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黒と金の玉座  作者: 吉原タシ


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第10話 ギュンターの戦争 後編 帝国暦226年3月

イェジー少将が前線視察に出たのは、昼過ぎのことだった。土塁伝いに前哨陣地を巡り、兵一人ひとりの顔を自分の目で確かめる——机上の数字より兵の顔色を信じる、少将らしいやり方だった。


夕刻、視察の一行が、土塁の切れ目をひとつ跨いだ、その時。


乾いた銃声が、一発。


林の際の茂みに潜んでいたらしい狙撃手が一人。少将は左脚を撃ち抜かれ、その場に崩れた。護衛がただちに応射し、狙撃手は姿を消した。騎兵が追ったが捕捉できなかった。血だまりの中、少将はすぐさま後方へ担ぎ出されていった。


副師団長もつい一昨日、病気で後送されたばかりだった。師団長・副師団長不在という事態に、幕僚は色めき立った。生存する佐官級の将校を至急招集し、指揮系統の暫定的な立て直しを図る——招集の報せが天幕に届いたのは、ちょうどヴィトルトとギュンターが夕食の椀に手を伸ばそうとした、その矢先だった。


「呼ばれた。行ってくる」


ヴィトルトはいつもの調子で言い、上着の襟を直しながら立ち上がった。


「飯、残しといてくれ」


「多くは残らないと思うが」


ギュンターが素っ気なく答えると、ヴィトルトは笑って天幕を出ていった。


いかに少将が目をかけていたとは言え、外国人義勇兵という肩書きは、こうした意思決定の場では今なお部外者で、招集はギュンターには及ばなかった。ただ、少将が撃たれたばかりのこの晩、椀を前にじっと座っている気にもなれず、彼は結局、夕食を切り上げて見回りに出た。


異変が起きたのは、日付が変わる前のことだった。


司令部テントの方角から、いくつもの銃声と馬のいななき、爆発音が三度、立て続けに響いた。ギュンターは考えるより先に、走り出していた。


たどり着いたときには、すでに大方が終わっていた。少数の騎兵による奇襲だった。地形と夜陰を利用し、哨戒線をすり抜けて密かに距離を詰めた敵は、迂闊うかつにも一箇所に招集された高級将校たちを、ほとんど一撃のうちに刈り取っていた。


倒れた将校たちの中に、ヴィトルトがいた。


「……何だ、そのしけた面は」


声はかすれ、血の混じった息とともに途切れがちだった。皮肉屋は、最期まで皮肉屋だった。ギュンターは何も言えないまま、その傍らに膝をついた。何か言葉をかけるべきだと思ったが、何も出てこなかった。ただ、手を握った。ヴィトルトの息は、いくらも保たなかった。


「少佐——あなたが、現在この師団で最上位の将校です」


師団長の副官が、震える声でそう告げた。


「他には」


「佐官がおりません。少佐が、最上位です」


開戦以来、連戦を続けていたこの師団では、一人、また一人と士官を欠き、すぐにその補充も絶え、既に大隊長代理を下士官が務めている隊すらあった。充足数が五割を切っているとは言え、師団など、本来なら、少佐ごときが背負う重責ではない。だが、その「本来」を担うはずだった者たちは、もういない。


拒む理由も、選ぶ余地もなかった。


「……わかった」


短くそれだけ答え、ギュンターは立ち上がった。


承諾した瞬間から、堰を切ったように報告が集まり始めた。弾薬の残量、各隊の兵力、後退路の状況——それに混じって、他の師団でも同様の事態が起きていたという断片的な情報も次々と届いた。ある師団は補給の隊列ごと後方を断たれ、ある師団には偽の撤退命令が、また別の師団には師団間の夜間同士討ちを狙ったと思しき命令書が、本物の暗号書式で紛れ込んでいたという。手口はそれぞれ違ったが、狙いは同じだった。指揮系統を、一夜のうちに、一斉に崩すこと。


夜が白み始める頃、物見からの報告が届いた。


王国軍が、攻撃隊形への移行を始めている——。


ギュンターは、地図から顔を上げた。


「砲兵隊に伝令。狙いは、あの隊列の先頭だ」


---


あらかじめ目印として積んであった石積み。夜明けの薄明かりの中、着剣した王国軍の縦隊が、まさにそれを越えた瞬間だった。


「撃て」


公国砲兵の斉射が、乾いた冬の大気を切り裂いた。着弾は縦隊の先頭に集中し、隊列の頭が瞬時に崩れる。長年、近衛砲兵として積み上げてきた経験——射角、装薬、着弾までの秒数の見積もり——が、初めて、実戦の形で報われた瞬間だった。しかし感慨に浸る間はなかった。崩れた敵の縦隊が、それでも数を頼みに前進を再開してくる。


実数が既に増強連隊程度に落ち込んでいる師団に、休む間などなかった。

砲兵の制圧射撃で出鼻を挫き、それをすり抜けて突撃してくる敵兵を、歩兵が土塁を頼みに迎え撃つ。

隙を見ては騎兵に迂回を命じ、硝煙と土煙に紛れて側面から接近し、騎兵銃を撃ち込み、擲弾てきだんを投げ込み、崩れればサーベルを抜いて追い立てた。天才的な閃きなど、どこにもない。ただ、知っていることを、知っている通りにやる。それだけだった。


そこから三日間、ヴロンキの高地を巡る攻防が続いた。


他の公国師団は押されて後退を重ね、ギュンターの師団のみが踏みとどまっていた。


三日目の朝、捕虜の証言と偵察報告から、王国軍の補給が底をつきかけている兆候が見え始めた。攻勢に出るための物量を、もう長くは支えられない——そう読めた。


昼、北から思いがけない部隊が到着した。北部戦線から長駆駆けつけたという山岳師団だった。ギュンターにその経緯を知る由もなかったが、他の公国軍が後退を続けたことで伸びきっていた王国軍の戦線は、この新手に、脇腹を晒す形になっていた。


山岳師団は、後退から反転した他の公国軍と呼応し、王国軍の脇腹を喰い破った。三日間持ちこたえた高地の守りから一転、その日のうちに反撃へと転じ、攻勢限界に達していた王国軍は後退を始めた。


後年、この一連の戦いは「ヴロンキ会戦」と呼ばれるようになる。だが、その渦中にいたギュンターにとっては、ただ、目の前の三日間を生き延びただけのことだった。


戦闘の後、彼の指揮権は「代理」から「正式」に改められた。疲れきった顔を無精髭で隠した公国軍の人事担当官は、書類に署名しながら、こう言った。


「我が国の人材の財布を逆さに振っても、もうほこりすら出てきません。少佐、しばらくこのまま願います」


冗談とも本音ともつかない言い方だった。ギュンターは、ただ頷いた。


帝国での参謀としての彼の評価は、凡百ぼんぴゃくであったが、壊滅寸前の部隊を実際に率いて踏みとどまらせたという実績は、参謀としての評価とはまるで別種のものだった。以後、彼の名は参謀としてではなく、部隊指揮の適性として、公国のみならず帝国の人事の記録に刻まれていくことになる。


---


それから、季節が幾度か巡った。


盛夏にはストシェルノ会戦、晩夏にはザモシチ要塞攻略戦。秋にはヘウム市を、市内レジスタンスと呼応して奪還。冬に入ると公国の戦線再編の隙を突き、王国が逆撃に転じてきたグニェズノでの防衛戦もあった。個々の戦いの細部を、ギュンターはもう克明に思い出せない。ただ、季節が変わるたびに、指揮下の兵の数と、自分の双肩にかかる重みだけが、少しずつ増えていった記憶がある。


公国優勢と見るや、勝ち馬に乗らんと、支援要請を受けていた近隣の小国の参戦も相次いだ。


そして、その冬の終わり、思いがけない報せが届いた。


王国東部で、王位継承権を巡る内戦が勃発したという。王国の天秤は一気に講和に傾いた。


捕虜となった王国軍の将校の一人が、皮肉げに漏らしたという話が伝わってきた。

緒戦の時点で、王国は「あと三月あれば片がつく」と踏んでいたのだという。「収穫祭には王国に帰って英雄として迎えられる」と。鹵獲ろかくされた文書の日付を辿ると、それはあながち誇張でもなかったらしい。二年を超えて続いたこの消耗戦は、王国にとっても、当初の見立てを大きく裏切るものだった。


停戦成立の報せが届いたのは、それからほどなくのことだった。

ギュンターは、その報告書を、副官からいつもと変わらぬ手つきで受け取った。感慨を、何か気の利いた言葉にしようとしたが、うまく形にならなかった。ただ、久しぶりに、腹の底からゆっくりと息を吐いた。


引き上げていく王国軍の隊列を、ギュンターは高台の陣地から眺めた。得るもののないまま、疲弊しきった兵たちが、寒々しい冬景色の中を粛々と後退していく。歓声を上げる者は、公国側にもいなかった。ただ、白い静寂だけが、陣地の空気を満たしていた。


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