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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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【R15】第4話 神の思し召し 帝国暦216年8月

1


朝日がカーテンの隙間から差し込む寝室のベッドから、一人で起き上がったエカチェリーナは、黒の絹ドレスに金のアクセントを纏い、鏡の前に立っていた。帝国暦216年8月。7人目との夜からちょうど二ヶ月が経っていた。妊娠の兆候を見極めるため、これまでの関係もおおむね二ヶ月間隔で設けていたが、やはり結果は同じ。身ごもらなかった。


彼女はため息をつき、ベッドの端に腰を下ろした。あの七人――穏やかな同い年の彼、子供の頃から変わらず厳格で丁寧な先生、体力自慢の大尉、慕わしい従兄さま、熟練の女たらし、童貞の新任文官、そして優しいおじさま――それぞれの腕の中で、確かに悦びは知った。だが心の底から満たされることは、ついぞなかった。


ギュンターに処女を与えたあの夜――1年以上前、即位の記念と称して彼を寝室に呼んだあの瞬間――の記憶が、鮮やかに蘇る。あのときの充足感、魂まで満たされるような満足は、7人の誰からも得られなかった。胸が締め付けられる。初恋。誰にも言えない、墓まで持っていくはずの秘密。幼い頃から皇宮で一緒に過ごした彼の笑顔、誠実な眼差し、真面目で、でも、実は一番優しいところ。あの夜、彼女は心の底から満たされた。あれが本物だったのだ。


夜ごと、満たされない想いだけが募った。


エカチェリーナは小さく笑った。馬鹿みたい。自分の心をからかうように。懐妊のため、世継ぎのため――そんな大義名分を盾に7人も相手にしたというのに、結局は身ごもらない。神様は本当に意地悪だわ。いや、待って。もしかして、これは神の思し召し? 彼女は目を細め、窓の外の月を睨んだ。今年の初めの冷たい朝、執務室で陸軍大臣が持ってきた異動令。あの【中尉ギュンター 国境要塞への転属】という書類を、彼女は咄嗟に「却下」と書きつけ、皇帝の印を勢いよく叩きつけた。理由など何も考えず、指が勝手に動いた。後で大臣に追及され、慌ててその場しのぎのハッタリを連発して押し通した。あのときの冷や汗と、作り話の大きさに今でも苦笑いがこみ上げる。


でも今、こうして振り返ってみれば……あれこそ神の思し召しだったに違いない。異動を握りつぶしたのも、すべてこのための準備。7人の男たちとの夜も、結局は彼女を再びギュンターのもとに導くための試練だった。ふふ、完璧な理屈じゃないか。皇帝たる自分が、こんな強引なこじつけをするなんて、誰にも言えないけれど……心の中で大笑いだ。


胸の奥で、若い想いがギュンターを求めて叫んでいる。1年以上前に成就させて強引に封じたはずの初恋が、再び胸の奥で暴れ出す。懐妊のため、という口実を利用しようとするのを、もう押し留められない。押し留めようとする自分自身が、なんだか滑稽で愛おしい。鏡の中の彼女は、少女の頃のように頰を少し赤らめて微笑んでいた。


「ギュンター……」


名前を口にすると、声が甘く掠れる。彼女は立ち上がり、机に向かった。彼を呼ぶ。あの夜のように。


手紙を書き始めた。「少し良いブランデーが手に入ったので、今宵、味見に来られるお時間はありますか」封蝋を押し、侍従に渡す。胸がどきどきする。7人との夜を越えて、ようやく本当の夜が来る。若い彼女は、鏡に向かって小さく微笑んだ。


神様、ありがとう。異動を握りつぶしたのも、7人を相手にしたのも、全部あなたの思し召しよね? 上等よ。


日頃、魑魅魍魎がうごめく世界を生き抜く皇帝の目が不敵に輝く。


彼女は満足げに息を吐いた。これからの執務が、いつもより楽しみだわ。だって、夜が待っているのだから。



2


夜、皇宮西翼の応接間。柔らかな灯りが絨毯を照らし、琥珀の液体を湛える極上ブランデーの瓶がソファテーブルに華を添える。エカチェリーナは黒の絹ドレスを纏い、ソファに腰を下ろして待っていた。心臓の鼓動が、14ヶ月ぶりの夜を前に高鳴る。


扉の向こうから控えめなノックが響いた。エカチェリーナは立ち上がって深呼吸をし、穏やかな微笑みを作った。


「どうぞ」


ギュンターが姿を現す。黒の軍服に金色の肩章が映え、身長175cmの引き締まった体躯をまっすぐに立て、口上を述べる。


「陸軍近衛砲兵連隊、参謀中尉のギュンターです。陛下、お召しにより参上いたしました」


言葉に続く惚れ惚れするような鮮やかな敬礼に、エカチェリーナは心からの笑みを浮かべた。幼馴染みの彼が、一年前よりも更に立派に成長している。


「ギュンター。お疲れなのに来てくれてありがとうございます。どうぞ、座って」


エカチェリーナは対面のソファに座り、極上のブランデーを彼のグラスに手ずから注いだ。芳醇な香りが部屋に広がる。しばらく、昔話に花を咲かせた。皇宮で一緒に過ごした幼い日の記憶、剣術の稽古、庭園での隠れんぼ。ギュンターの声は低く落ち着いていて、彼女の胸を優しくくすぐる。だが、エカチェリーナはもう待ちきれなかった。7人の夜を越え、ようやくここに至ったこの瞬間。このまま、この時が永遠に続けばいいのに、と逃げようとする心をねじ伏せ、声を震わせて言った。


「ギュンター、その参謀飾緒もよくお似合いです。もっと近くで拝見しても?」


誘いの言葉に、ギュンターの瞳が揺れた。呼ばれたときから予感していた。久しく待ち望んでいたこの逢瀬。抑えきれない昂ぶりが、彼の胸を熱くする。

エカチェリーナの心も複雑だった。今度こそ、きっとこれが最後……今度こそ終わり。そうしなければ、私は彼に囚われてしまう。


「はっ。ではあちらで」


ギュンターはエカチェリーナの手を取り、応接間に隣り合う寝室へと向かった。互いの足音だけが響く。寝室に入るやいなや、室内で唇を重ねた。エカチェリーナは激しくギュンターを抱き寄せた。待ち焦がれたその感触に、彼女の心はすでに震えていた。


縋りつくように、彼女はギュンターの背に腕を回した。


この夜は、ただの義務ではない。私の最初で最後の恋の幕引き。これで本当に終わり――そう心に刻みながら、彼女はただ、その腕の中に身を委ねた。


燭台の灯りが落ち、月明かりだけが部屋に残った。


※――この先は、筆を置くこととする



3


窓の外、庭園の木々のざわめきだけが、夜更けの静寂を彩っていた。寝室の灯りはとうに落とされ、月明かりだけが薄いカーテン越しに二人を包んでいる。


夜は長く、二人はその長さを惜しむように過ごした。今度こそ終わりにする――そう繰り返し言い聞かせてきた自分の声が、次第に遠くなっていくのを、エカチェリーナは止められなかった。


すべてが凪いだ頃、エカチェリーナはギュンターの胸に頰を寄せた。安堵と呼ぶには、あまりに惜別の色が濃い感情だった。


「リーナ様……」


囁くような声に、彼女は答える代わりに、そっと彼の胸に顔を埋めた。しばらく、どちらも動かなかった。


寝息を立てるギュンターに後ろから抱きしめられたまま、彼女はそっと囁いた。


「これは、私だけの秘密」


皇帝の目から、雫が一つだけ、シーツに落ちた。



これより10ヶ月後、帝国暦217年6月、20歳となった第12代皇帝エカチェリーナは、後に皇太女となる女児、ラチェリーナ(Ратерина)を出産した。

女児の父親の名は、いかなる文献にも残されていない。



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