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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第9話 ギュンターの戦争 前編 帝国暦226年3月

公都ラドムイシュ、公邸。宮殿と呼ぶには規模も装飾も控えめな、実務向きの建物だった。かつて先代の頃には迎賓の用途もあったというその一室は、今は地図と報告書に埋め尽くされた、ただの作戦室になっている。暖房用の薪も惜しまれる時節で、燭台の蝋燭は、常より一回り細いものに替えられていた。


参謀総長は、卓上に広げた地図の一点を指し示した。声には、隠しきれない疲労の色があった。


「前線は、この線まで後退しました。公都より、東へおよそ五十キロ」


ラドムスキ大公ヤンは、その指の先を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。仕立てのよくない上着は、この一年でずいぶん窮屈になっている。


大公が三男を喪ったのは、開戦劈頭(へきとう)のことだった。ヘウム市の防衛戦を指揮し、増援の来ぬまま陣地に踏みとどまり、そのまま帰らなかった。次男は、近隣のみならず、さらに遠い列強国の宮廷を回り、援助を乞う旅を続けている。昨秋、切り札の総動員令を出し、十五になったばかりの末の娘までもが、輜重(しちょう)隊に加わっていた。この国に、もう遊ばせておける手はひとつも残っていない。


「北部戦線から、山岳師団の一部を引き抜きたく存じます」参謀総長は続けた。「あちらは地の利がございます。兵力を減じても、短期であれば持ち堪えられるかと。それを東部戦線に回し、公都方面で反攻に転じます」


「北を、薄くするということか」


「その通りです」


ヤンは無精髭を撫でながら、しばらく黙って地図を見つめた。それから、顔を上げた。


「その作戦、有望なのか」


参謀総長の表情に、一瞬だけ苦いものがよぎった。


「予備兵力は、とうに尽きております。今、動かせるのは各方面の守備兵力のみ。北から引き抜くのも、他に手が残っていないというだけのことです」


一拍置いて、続けた。


「……ですが、これまでも敵軍に楽をさせてきたわけではございません。机上の計算では、勝算はございます」


その言い方に、ヤンは何かを感じ取ったようだった。だが、それ以上は問わなかった。




---


義勇兵としてこの国に渡ってから、じきに九ヶ月になる。


朝晩の冷え込みにも、公国語の訛りの強い将校たちの早口にも、ギュンターはようやく慣れてきていた。最初の数ヶ月は、外国人の義勇兵という立場そのものが壁だった。功を焦って前に出れば胡散臭がられ、控えていれば役立たずと見なされる。ちょうどいい立ち位置など、どこにもなかった。


その壁を崩したのは、劇的な出来事ではなかった。師団長イェジー少将は、寡黙だが人を見る目のある将官で、ギュンターの報告書の書き方——誇張も卑下もない、事実だけを積み上げる書きぶり——を早い段階で気に入ったらしかった。地味な実務の積み重ねが、少しずつ信頼に変わっていく。それに加えて、レンドリースで届く帝国製の小銃や野砲の扱いに通じていたのも大きかった。砲兵隊での経験は、公国兵にとってまだ勝手のよくわからない装備の使いこなしという形で、そのまま役に立った。頼まれるでもなく砲兵の間に混じって調整のこつを教えるようになると、故障や無駄弾の数字に、確実な変化が表れた。派手な功績ではない。だが、イェジー少将はそれを見逃さなかった。


夕食の時間になると、ギュンターはたいてい、ヴィトルト少佐と卓を囲んだ。開戦以来、常に前線にあったこの部隊では、少佐という階級の将校自体が貴重になっていて、二人は自然と近い立場に置かれるようになっていた。年齢も近い。皮肉屋だが仕事は速いヴィトルトとは、いつしかよそよそしさが抜け、互いに旧知のように話す仲になっていた。


「今日もジャガイモか」


配給の鍋を覗き込み、ヴィトルトがうんざりした顔をする。

帝国からの物資援助は、武器弾薬だけでなく、食料——それも大量のジャガイモを含んでいた。五年ほど前から皇帝が栽培を奨励しているものの一つで、秋を主に、南の一部では冬まで収穫される。穀物類の不作に備え、帝国がそれを買い上げて備蓄していた。

しかし輸送の都合上、日持ちのするものが優先されるのは道理だったが、連日これでは兵の士気にも関わる、というのが前線の共通認識になりつつあった。茹でたもの、潰したもの、皮ごと焼いたもの。工夫と呼べる工夫はとうに尽きている。


「贅沢を言うな。国境の向こうじゃ、これすら無い連中もいる」


ギュンターが淡々と返すと、ヴィトルトは肩をすくめた。


「帝国貴族の次男坊が、そういう説教くさいことを真顔で言うから困る。お前、故郷じゃ何食ってたんだ」


「大体、これと同じようなものだ」


「嘘つけ」


軽口の応酬は、いつものことだった。ヴィトルトは、ギュンターがなぜわざわざ他人の戦争に来たのかを、一度もまともに聞かなかった。詮索しないことこそが、この男なりの敬意なのだと、ギュンターは次第に理解するようになっていた。


そんな短くも穏やかな日々が崩れたのは、護衛分隊を連れて将校偵察に出たヴィトルトとギュンターが、林の中で王国軍の斥候らしき一団と鉢合わせした夜だった。数はおよそ五、六騎。闇の中での遭遇戦は、判断を誤れば命取りになる種類のものだった。


ギュンターは慌てなかった。声を張り上げることも、独断で突出することもせず、部下に短く指示を出し、隊列を崩さぬまま応射させた。斥候は数発の銃声のあと、闇に消えた。負傷者はなし。戦果と呼べるほどのものもない。


「何もなかったみたいな顔してるな、お前」


引き上げの道すがら、ヴィトルトがそう言って笑った。


「何もなかったわけじゃない」ギュンターは少し考えてから答えた。「ただ、慌てる理由もなかっただけだ」


特別なことは何もしていない。ただ、崩れなかっただけだ——そのことに、彼自身、意味を見出そうとはしていなかった。だがその静けさこそが、ギュンターという男の評価そのものになりつつあることに、彼はまだ気づいていない。


冬の間、じわじわと押されてはいたが、それでも何とか「支えている」と言えた戦線に、翳りが差し始めたのは、三月も終わりに近づいた頃だった。


「妙な数字が上がってきてる」


天幕に入ってくるなり、ヴィトルトがそう言った。いつもの軽さはなかった。差し出された偵察報告に、ギュンターは黙って目を通す。王国軍の後方に、これまで見られなかった規模の物資集積と、部隊集結の兆候。


「動くつもりだな、向こうは」


ギュンターは報告書を閉じ、天幕の外——まだ雪の残る野を眺めた。


そろそろ、か。胸の内でそれだけ呟き、席を立った。

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