第23話 問わずの三十年 帝国暦245年10月
朝の光は、もう夏のものではなかった。庭園を渡る風にわずかな冷たさが混じり始めている。落葉樹の梢が、朝陽を受けて橙に光っていた。アデルは、いつもより少し早く宮廷に上がった。今日で最後になる日を、いつもと同じ足取りで歩きたかった。
実務からは、三年ほど前にすでに退いている。退くと同時に、首席書記官の後任にはアドリアンを、と自ら望んで陛下に推した。あの日から、決裁の代筆も、書簡の起草も、彼の仕事になった。アデルの日々はこの三年、少し離れた場所から、彼の仕事ぶりを見守ることに費やされてきた。今朝も、部屋の隅からその様子を眺めた。アドリアンは訪ねてきた地方の使者に、事も無げに三つの選択肢を示し、相手に選ばせる形で望む答えへ導いていた。危なげのない捌き方だった。もう、見ていて心配になることはない。
とは言え、この三年、危うい場面がなかったわけではない。二年前、地方貴族の相続をめぐる案件で、アドリアンが連絡の経路を一本、通すべきでないところに通しかけたことがあった。アデルは黙って見ていた。止めるべきかどうか、ぎりぎりまで迷い、結局は何も言わなかった。彼は、締切の直前で自ら誤りに気づき、一人で経路を引き直した。あの日から、見守る手を少しずつ緩めても大丈夫だと、アデルは思うようになった。
今日、彼女がここへ来たのは、もうその見守りを続けるためではない。正式に、皇帝へ引退を願い出るためだった。
三十年——エカチェリーナの側に仕え、幾つもの「言わずにおくべきこと」を胸に収めてきた日々だった。
思えば、自分にも先達がいた。まだ書記見習いだった頃、当時の宮廷首席書記官に付いて回った時期がある。あの人もまた、多くを語らぬ人だった。「知らずともよいことは、知らずにいなさい」と、一度だけ言われたのを覚えている。あのときは、素っ気ない忠告としか思わなかった。今ならわかる。あれは技術の伝授ではなく、覚悟の受け渡しだった。三年前、アドリアンを推したとき、自分は同じものを、言葉少なに彼へ渡したつもりだった。
廊下を歩きながら、そんなことを考えた。宮廷の朝は、いつもと変わらぬ速さで動いている。侍従たちが書類を抱えて行き交い、遠くの広間からは、謁見を待つ者たちのざわめきが微かに響いてくる。この賑わいの中心に、いつも一人、静かに座している人がいる。誰よりも多くを知り、誰よりも多くを、決して口にしない人が。
陛下の言葉が半分出たところで、その先を察する。首席書記官に取り立てられ、それだけを磨いてきた。察することと、知ることは、似ているようでまるで違う。何を求められているかは知らねばならない。なぜ求められているかは、改めて言われなければ分からないままにしておく。その境界線を、三十年近く踏み外さずに歩いてきた。
尋ねないことが、彼女の忠義の形だった。
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午前、アデルは願い出た。長く支度してきた言葉は、思いのほか短く済んだ。
「陛下。永きにわたり、お側でお仕えして参りました。此度をもちまして、正式に御役目を退かせていただきたく、お願い申し上げます」
エカチェリーナは、書類から顔を上げた。驚いた様子はなかった。三年前から、いずれこの日が来ると分かっていたのだろう。しばらく、アデルを見つめていた。窓からの光が、机の上の決裁書の山を静かに照らしていた。
「よく、務めてくれました」
短い言葉だった。だが、アデルには、それで十分だった。
「そういえば」とエカチェリーナが、めずらしく砕けた調子で言った。「近頃、文字が少し霞むようになりました。歳を取ったのでしょうね」
「畏れながら陛下。私はここ数年、朝に膝が鳴ります。お互い、若くはございません」
「あなたに言われては、かないませんね」
エカチェリーナが、小さく笑った。アデルも、つられるように口元を緩めた。三十年近く仕えて、こうして共に笑い合った覚えは、数えるほどしかない。この人の若い頃の顔を、アデルはまだ覚えている。十八で即位したばかりの、まだ少女の面影を残していた横顔を。それが、今ではすっかり皇帝の顔になった。自分もまた、同じだけの歳月を、この人の傍らで重ねてきたということだ。
エカチェリーナは、傍らの侍従に短く命じ、退任の裁可状と、アドリアンを本日付で宮廷首席書記官に任じる旨を、整えるよう指示した。三年前の推挙から今日まで、すべて見越して整えられていたもののように、手続きに滞りはなかった。
「もう三十年になるかしら」
古い記憶が浮かぶ。凶作の年、叙勲規程集を届けたとき。「禁じる条項はございません」とだけ答えて、その先の意図までは尋ねなかった朝のこと。あるいは、間諜の一件で、外務省の文書の流れを線と印で描き、経路の図を差し出したときのこと。何が本物で、何が偽りかは、最後まで知らされなかった。ただ一度だけ、「首尾は、いかがでございましたか」と尋ねたことがある。あの時だけは、越えてはならぬ一線をわずかに踏んだ自覚があった。返ってきたのは、「上々よ。あなたの引いた経路のおかげ」という短い一言。それで十分だった。それ以上を望めば、自分の役目の形が崩れる。そう分かっていた。
「これからは、どこで」
エカチェリーナが、ふと尋ねた。
「東のノヴォグラートに、小さな家を持っております。姪が一人おりますので、しばらくはそこで」
「そう。……よい所ね、ノヴォグラートは」
それきり、話はそこで終わった。詳しく尋ねられることはなかったし、アデルもそれ以上を語らなかった。
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午後、アデルはアドリアンの執務机を訪れた。地方から届いた、扱いに慎重を要する報告書を、彼はすでに一人で捌いていた。表向きの経路と、内々の経路と——三年前なら、いちいち説明を要した判断を、今はもう迷いなく分けている。アデルは、しばらく黙って見ていた。
「いらしてたのですね」アドリアンは、顔を上げて言った。
「見ていました。よい捌き方です」
教えることは、もう残っていない。そう思った。
「この先で、何が動いているか——今も、気になりますか」
アドリアンはペンを置き、少し考えてから答えた。
「以前は、気になりました。今は……あまり」
「それは、なぜ」
「知ったところで、何も変わらない。それどころか知れば迷うと、分かってまいりましたので」
アデルは、小さく頷いた。教えたつもりのない何かを、彼はこの三年で、自分の手で掴み取っていた。
「……不安がないと言えば、嘘になります」アドリアンは、めずらしく本音を口にした。「今日から先、私一人で、務まるでしょうか」
「心配には及びません。陛下が、あなたを選ばれたのです」
「アデル様は、不安を覚えたことは」
「幾度もございました。それこそ、星の数ほど」
思いがけず正直な答えになった。アドリアンは、少し驚いたように瞬きをし、それから深く一礼した。
二年前、あの経路を通しかけたとき、何も言わずに済んだのは、幸運だったのではない。彼が自分で気づき、自分で正すだろうと踏んだからだ。その見立ては、外れていなかった。
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夕刻、アデルは最後に執務室を辞した。窓の外では、庭園の木々が夕陽に赤く染まり始めていた。扉の前で一礼し、退がろうとしたとき、エカチェリーナが顔を上げた。
「アデル」
皇帝は、少しの間、何か言いかけるように口を開いた。
「あなたには——」
そこで、言葉が止まった。エカチェリーナは、わずかに視線を落とし、それから、いつもの穏やかな声に戻した。
「長い間、ご苦労様でした」
それだけだった。続くはずだった言葉が何であったか——。
「もったいないお言葉にございます」
深く一礼し、アデルは扉を開けた。廊下に出て、もう一度だけ振り返る。夕日を背にしたエカチェリーナの表情は、逆光でよく見えなかった。ただ、黒いドレスの金の縁取りが、夕陽に淡く光っていた。
長い廊下を、アデルは静かに歩いた。すれ違う近衛兵の一人が、目礼だけを寄越した。長年、顔を合わせてきた男だった。言葉は交わさない。それでも、何かが伝わった気がした。この宮廷では、多くのことが、そうやって交わされてきた。
途中、書記官たちの執務室に立ち寄った。若い書記官たちが膨大な書類の山と格闘していた。自分にも、あんな日々があったのだろうか。もう、うまく思い出せない。
正面の扉を出ると、夕暮れの光が、金色に前庭を染めていた。
了




