第5話 休日の難事件 帝国暦220年早春
皇宮西翼、私の私室には、執務室とはまるで違う穏やかな空気が流れていた。
週に一度の休日、と言っても書類仕事がないだけで、午後からはいくつか謁見があるが、とまれ、今このときばかりは、書類の山も、大臣たちの探るような視線もない。窓から差し込む朝の陽光が、絨毯の上に長い影を落とし、侍女が淹れてくれた紅茶の湯気が、仄かな芳香とともに窓辺で緩やかに立ち昇っている。
対面の小卓では、六月で三歳になる娘のラチェリーナが、小さな手に太いパステルを握りしめて紙に走らせていた。
ああ、こんな時間が永遠に続けばいいのに、とティーカップに口をつけた瞬間。
静けさを、常より間隔の詰まったノックが破った。
「陛下、アナスタ――」
「お姉様おはよう」
侍従の口上が終わるより早く、扉が勢いよく開いた。皇宮広しといえど、これほど形式を無視して押し入ってくる人間は一人しかいない。
現れたのは、四歳下の妹、アナスタシアだった。平民の男が着るようなシャツに、膝上まで切り詰めた乗馬ズボンという出で立ち。汗ばんだ額の下、後ろで無造作にくくった髪が揺れている。背中まで届くふわふわとしたくせ毛のブロンドは、私の黒髪とは正反対。優しげで柔らかな目元も、やや低めの身長も、引き締まった筋肉質の体躯も、姉の私とはあらゆる意味で対照的だった。
成人してからは、軽々に帝都を離れること叶わぬ私の名代として、地方の視察や式典への参加に帝国中を飛び回ってもらっていて、その飾らぬ言動は、平民にはずいぶんと人気があるとかないとか。
だが皇宮にいる日の朝夕は、このような格好で走り込む。幼い頃から走ることを好み、世話役や侍女に「はしたない」とたしなめられてもスカートの裾をボロボロにしながら一向にやめず、そのうち中庭に専用の走路を作らせ、挙句の果てに可搬式の柵をいくつも並べて飛び越えながら走るに及んで、口うるさい面々も匙を投げた。
「今日も走ってきたの?」
「ええ、お姉様もたまには走ればいいのに」
しないわよそんなこと。
妹はソファに遠慮なく腰を下ろすと、娘の絵を覗き込んだ。紙の上では、なにやら丸と線が絡み合っている。人の顔のようにも見えるがまだ判然としない。
「今日の警護はギュンターだったの。相変わらず飛ぶような速さですね、って褒めてくれたのよ」
私も中庭に下りていけばよかった。
「先月もね、リンデンブルク市の視察の随行がギュンターで――」
対照的な妹だけど、男の好みだけは一緒だった。
「石畳が荒れてて、ちょっと馬車に酔ってしまったらギュンターが――」
娘の顔を間近で見ながらギュンターの話をするのはやめてくれないかしら。
「市役所にある大きな絵を見ながらギュンターったら――」
娘が、紙を緑色で塗りつぶしている。
「市長の長すぎる話にはギュンターも――」
娘がようやく紙から手を離して、得意げな顔でこちらを見ている。キャベツかしらね。
「あら、ナターシャね! 上手よ、ラチェリーナ」
なんで分かるのよ。
「そういえばお姉様、これは秘密なんだけど、ついこの前の夜会でギュンターに――」
「良いからシャワーを浴びてきなさい。ちょっと汗臭いわよ」
聞きたくない話な気がしたので、アナスタシアを私室続きのシャワールームへと押しやった。妹は「まだ話の途中なのに」と不服そうな声を上げながらも、案外素直にそちらへ向かっていく。
扉の向こうで水音が響き始めるのを聞き届け、小さく息をついた。静けさが戻った部屋で、娘はまた新しい紙に手を伸ばしている。
緑の塊を、もう一度見つめた。塊の横の杖?が、ナターシャの三つ編み、と言われれば、たしかにそう………………見えないわよどうやったら人に見えるのよこれ?
窓の外では、午前の陽光が変わらず穏やかに降り注いでいた。皇帝の一週間の中で、もっとも判定の難しい案件が、今、目の前の小卓に置かれている。
了




