたり六リブラあった相場は四リブラを割り込んだ。商人たちは右往左往し、抱え込んでいた小売業者が損切りのために売りに走り、それがさらに値を押し下げた。
財務大臣ルートヴィヒが上気した顔で執務室に駆け込んできたのは、五日目の朝だった。
「陛下、相場が——」
「存じています」エカチェリーナは書類から顔を上げずに答えた。「三リブラを割りましたね」
「は、はい。商人たちは春まで待っても値は戻らないと見始めております。むしろ帝国が放出を続ければ、さらに下がると」
「続けるとは、言っていないのですけれど」
エカチェリーナはペンを置き、わずかに微笑んだ。
「市場は、こちらの手の内まで読めません。次にどれだけ放出するか、いつ止めるか——それを知らない者にとって、目の前の下落だけが現実です。みな、それぞれの算盤を弾く」
ルートヴィヒは何か言いかけ、やがて言葉を呑んだ。彼にも、ようやく全体の形が見え始めていた。
「ドルンヘルツ公への書簡は」
「同じ日に届いているはずです。公報も、もう出回っているでしょう」
エカチェリーナは窓の外に目を向けた。
(さあ、コーネリア。あなたの算盤は、もう合わなくなったはずよ)
春まで抱え込んでも値は戻るかどうかわからない。むしろ帝国がさらに放出すれば、三万石は塩漬けの不良在庫になる。今売れば三リブラ。買い進めた値を考えれば、損は出る。けれど——飢えた民を見殺しにした守銭奴という汚名を、皇帝の賛辞を蹴った形で背負い込むよりは、はるかに安い。
そして、もし売れば。
民政特別功績章。皇帝直々の顕彰。西部の公爵家の名声は、傷つくどころか帝国全土に轟くことになる。損して名を取る——いや、損も大したことはない。名は計り知れない。
(あなたは賢い人だもの。どちらが得か、すぐにわかる)
---
返書が届いたのは、その三日後だった。
アデルが封蝋を確認し、銀の盆に載せて運んできた。エカチェリーナは封を切り、ドルンヘルツ公の流麗な筆跡に目を通した。
——皇帝陛下より過分なるご信頼を賜り、恐悦至極に存じます。かねてより西部の民の窮状を案じておりましたところ、このたび当家備蓄の穀物三万石を、帝国の救恤事業に供する決意を固めました。値については帝国のお定めに従い、いかようにも。一人でも多くの民が冬を越せることのみを、願っております——
エカチェリーナは最後まで読み、書簡を静かに机に置いた。
「三万石、全量。値はこちらの言い値で結構、ですって」
アデルが小さく頷いた。「相場の三リブラを下回る額でも、おそらく」
「ええ。帝国の救恤事業への『寄進』に近い形にしたいのでしょう。安く売るほど、献身が際立ちますから」
エカチェリーナは返書の最後の一行をもう一度なぞった。「一人でも多くの民が冬を越せることのみを、願っております」——美しい一文だった。
(見事ね、コーネリア。あなたは負けを認めたのではなく、勝ちに行った。守銭奴の汚名を、英雄の栄誉に変えてみせた。私の用意した二つの選択肢の、より良い方を、自分の意志で選んだ顔をして取った)
それでいい。それがいちばんいい。彼女が自ら選んだ形にしておけば、恨みは残らない。皇帝に屈したのではなく、皇帝と共に民を救ったのだ——そういう物語を、ドルンヘルツ公は今後も語り続けるだろう。
法律は、一字も動いていない。強制収用の前例も作られていない。皇帝は誰の財産も奪っていない。ただ、一人の公爵が、自らの意志で民のために穀物を供出した。それだけだ。
「ルートヴィヒ大臣に伝えなさい。コーネリアの供出分は、ハーベル州への輸送を最優先で。それと——市場への追加放出は、今日で打ち切ります。相場をこれ以上崩してはなりません」
「畏まりました」アデルが一礼する。
「叙勲は」と書記官が静かに付け加えた。
「予定通り行います」エカチェリーナは即答した。「予告した以上、必ず授ける。皇帝の言葉に、嘘があってはなりません」
(一行の賛辞も、末尾の約束も、すべて本当にする。だからこそ、言葉は重い。空手形を切る皇帝の言葉なら、誰も恐れはしないもの)
アデルが退出し、執務室に再び静けさが戻った。
エカチェリーナは窓辺に立ち、帝都の午後の空を眺めた。冬が、もうすぐそこまで来ている。ハーベル州の村々に、雪が降る前に穀物が届くだろう。来春までに死ぬはずだった人々の、おそらく大半が、冬を越す。
(一人も、強いてはいない。一銭も、奪ってはいない。誰の名誉も、傷つけてはいない)
彼女は静かに息を吐いた。
(ただ、算盤をひとつ、置き換えただけ)
飢えた民を担保にした算盤を、名誉を賭けた算盤に。ドルンヘルツ公が後者を選ぶことは、最初からわかっていた。賢い人間は、必ず得な方を選ぶ。だから、得な選択肢の中身を入れ替えてやればいい。彼女が選ぶべき答えが、こちらの望む答えと一致するように。
力では、押していない。だが、必ず通るようにした。
エカチェリーナは窓辺を離れ、机に戻った。次の書類に手を伸ばす。顔には、いつもの落ち着いた皇帝の表情が戻っていた。
午前のうちに、まだ片づけるべき決裁が残っていた。
(さて。新しい人材は、どこにいるかしらね)
ペンを取り、彼女は静かに書類の山に向かった。冬の陽光が、黒いドレスの金の縁取りを、淡く照らしていた。
了




