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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第3話 異動令 帝国暦216年1月

皇宮の執務室は、1月の冷たい朝陽が黒檀の机に淡く差し込むだけの静かな空間だった。エカチェリーナはいつものように、朝七時前に席につき、金糸の刺繍が施された黒のドレスを軽く整えながら、今日も書類の山に向かっていた。短めの黒髪を丁寧に整え、落ち着いた表情でペンを走らせる。彼女の仕事は重要事項の決裁と人事の指示に絞られていた。会議や謁見がなければ、昼食前には片づく。それが彼女の流儀だった。


「ふむ……今日も人材の配置が中心ね」


独り言のように呟きながら、陸軍関連の書類を機械的に一枚一枚めくる。趣味の人材探しは、こうした日常業務の中でこそ光る。帝国の将来を担う若き才能を見抜くのが、彼女のささやかな喜びだった。だがその手が、突然、ある一枚で止まった。


【陸軍近衛騎兵連隊所属、中尉ギュンター 国境要塞第三守備隊への転属】


日付は今月下旬。理由は「経験蓄積のための配置換え」。エカチェリーナの脳裏に、幼い頃の記憶が一瞬閃いた——皇宮で共に過ごした西方貴族の次男、誠実で真面目な少年の顔。だが考える間などなかった。指が勝手に動き、ペンを取り、書類の余白に素早く「却下」と書きつけ、皇帝の印を勢いよく押しつけた。捺印の音が、静かな部屋にゴンッと響く。ほとんど条件反射だった。まるで、危険な火花を咄嗟に踏み消すように。


(……え?)


エカチェリーナは自分の手元を見つめ、ようやく我に返った。却下印が、インクの匂いを放ちながら乾いていく。心臓が遅れてどくんと鳴った。


(何を……やってしまったの? ただのルーティン異動を、なぜ……)


頭の中で理由を探そうとするが、何も浮かばない。国境要塞など、確かに経験を積む場ではある。帝国軍の慣例に沿った配置換えだ。なのに、彼女の指は勝手に動いていた。胸の奥に、得体の知れないざわめきが残る。幼馴染として、ただ心配しているだけか。それとも……いや、今はそんなことを考える時ではない。半年前のあの夜以来、ギュンターとは一度も接触していない。未だ実を結ばないが、世継ぎのための関係は他で済ませ、彼女は皇帝として冷静に日々を過ごしていたはずだ。


(理由……どう説明すればいいの? 大臣に聞かれたら……)


途方に暮れたまま、彼女は書類を机の端に押しやり、次のものを手に取ろうとした。その瞬間、執務室の重厚な扉がノックされ、陸軍大臣ヴィクトルが恭しく入室してきた。六十を過ぎた白髪の老臣、常に軍服を完璧に着こなし、表情は厳格そのものだ。彼は毎朝の定例報告のため、書類を抱えて現れる。エカチェリーナは素早く顔を上げ、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。内心の動揺を、微塵も表に出さない鉄壁のポーカーフェイス。


「おはようございます、大臣。今日もよろしくお願いいたします」


「陛下、お早うございます。昨夜の会議の要点を……」


大臣は机に書類を置きながら、ふと視線を落とした。却下印の押された異動令が、目に入ったのだ。彼の眉がぴくりと上がる。


「これは……ギュンター中尉の国境異動令では? 陛下、なぜこれを却下なさったのですか?」


声にわずかな訝しさが混じる。エカチェリーナの背筋が、一瞬で凍りついた。内心では冷や汗が流れる。


(まずい……咄嗟に却下してしまったけれど、理由などまだ何も考えていないのに……)


彼女は深く息を吸い、落ち着いた口調を心がけながら、ゆっくりと口を開いた。表情は皇帝らしい威厳を崩さない。頭の中では必死に言葉を紡ぎ出す。


「ええ、確かに却下いたしました、大臣。あの中尉の異動は、帝国の利益に反するものだと判断したのです」


大臣は目を細め、書類をもう一度確認する。


「しかし、陛下。こう申しては恐縮ですが、たかが中尉の配置換えに、そこまでお気になさるとは……。国境要塞は経験を積むのに適した場所ですし、異動自体はルーティンです。なぜそこまで……?」


質問の矛先が、予想通り鋭く突き刺さる。エカチェリーナの脳裏に、幼馴染の顔が浮かんだ。あの誠実で、真面目な彼の笑顔。国境などに行かせて、万一のことがあったら……。だが、今はそんな感傷を振り払わなければならない。皇帝として、絶対に本音を漏らすわけにはいかない。ハッタリでもなんでも、かますしかなかった。


(……私の人材探しを、最大限に活かして。作り話でもいいから、納得させるのよ)


「大臣、誤解なさいませんように。あの中尉は、ただの中尉ではございません。私が長年、人材を探る中で見出した、極めて稀有な才能の持ち主なのです。国境要塞などという辺境に放り出すなど、帝国の損失に他なりません」


彼女は背筋を伸ばし、金のアクセントが光る黒のドレスの袖を軽く直した。声にわずかな強さを加えつつ、微笑みを深める。内心では「何を言っているの、私……」と自分を叱りつつ、顔は完璧に平静を装う。


「ご存じの通り、私は人材発掘を心がけております。あの中尉は、幼少期より皇宮で過ごした経験があり、戦略・戦術のセンスが並外れております。特に、近衛騎兵の新編成計画において、彼の視点は不可欠。国境へ行かせてしまえば、帝都防衛の要となる機密プロジェクトが滞ります。実は……先月、私が極秘に検討していた『近衛再編戦略特別委員会』の委員長に、既に内定させていたのですよ」


大臣の目が、わずかに見開かれる。エカチェリーナは勢いに乗り、即興で言葉を紡ぎ続けた。特別委員会の話など、話しながら思いついたばかりの出任せだったが、止まらない。止めるわけにはいかない。


「特別委員会……? 陛下、そのようなお話は初めて伺いますが……」


大臣の声に困惑が滲む。エカチェリーナは内心で「しまった、作りすぎた」と焦りながらも、笑顔を崩さない。むしろ、皇帝らしい落ち着きを強調して続ける。


「ええ、当然です。これはまだ極秘事項。あなたにすら、今日まで明かしておりませんでした。ギュンター中尉の馬術は、帝国軍随一。剣術の冴えも、銃の精度も、すべてが帝都の守りに直結するのです。国境要塞で埃を被らせるなど、勿体ない」


尚、エカチェリーナから見れば、馬も剣も惚れ惚れするようなものだったけれど、そういえば、唯一見に行けた士官学校時代の射撃大会で、彼が下から二位だったのを、言ってから思い出した。調子が悪かっただけよたぶん。


「むしろ、帝都に留め、直接私の監視下で育て上げるべき人材です。……それとも、大臣は私の目利きを、疑うおつもりですか?」


最後の言葉に、わずかに高圧的な響きを忍ばせる。部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


大臣は慌てて首を横に振る。


「い、いえ、そんなことは毛頭……。しかし、陛下、書類上はただのルーティン異動としか……」


「ルーティンなど、表向きのものです。帝国の未来を担う若者を、形式的に流すなど許されません。私は即位以来、適材適所を第一に掲げてまいりました。あの中尉を国境へやることは、まさにその原則に反する。……大臣、異動令は即刻撤回なさい。代わりに、近衛本部への留任を正式に命じます。分かりますね?」


エカチェリーナの声は穏やかだが、目には絶対の意志が宿る。内心では心臓がばくばくと鳴り、冷や汗が背中を伝う。ハッタリがここまで大きくなるとは、自分でも予想外だった。特別委員会? 内定? 全部その場しのぎ。どうするのよこれ? だが、皇帝の言葉は絶対。彼女の趣味である人材探しを前面に押し出し、戦略的意義を大げさに盛れば、大臣は逆らえないはずだった。


大臣は困惑した表情のまま、書類を再確認する。数秒の沈黙の後、ようやく深く頭を下げた。


「……畏まりました、陛下。ギュンター中尉の異動は、ただちに撤回いたします。陛下のご慧眼に、敬服申し上げます」


エカチェリーナは優雅に頷き、胸の内で大きな安堵の溜息を吐いた。


(よかった……。これで、ギュンターは帝都に留まる。国境の危険から守れる……。皇帝として、帝国の宝を守っただけよ)


顔には一切出さず、彼女は次の書類に手を伸ばした。声はいつもの落ち着いた調子に戻る。


「それでは、大臣。会議の要点をお聞かせください。帝国の未来のため、引き続き協力をお願いいたします」


大臣が退出した後、執務室に再び静けさが戻った。エカチェリーナはぐったりと背もたれに体を預け、窓の外に広がる帝都の景色をぼんやりと眺めた。冬の陽光が、黒いドレスに金色の縁取りを照らす。心の中では、幼馴染の顔が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。


(……これでいい。私の秘密は、誰にも知られていない)


常日ごろ、帝国を守り続けている皇帝の判断は、今日ばかりは皇帝自身の心を守った。

国境要塞への異動は、ただの紙切れとして、永遠に葬られた。


(ギュンターに会いたいなぁ)


僅かに数瞬だけ、皇帝の瞳が少女のそれに戻った。



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