【R15】第1話 墓まで持っていく初恋 帝国暦215年6月
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皇宮西翼執務室は、夜の静けさに包まれていた。重厚なタペストリーが壁を覆い、窓から差し込む庭園の灯りが、執務机の表面を柔らかく照らしている。空気には淡い香木の匂いが漂い、昼の喧騒が嘘のように落ち着いていた。
エカチェリーナは机に向かい、深い思索に沈んでいた。黒の絹ドレスが彼女の細やかな体躯を優雅に包み、金のアクセントが袖口と胸元で控えめに輝いている。身長162cmのしなやかな肢体、肩の線で切り揃えられた黒髪が動くたびに優しく流れ、18歳という若さの中にすでに皇帝たる威厳が宿り始めていた。
彼女は今日、戴冠を目前に控えたこの夜、ついに心を決めた。幼馴染みのギュンターこそ、初恋の相手。世継ぎのための義務とは別に、初めての夜だけは彼に捧げたい──その想いを、誰にも明かさぬまま、胸の奥深くに秘めてきた。
幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇る。ギュンターは西方貴族出身の伯爵家次男で、皇族の遊び相手として皇宮に3年ほど住んでいた時期があった。歳の近い皇族たちにとって、彼は文字通り幼馴染みだった。エカチェリーナがまだ幼かった頃、広大な庭園で一緒に遊んだ日々が今も心に刻まれている。あの夏の午後、木陰で隠れんぼをした時、ギュンターは彼女の小さな手を握り、「リーナ、絶対に見つからない場所に隠してあげるよ」と笑った。今は身長175cmの彼は、当時からすでに背が高く、引き締まった体躯で、彼女を守るように立っていた。あの頃の「リーナ」と呼んでくれた優しい声が、今も耳に残っている。
剣術の稽古を見学した日のことも忘れられない。汗を拭う彼の横顔に、幼い胸が熱くなった。真面目で誠実、しかし堅物ではない彼の性格は、彼女の心に深く根を張った。その後も、ギュンターの消息は常に気にしていた。士官学校卒業後、近衛騎兵小隊長を経て、先日、エカチェリーナ自身が中尉への昇進を裁決したばかりだ。
「ギュンター……あなただけは、特別」
エカチェリーナは独り言のように呟いた。戴冠式は2週間後。18歳にして第12代皇帝の座に就く運命にある彼女にとって、この夜は特別な意味を持っていた。既に空座の皇帝の代理として執務に追われていたが、心のどこかで少女の頃の自分を忘れたくなかった。
今夜だけは、義務を忘れ、女として生きたい。初恋の相手に、すべてを委ねたい。
執務室の扉の向こう、控えの間に、エカチェリーナは背筋を伸ばし、穏やかな声音で呼びかけた。
「誰か」
すぐに、黒い制服を着た若い侍従が現れ、深々と頭を下げた。
「殿下、何なりとお申し付けください」
「陸軍近衛中尉、ギュンターを、ただちに応接間へ。密命である。誰にも知られてはなりません」
侍従は一瞬目を伏せ、すぐに了解の意を示した。皇帝の命令は絶対だ。彼は静かに退出し、廊下を急いだ。エカチェリーナは再び椅子に腰を下ろし、胸の鼓動を抑えきれなかった。心臓が、普段の冷静さを忘れたように高鳴る。窓の外、庭園の灯りが揺れるのを眺めながら、さらなる回想が彼女を包んだ。
ギュンターが皇宮を離れた後も、彼女は彼のことを忘れられなかった。成人し、近衛に着任した彼に訓示もしたし、警備や儀仗の任務に就く姿を何度も見たことがある。黒の軍服に金色の肩章を付け、背筋を伸ばして歩く姿は、幼い頃の記憶をそのまま大人にしたようだった。ある時、庭園で彼が馬を操る姿を見かけた。颯爽とした騎乗姿に、胸が締め付けられるような想いを覚えた。
窓の外で、微かに衛兵の交代を告げる号笛が鳴った。回想に耽っていたのは、ほんのひとときに過ぎなかったのだと、エカチェリーナは我に返った。
2
時間はゆっくりと流れ、執務室の時計が静かに時を刻む。彼女は立ち上がり、執務室に続く応接間に移った。黒のドレスが床に優しく擦れる音だけが響く。外の夜風がカーテンを揺らし、彼女の黒髪をわずかに乱した。目前に迫った帝位のプレッシャーが、再び胸を締め付ける。だが、今夜だけは違う。ギュンターの傍らで、ただの女になりたい。
「これでいい……すべてを、あの人に」
決意が固まった瞬間、扉の向こうから控えめなノックが響いた。エカチェリーナは深呼吸をし、穏やかな微笑みを浮かべた。
「どうぞ」
扉が静かに開き、ギュンターが姿を現した。黒の軍服に金色の肩章が映え、身長175cmの引き締まった体躯をまっすぐに立て、恭しく頭を下げた。鮮やかな敬礼が部屋の空気を引き締める。
「陸軍近衛騎兵連隊付中尉のギュンターです。殿下、お召しにより参上いたしました」
エカチェリーナは、彼の姿に惚れ惚れするような視線を注いだ。幼い頃一緒に遊んだギュンターが、今、軍人として立派に成長している。驚きと敬愛、そして抑えきれない昂ぶりが、互いの胸を熱くする。エカチェリーナの心臓も高鳴っていた。
「ギュンター。中尉への昇進、おめでとうございます」
社交辞令のやり取りが続く。もはや日常業務の一環として、日に数度もこなす内容だ。考えるまでもなく言葉が出てくる。
だが、次の台詞は、生まれて初めての言葉だった。日頃、老練の大臣や公使と、鉄壁のポーカーフェイスで丁々発止のやり取りをする彼女の声が、明らかに震えた。
「ち、中尉、その肩章、よくお似合いですわ。もっと近くで拝見しても?」
誘いの言葉に、ギュンターの瞳が揺れた。貴族の間では異性を誘う定型句だ。ギュンターも何度も言われたし、言ったこともあるセリフだ。あのリーナが、幼かったリーナが、今、自分を求めている。
ギュンターには、迷うのは失礼に思われた。しかし、返事をするのも何かを壊してしまうようで、数瞬が瞬く間に過ぎた。
エカチェリーナには、数瞬が永遠に感じた。もしかしたら断られるかもしれないなんて、思いもしなかった。思い上がっていた自分を嗤う。
「……はっ。ではあちらで」
ギュンターはエカチェリーナの手を取り、応接間に隣り合う寝室へと向かった。互いの足音だけが響く。寝室に入るやいなや、初めて唇を重ねた。エカチェリーナの体が小刻みに震え、ギュンターは優しく彼女を抱き寄せた。キスは最初、優しく、探るように。やがて深みを増し、彼女の甘い吐息が漏れた。
ギュンターの腕の中で、エカチェリーナは目を閉じた。この夜が、皇帝ではない、ただのリーナの最後の日になるはずだった。
寝室の扉が静かに閉まる音とともに、二人きりの世界に沈んだ。柔らかな絨毯が足音を吸い込み、大きなベッドが淡い灯りに照らされている。エカチェリーナの体はまだ小刻みに震え、唇に残るギュンターの熱が彼女の理性を溶かしていた。
「殿下……」
ギュンターの声が低く響く。
「見て……ギュンター。私を、ちゃんと見て。昔のようにリーナと呼んで」
彼女の声はかすかに震えていたが、瞳には明確な想いが宿っていた。ギュンターは頷き、彼女の名を優しく呼んだ。
「リーナ様……俺は、あなたを傷つけたくない」
「ええ……私、こんなことは初めてですのよ……でも、あなたなら、大丈夫」
灯りが一つ、また一つと落ちていく。
※――この先は、筆を置くこととする
3
言葉は多く要らなかった。互いの鼓動が、これまで交わしてきたどんな社交辞令よりも雄弁に想いを語っていた。エカチェリーナはギュンターの腕の中で、次期皇帝としての鎧をひとつ、またひとつと脱ぎ捨てていくような感覚を覚えていた。
月が中天に差しかかる頃には、静寂だけが部屋を満たしていた。エカチェリーナはギュンターの胸に頰を寄せ、満たされたような、それでいてどこか泣きたいような、複雑な安堵に包まれていた。
「リーナ様……」
ギュンターが囁く。彼女はただ小さく頷き、彼の胸に顔を埋めたまま、しばらく何も言わなかった。
窓の外が白み始めるまでには、まだ時間があった。二人はしばらく、言葉のいらない沈黙を分け合っていた。
夜半、隣り合う浴室で、エカチェリーナは静かに身を清めていた。湯気の向こうにギュンターの気配を感じながら、彼女は今夜という時間が、自分の人生の中でどれほど特別なものになったかを、改めて噛みしめていた。
寝室に戻り、二人は再び並んで横たわった。シーツの上、ギュンターの腕の中でエカチェリーナは静かに目を閉じた。心の中で、彼女はそっと囁いた。
「これは、私だけの秘密」
はっきりとした決意が、胸の奥に固まっていた。
(身ごもれば……この関係はここで終わらせる。気持ちを引きずらず、皇帝としての責務に徹する。私の初恋など、墓の中まで持っていく幾多の秘密の一つに過ぎない)
窓の外、夜明けの気配がまだ遠くにある頃、エカチェリーナはギュンターの寝息を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
そして少女の目がゆっくり開いたとき、皇帝のそれに変わっていった。
二週間後、エカチェリーナは18歳にして、第12代皇帝に即位した。
了




