第2話 初御前会議 帝国暦215年8月
1
戴冠式から六週間が経っていた。
帝国評議室は、正午の陽光が高窓から斜めに差し込む、重厚な空間だった。石造りの壁に帝国の紋章が掲げられ、楕円形の会議卓を囲む椅子が十二脚。最奥の一脚だけが、背もたれに金の縁飾りを持つ。そこに座るのが、帝国の頂点に立つ者の役割だった。
大臣たちは早めに着席し、互いに声を落として言葉を交わしていた。
財務大臣レオンハルト——六十を超えた肥満体の老臣で、帝国の金脈を三十年近く手中に収めてきた男。笑うと目が細くなり、笑っていないときでも目が細い。陸軍大臣ヴィクトル——白髪の厳格な軍人で、姿勢は完璧だが、その完璧さがかえって何かを隠しているように見える。内務大臣クラウス——四十代半ばの細身の男で、二つの派閥のどちらにも属さず、飄々として見えるが抜け目がない。その他五名の大臣と、壁際に控える書記官二名。
この会議の前夜、彼らの大半は別の場所にいた。
「陛下はまだ十八だ。執務にはお就きとはいえ、即位からまだ間もない。初めての御前会議で、議案の中身を深く問われるはずがない」
財務大臣がそう言い、複数の者が頷いた。根回しは完璧だった。議題の順番も、発言の順序も、誰が何を言い誰が黙るかも、すでに決まっていた。若い皇帝には、事前に概要だけを丁寧にお伝えする。それで十分なはずだ——そういう算段だった。
扉が静かに開いた。
エカチェリーナが入室した。黒のドレスに金のアクセント、短い黒髪が整然と整えられ、十八歳の細身の体躯に皇帝の威厳が自然に宿る。大臣たちが一斉に立ち上がり、礼をとった。彼女は最奥の椅子に着座し、卓上の議題書を一度だけ眺め、静かに閉じた。そして顔を上げ、窓の外に一瞬視線を流してから、口を開いた。
「始めてください」
それが、彼女の最初の発言だった。
2
議題は七項目あった。
第一項——東部辺境の道路整備計画の予算承認。陸軍大臣が立ち上がり、五分間の説明を行った。整然とした口調の中に、軍用道路の整備費用を民間工事として計上するという抜け穴が含まれていた。財務大臣が淀みなく賛成意見を述べ、他の大臣たちが次々と同調した。
(道路工事の請負先が資料に載っていない。だれが受注するのかしら)
エカチェリーナは静かに議題書のページを繰りながら、余白にメモを一行だけ取った。表情は変わらない。
「次を」
第二項——南方属州の穀物備蓄に関する規制緩和。内務大臣クラウスが立ち上がり、整然と説明を始めた。
(この人だけ、若干早口ね。何かを気にしている)
彼女はその顔を観察した。視線が卓上に落ちている。財務大臣の方を一度も見ない。
第三項——軍近代化予算の補正。財務大臣レオンハルトが立ち上がり、分厚い資料を卓上に広げた。
説明の概要は単純だった。老朽化した装備の更新のため、五百万帝国リブラの補正予算を計上する。執行は来年度の上半期。資金運用の管理機関として、帝都最大の財閥系銀行「ヴェルナー商会」に委託する——というものだ。陸軍大臣が補足説明を加え、他の大臣たちが次々と承認の言葉を述べた。
(五百万リブラ。「ヴェルナー商会」——財務大臣の妻の兄が頭取を務めているところね)
エカチェリーナはメモをもう一行書き足した。
(執行期間は来年度上半期。帝国財政の定期監査は来年八月。上半期末は七月。最終執行が、監査の直前に来る設計になっている)
彼女の表情は、一ミリも動かなかった。
第四項——港湾使用料の改定。第五項——皇宮附属学院の予算。第六項——北部国境の駐屯地再編。それぞれが説明され、承認された。会議室の空気が、少しずつ緩んでいった。財務大臣の肩から力が抜け、陸軍大臣が姿勢をわずかに崩す。大臣たちは、ほぼ確信していた——若い皇帝は、黙って頷く役割を引き受けてくれている、と。
第七項——翌年度の外務省運営予算。説明が終わり、承認された。
「以上をもちまして、本日の議題は終了でございます」
書記官が告げた。大臣たちが書類を片付け始め、椅子を引く音が重なった。
「少々よろしいですか」
エカチェリーナの声が、静かに部屋を満たした。
動いていた手が、一斉に止まった。
「第三項の軍近代化予算について、一点だけ」
財務大臣の背中が、わずかに固まった。
「執行スケジュールを修正してください。最終執行期日を来年七月末ではなく、九月末に変更すること。帝国財政の定期監査が完了した後に、最終執行が来るよう全体の工程を引き直してください」
部屋に静寂が落ちた。
「理由は単純です。五百万リブラの補正予算が監査サイクルの外に出ることを、私は好みません。監査官が全額を確認した上で執行完了を確認する——それが当然の手順と思いますが、何か問題がありますか、財務大臣」
最後の問いは、穏やかだった。柔らかく、丁寧で、断罪の色など一切ない。
財務大臣レオンハルトは、数秒間、完全に沈黙した。
老練な頭脳が、素早く状況を計算した。監査の後に最終執行が来るということは、すべての支出が監査官の目に晒されるということだ。ヴェルナー商会への委託手数料、その算出根拠、資金の流れ——すべてが。この一語で、六ヶ月かけて組んだ設計が、音もなく崩れた。
「……畏まりました、陛下。工程を引き直します」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
エカチェリーナは立ち上がり、黒のドレスの裾を静かに引いて退室した。
扉が閉まった後、評議室に重い静寂が残った。財務大臣は卓上の資料を、ゆっくりと重ねた。陸軍大臣は視線を窓に向けたまま、何も言わない。内務大臣クラウスだけが、かすかな笑みを口の端に浮かべ——すぐに、それを消した。
3
廊下を進みながら、エカチェリーナはゆっくりと息を吐いた。
(七項目中、実質的な問題があったのは一項目。設計は手が込んでいたけれど、崩すのは簡単だった)
石畳に足音が落ちる。窓の外に帝都の夏の陽光が広がり、風がカーテンを揺らす。
(財務大臣の手口は理解した。陸軍大臣との関係も。内務大臣が第二項の説明で緊張していたのは——前夜の会合で何か取引させられた。欲しいものを第二項に入れてもらう代わりに、第三項に黙った。あの人は今後、使い方によっては面白い)
彼女は歩調を変えず、執務室への廊下を進んだ。
(今日の一手で何かが解決したわけではない。彼らはまた別の手を打ってくる。次は、もっと巧妙に。でも——)
執務室の扉を開けた。机の上には書類が積まれている。エカチェリーナは椅子に腰を下ろし、最初の一枚を手に取った。
(少なくとも今日、彼らは学んだはずよ。この皇帝は、黙っているからといって——何も見ていないわけではない、と)
ペンを取り、書類に目を落とした。午後の執務が、静かに始まった。
了




